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学校の国語の課題です。急いでます!

『物理的実体のまわりにかたちづくられてきた、 様々な関係が急速に変わりつつあること』 という文章が学校の課題で読んでいた本の中に出てきました。 具体例は書物で、書物の場合であれば それをつくるための 物質に関する知識やデザイン、 共同作業における人間関係、さらに読書を通じた教育といった、人間の身体の経験にまつわる多くの事柄が含まれる。 とあります。 しかし、この具体例があってもよく最初にあげた文章の意味が分からないのですが、何か他に具体例とかわかりやすいものないですかね?

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  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.2

この具体例は、実に分かりやすいではありませんか。  書物という「物理的実体」があるとします。書物が作られるためにはその原稿を書く人が存在し、それを印刷し出版しようとする会社の人々がいるわけです。一方、紙を生産する会社や人が必要です。印刷するにも、デザインをする人、製本をする人、その本を販売するための販売組織や書店も必要です。こういうふうに歴史的に発達してきた技術や機構が必要なのです。  さらに、出た本がどれだけの人に読まれるか、ということもあるし、その本を使って人に教える人も有るわけです。  こう見ると、一冊の書物が如何に多くの人や組織と関係があるか分かりますね。  「さまざまな関係が急速に変わりつつあること」というのは、おそらくそうした産業界に起こった、労働力というものを含めた変化とともに、書物が読まれなくなった、ということも有ります。それは、一つにはWEB関係の発達にも関係あるでしょう。電子出版等も関係するでしょう。   このように「想像力」がれば、理解可能でしょう。課題の報告に間に合わなかったら、ごめんね。

その他の回答 (2)

noname#204899
noname#204899
回答No.3

要は、モノの周りの関係が変わってきたという話ですよね 小さいレベルで考えるなら、AKBとか? 最初は総スカンくらって、次はオタクのみに支持されて、今や国民的アイドル(?)になったし。 AKBという物理的実体のまわりの関係が変わってきたってことですね。 まあAKBって物理的実体なのか?って気もしますが。 まあ、これをもっとデカいレベルで、なおかつ勉強チックに言うと書物の話になるんじゃないでしょうか。 この手の解釈は感覚ものですので、雰囲気が分かればいいと思いますよ。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

    たぶん間違いでしょうが、世の中には(1)見えるもの=物理的実体、と(2)見えないもの=心理的、精神的、社会的、関係がある。で(1)の回りで(2)が変わる、ということでしょう。     例えば、「天皇」という一人の人間(物理的実体)は変わらない、しかしその回りは戦前では「現人神(あらひとがみ)」という神様の関係、戦後では人間天皇としての関係に変わった、などでしょう。     あるいは福島第一原子力発電所と言う物理的実体は変わらない、しかし東日本大震災以前は、有用な電力供給源、というプラス、現在では放射汚染を垂れ流すマイナスの関係に変わった、などもあげられるかも。。。

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