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無限の半分は 無限。これが 神なり。

 無限は その半分も三分の一も いづれも無限である。  これは 補助線としてながら 神を概念として指し示している。  つまり 三位一体なる神のうち ひとつの位格(ペルソナ)は 三位一体なる全体にひとしい。これが 神である。  これを問います。どうですか?

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  • 3355Teach
  • ベストアンサー率11% (12/101)
回答No.2

Ωは何乗してもΩですが、無限という実在しないものは分割出来ません。ですから、半分も三分の一も無限なのです。 三位一体というのは、三つの位格が最初にあって、それらが一体化することではありません。唯一なる神が、三種の位格において現れるということです。それは一であることを壊せずして三であるということです。

bragelonne
質問者

お礼

 3335てぃーちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 無限という実在しないものは分割出来ません。ですから、半分も三分の一も無限なのです。  ☆ ええ。つまり 《無限》は そういった想像上のものだということだと思います。  つまりたとえば 人間は いつまでも生きているわけではないのに 《永遠》というコトバを持って使っています。それと同じようなものだと考えます。  つまり そういった――ともかく人間の使っている――コトバを用いて さらに神なら神を説明することは出来る。こういう趣旨の質問です。  ★ ですから、半分も三分の一も無限なのです。  ☆ というところまで しっかりと確認してすすまなければいけないと思ったところからの質問です。  三位一体と言うと それぞれが三分の一づつに成っているという誤解をまねくことが しばしばです。つまり コトは 神にかんする話だと言っても この経験世界でのモノゴトと同じようにあつかう。つまり あつかわれてしまって 話が進まないということが よくあるのです。  ★ 唯一なる神が、三種の位格において現れるということです。それは一であることを壊せずして三であるということです  ☆ ええ。つまり ひとつの位格としての個は ほかの個とそれぞれひとしく その個は三位一体なる全体ともひとしく 全体は 個それぞれとやはりひとしい。こういう説明が――想定としてながら―― ふつうの妥当なものであるということ。これの確認のための質問なのでした。  ありがとうございます。

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その他の回答 (3)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

B様、こんばんは。 たぶん、「何かから、導出」?してしまったら、それは「神」?

bragelonne
質問者

お礼

 意味が読み取れかねています。

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回答No.3

集合論の初歩でも勉強すれば? 問いますじゃなくて少しは自分の頭で考えましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 Y_なるかみさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  回答No.2でのやり取りで この質問は 《確認のため》であると説明しました。  ★ 集合論の初歩  ☆ であるのかどうかわたしはあやふやですが そのことが まだ普及していないことを知り いちいちこの確認のための質問をしています。ご理解ください。  Y_なるかみさんは   ● 〔* 世界の〕全ては人が心の中に描いた願いである  ☆ とお考えですか? ちがいますよね? すべてではない。  無限は そのコトバや文字やまたその内容説明は 人の心の中に持たれておさまりますが それは無限の仮りの説明であって補助線であり 無限の本体は 人間の心の中にありおさまるとは言えません。このことを確認しようとしての質問です。  あるいはまた 《三位一体なる神》については 或る程度回答No.1でのやり取りにおいて 説明しました。  そういった質問になっています。

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  • pricedown
  • ベストアンサー率38% (69/181)
回答No.1

違う場合が多々あるような気がします。 そもそも何故三位一体になる必要があるのか? もしかしたら三位一体になる必要がなく単独でも万能の神として機能する場合もあることでしょう。しかし、三位一体とならなければ万能とはならないパターンも考えられると思います。 たとえば、梅干のおにぎりを考えましょう。海苔、ごはん、梅干が一体となって初めて梅干のおにぎりを形成することが可能です。このうちどれかひとつ又はふたつがかけても食品としての最低限の機能は果たせますが、梅干のおにぎりという完成形にはなりえません。

bragelonne
質問者

お礼

 ぷらいすだうんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ そもそも何故三位一体になる必要があるのか?  ☆ これは つい昨日に閉じた次の質問であつかいましたので はぶいています。     【Q:三位一体なる神は 無宗教である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8466069.html  でも 不案内になってしまい すみません。  質問者の考えにしたがって ご返答してまいります。  ★ もしかしたら三位一体になる必要がなく単独でも万能の神として機能する場合もあることでしょう。  ☆ これは 人間の身でいながらでは 決定的なことは分からないでしょうし ひとつの答えが仮りに分かったと思ったとしても それがただ一つの解であるかは 分からないでしょうね。  ただし そのひとつの解を提示してみせることは出来ると考えます。それが 上の質問における趣旨説明です。つまり ここでは繰り返しませんが たとえばこれこれこうではないかということを示したものです。  ★ しかし、三位一体とならなければ万能とはならないパターンも考えられると思います。  ☆ これは どうなんでしょう。おそらく 聖書に固有の説明の仕方なのではないでしょうか。  いわゆる古来の神観においては ブラフマニズムでは ブラフマンを主宰神としつつ創造のヰシュヌと破壊のシワとの二神を合わせて やはり三神の一体となったかたちを取っているという説明もあるようですが これも 基本的に言って その《一体性》の中身が まったく違っています。  その基本的な中身として 聖書の神は 《神はみづからに似せて ひとを創った》というようなタトエを用いることにおいて この神の三位一体と人間の三つの行為能力の――時間的な差をともなう―― 一体性との類似が説かれる。このように 《ひとは 神の似像(にすがた)である》という神論と人間観とを示すものは なかなかほかには無いように思われます。  もっとも 先ほどのブラフマニズムにあっても マクロコスモスの神ブラフマン(梵)とミクロコスモスの人(我)とが 梵我一如というように 一体だと説きます。これは ブディズムでも 神であるブッダ(アミターバなど)の霊としてのブッダター(仏性)が われわれの心にやどるというような意味での 梵我一如(または 仏仏一如)という類型であると思われます。  そういう意味での《神の霊が われにやどる》というかたちの一体性は 見られますが 人間の記憶・知解・意志なる三つの能力行為が 神の三つの位格(父と子と聖霊)とに類似しているといった内容としては 聖書に独自のものだと考えられます。  ★ 海苔、ごはん、梅干が一体となって初めて梅干のおにぎりを形成することが可能です。  ☆ いぢわる反応をしますと やはり塩が欠けてはなりません。つまり 一般に見られる事例というのは 必ずしも《三つ》という数に必然性がないように捉えられます。ということを言いたいと思います。  三つという数が取り出せても なぜ三つであって 二つでも四つでもないかというウタガイが消えないでしょうし 仮りに三つという数字に必然性があるように見えたとしても それでなければならないとまでは言えない。のではないでしょうか?  つまりたとえば 先ほどの 主宰神ブラフマンと 誕生の神ヰシュヌと変化の神シワとのあいだに 三つから成ることについての必然性があると見たとしても その意味について疑いがかけられます。つまりは 誕生も破壊も 主宰神ブラフマンがその役目をになえば それで済むことだという物言いです。  かくのごとく 聖書の三位一体なる神論は 特異なものである。こう考えられますまいか。

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