剣道部の体罰に思う事

このQ&Aのポイント
  • 剣道部員が顧問から引きずり回され、壁にぶつけられる映像が問題になっています。
  • 体罰を受け入れる運動部について、肯定的な意見もありますが、私の経験から疑問を感じます。
  • 一部の生徒は体罰を受け入れ、強さを求める一方で、その暴力的な感覚に私たちは受け入れられません。
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剣道部の体罰に思う事

 30代男性です  大分県の中学校で剣道部員が顧問から引きずり回され、壁にぶつけられる映像が出ました  それが問題になっております  これを肯定的に捉える方は  「それでなにくそと云う闘志がわく」「限界を超えられる強い精神を生み出す」と  云う話を聞いた事があります  私の経験から皆様方に問いたいことがあります  私の中学時代、強豪な運動部がありました  そこにはその伝統があり、体罰を受け入れる土壌があり、  信奉されている方は、それで良いともいえるのですが(と云う書き方をすると問題があるかも  しれませんが)  私は運動音痴で暴力的な雰囲気が嫌いだったので見学、仮入部の期間に辞退し、  私の近所に居た同級生も「勉強する時間がない」「暴力的な雰囲気が嫌」と云う事で  数か月在籍し退部しましたが、彼には部員は体罰を加え、  顧問は部員に「関わるな 一切口を聞くな」と云っておりました。  私も同級生の彼も「他で失礼な事をしてまで、顧問や先輩に絶対服従できない」と云うのが  一番矛盾を感じた要因でした  同級生でこの部に入り、見事にはまっていたものが居りました  彼は粗暴で、血の気が多かったのです  そして「男に成る」とか「男を磨く」と云う様な事を云っておりました  彼は顧問や先輩からの体罰を有難いと受け入れ、部員やクラスの大人しい生徒等に  「鍛えてやっている」と同じ事を行っておりました。  彼はそれで感情をコントロールさせていたみたいです  そして、彼は放課後街でも喧嘩をしたり、因縁をつけたりという行動をしておりました  家でも「男に成れ」と暴力三昧で育っていたので、顧問や先輩の体罰やいじめまがいの事も  「有難い」と受け入れておりました、「あの先生がいてくれたから、大荒れせずに済んだ、  暴れたり、もっと酷いいじめや暴力をするエネルギーをあの競技に向けられ、鍛えられ、  忍耐と処世術を学んだ、だから感謝している」と云う様な事でした  私や退部した同級生も別にいじめや非行の問題は起こしませんでした  暴れてみたい気持ちとかいじめたいと云う気持ちも無かったのです  唯、顧問側の立場からすれば、やることはやるが闘志がなく覇気がない  それを生み出すのが体罰である、だから後者の彼の様な形が理想で彼の様な生徒が自分の理想と する形にできるので良いと云う事なんだと思います。  ご回答宜しくお願い致します  (運動部が別に全てこうだとは申しません  又この運動部が間違っているとも申しません、顧問も先輩も後述の同級生もそこには  優しさがあり、鍛えられ強くなったと云う意義はあると思いますが、  私は暴力的な感覚が受け入れられなかったのでその時点で彼らの立場から見ると  軟弱者 問題児となるのでしょうか?)  

noname#250543
noname#250543

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  • ベストアンサー
  • kekooba
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回答No.3

>その時点で彼らの立場から見ると軟弱者 問題児となるのでしょうか? 暴力を容認する人達から見たら、軟弱者となるかもしれませんが、 暴力に疑問を感じて退部したあなたや友人こそ、ノーマルです。 運動部での暴力を色々と美化して容認する人達がいますが、 暴力は暴力です。 言葉で相手を指導したり、自分の意思を言葉で伝えらない人達が、暴力に訴えるのです。 つまり「暴力を行使する人達」は、どのような言い訳をしても、文化的レベルが低い人達なのです。 顧問教諭が生徒に暴力を振るう。 上級生が下級生に暴力を振るう。 暴力を振るわれた者が、クラスの同級生に、その運動部でやられた同じ技(?)で暴力を振るう。 これらは全て、強い立場の者が弱い立場の者に暴力を振るっています。 暴力を振るう顧問教諭は、校長先生や教育委員会の人達に同じ事ができるでしょうか? 暴力を振るう上級生は、高校生1年生になった時に、上級生達に同じことができるでしょうか? できないのであれば、それは単なる「暴力」であり「虐待」です。 暴力から逃げだす者を軟弱者などと言っている競技は、 時間の問題で消滅するでしょう。

noname#250543
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます やはり、暴力を美化し受け入れられない者を排除していくやり方は長続きしないのですね

その他の回答 (2)

  • rokometto
  • ベストアンサー率14% (853/5988)
回答No.2

まあ確かにそういう面もあるでしょうね。 ただ私は教育者を目指すものとしてそれを断固受け入れることはできません。 私は暴力で服従させること、それを教育や指導ではなく「調教」と呼んでいます。 指導というのは望ましい方向を指さし導くことです。 髪の毛をつかんで引きずることではありませんから。 そしてこういう名言があります。 暴力的な監督が率いるチームはそこそこまで勝つかもしれないが優勝はしない、と。 なぜなら勝か負けるかの時、最後に一押しする精神的なささえが何もないからです。 仲間を信じ、自分を信じ、練習を信じ、そして指導者を信じる関係ができたチームが実力差をひっくり返すこともある、ということです。 つまりその剣道部は指導ではなく調教をしていた、と私は解釈します。

noname#250543
質問者

お礼

やはり、調教ではある程度までは強くなるが、そこから先は進まない考える力を欠くのですね?

noname#201032
noname#201032
回答No.1

>その時点で彼らの立場から見ると軟弱者 問題児となるのでしょうか?  はい。なります。 そもそも、体罰って何でしょう?体罰と暴力は何が違うのでしょう?私の考えを言わせてもらうと、基本、同じような意味です。しかし、違う点が1つあります。それは、「想い」です。体罰というのは、その名の通り、「体」に「罰」を与えるという意味ですが、ここで言う「体罰」は、少し意味が違ってくると私は考えます。例えば、殴ったのであれば、その拳には色々な想いがこめられているのです。「怒り」の感情や、「強くなって欲しい」という想い等々、人それぞれにこめられた「想い」があります。 しかし、今の時代、その「想い」が伝わらない子供たち、ただただ自分の不満を晴らしているだけの教育者、挙句の果てにケガを負わせてしまう教育者まで増えてきています。相手に伝えたい想いがあるならば、絶対にケガなんかさせるはずないのです。最近は、生徒に暴力をふるったりして、「俺は厳しい教育者だ」と勘違いしている教育者が増えています。そういう人間は教育者の世界には、必要ない存在なのです。いや、追放する必要があります。 あまり回答になっていなくてすみません。

noname#250543
質問者

お礼

ただただ自分の不満を晴らしているだけの教育者、挙句の果てにケガを負わせてしまう教育者まで増えてきています。相手に伝えたい想いがあるならば、絶対にケガなんかさせるはずないのです。最近は、生徒に暴力をふるったりして、「俺は厳しい教育者だ」と勘違いしている教育者が増えています。そういう人間は教育者の世界には、必要ない存在なのです そうですね 「思い」もそれぞれなのにその辺りを顧みないと唯の暴力に成りますね

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