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謝れない方へ質問
自分が(にも)悪い(ところがある)と認めつつも謝れない方。 何故ですか? 出来るだけ詳しく、解り易ければ事例なども併せてお答え頂けると嬉しいです。
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- oredesu123
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またまた oredesu123 です。 オレの中で、回答を書き込むのにマジになったら面白くないと思ったので、この質問に書き込んだのは全部「遊んだー」みたいに思っておきます。 で、力の拡散ですが、誰かが誰かに攻撃の力で破壊を加え殺した時に、相手へのその破壊の力が念か何かの力によって、攻撃された人の「家族」と呼ばれる人の存在エネルギーそのものへ直接向かい破壊攻撃の手が加えられていたのなら確かに力の拡散はその「家族」と呼ばれる人に起こっているかもしれないですが、世間で起こっている殺人事件のそれを悲しむ被害者家族のところにはたぶんそんな現象は起こっていないはずです。そこに何が起こっているかと言えば、簡単に言うと「被害者家族」と呼ばれる人の「勘違い」です。テレビで流れる記者会見で被害者家族が、「殺された自分の息子」や「殺された自分の親」と言っている「息子」や「親」とゆうのは、世界を動かす事実のエネルギーはどうあれ、彼らの頭の中の主観によって思い込んでいる言葉やそのイメージとしての「息子」や「親」でしかなく、頭の中の「家族」「殺し」「家族を殺されると悲しい」とゆう生きている中でどこかで聞いた知識による図式で実ではない頭の中の主観的イメージで加害者を悪く観て勝手に憎んでいるだけのはずです。もし「被害者家族」と呼ばれる人達がそれらの世間的な知識の情報に流されず、世界の正しい力の係りを見極めているのなら、自分に親しい者が殺されたり死んだりしてもそれは自然現象でありその理によって死に至ったのであって加害者を憎んだり恨んだりするような妄想的な状態へは陥らないはずです。つまり加害者を「憎い」「許せない」と言ってダメージを喰らっているつもりになっているだけの頭の中の勘違いで、正しい現象の姿を把握出来ていないまま世間の情報に流されてのテレビの悲しい記者会見になっているだけで、そこに起こっている現象は「勘違いの力で動いてしまっている」とゆうまやかしの現象であって、「加害者による破壊の力の拡散」と直接言う事は出来ないですし、力の係りが起こっていたのはあくまで加害者が被害者を何らかの力で(それすら妄想の力によるものかもしれないけど)殺したとゆうところまでであって、その先で起こる被害者家族の悲しみとゆうのはその「被害者家族」側における勝手な勘違いの行為でしかないです。つまり殺しとゆう力の係りは殺す側と殺される側の間だけに働くのやり合いの力・相対の力であって、そのやり合いの力以外の「家族の悲しみ」や「警察や裁判所の介入」とゆう力は「家族」「警察・裁判官」と呼ばれる者が勝手に横から出てきて勝手な頭の中の勘違いによって、人の世界である場へ悲しみの姿や憤りの姿を描き現しているにすぎないのであって、被害者家族へ破壊ダメージが加わったとゆう力の拡散は世の大体の事件にはたぶん起こってはいないです。 さらに言えば、それらの勘違いの力によって殺人事件が実際に起きてしまったのなら、その勘違いであるまやかしの力(妄想の力)で起こった殺人とゆう現象を自分の場である「心」から潰し捨て去り滅して無くしてしまう事によって自分の心の現われである世界とその流れである歴史の中から、勘違いの間違った力による出来事を無くす事が出来るし、間違った力の係りは無くなっていけば無くなっていくほど、自分の心である世界は間違いの無い本来の自然の状態に戻っていくとゆう事であり、心に現れた良くないと思えるような力を滅して無くしてしまうのは正しい事でしかないですし。それに人生とゆうものを描くにあたって、自分があまり良くないと思うような事が描かれてしまっている状態の人生は全然いいものではない、みたいな感じですし、人生とゆう一つの物語をいつでも好きなように描けるなら悪い力は滅して無くしてしまって、自分が良いと思えるストーリーを自由に描き現したほうが全然いいですし。 それで心の中から悪いと思える力を捨てて無くしてしまえば、その悪いとゆう力は自分の心に入って来る前にあったところへ帰って行き、それによって自分とは無関係になるのであり、その間違いの去った世界の状態がより本来の自然な状態なのであって、むしろ悪いと思われる力はどんどんやめて無くして行くべきだと思います。悪い力が去って無くなった状態の世界のほうが一つの作品として観ても面白いと思えるはずです。 みたいな!。
- oredesu123
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引き続き oredesu123 です。 オレの答えとしては如何なる質問にも「よくわかんないっす!」と言うのが返答です。 でも、もしファンタジー物語的な世界観がこの世界で通用する部分があるんだとすれば、もう少し古代の哲学的みたいな事を書いてみます。もしかしたら荒唐無稽な話になるかもしれませんが。 宙に吊った振り子を右から左に打つと、打った力は左へ進撃し振り子を真ん中より左へ追いやります。その後、掛かった力が尽きると左へ行き切った振り子は真ん中へ戻るどころか右へ反撃を開始します。そして今度は右へ向かった力は次第に衰え力尽き、左へ戻る、どころかまたさらに左へ進撃を加えます。ここに見られるこれらの自然の力の理とゆうのは世界全ての現象にも同じように働いているらしく、誰か(右)が誰か(左)に攻撃を加えたなら振り子と同じ理で、相手(左)に掛けた力は自分(右)に返ってきて追いやられ、その返ってきた力が尽きると今度はまた相手(左)に進撃を返す、とゆう自然の長い歴史におけるやり合いである相対の関係らしく、それはやる側とやられる側の間の力の掛かりであって、家族や警察や裁判所などの他の存在は元々一切関係無いとゆう事です。 なのに被害者の家族が泣くのは、加害者が遥か昔にその被害者に同じだけの力を加えられ攻撃されたとゆう力の掛かりを知らずに、自分の家族が攻撃されたとゆう部分だけにとらわれて、泣いて加害者を非難しているのであり、でもその被害者に加えられた攻撃の力とゆうのは同時に被害者側も相手に掛けていた攻撃の力とゆう事になります。そしてその攻撃の力は被害者と加害者の間に働くものであって、別にその事件に家族は関係なく、警察や裁判官が裁くものですら無いのに横から出て行って騒いでいるとゆう事のようです。左右に振れる振り子は関わらず自然に放っておくことによって、いずれ力尽き真ん中で静止し力は無くなりやり合いが終わる、のであり、何かの潰し合いに周りが介入するのは静止するはずの振り子をさらにブラして自然の流れを壊しているのでしかない、みたいです。誰かが誰かを殺したなら、それは長い自然の歴史の中で過去に殺されたのであり、その反動で殺し返したのでもあり、またその殺しの力が尽きて静止するまでその殺しの力を掛け合い続けるのであり、片方を警察や軍隊に身を守らせたとしても掛けた殺しの力はめぐって来て、力の働きの理的に殺されるに至る、とゆう事です。 つまり警察や国の法律の言う「悪」とゆうのは、片方に殺しの力がめぐって来たところを持って、「お前は悪い事をした」と勝手に横から出て来て、勝手に逮捕し裁いているのであり、あまり意味のある行為では無いとゆう事になります。そして殺しの力を掛けている本人達自身がこれ以上悪い力によって振り子をブラすような事をやめる事によってすんなり自然に殺しの力は尽きて行き消滅する、のですが、前の回答で書いた「今」とゆう心の現れの場から振り子をブラす力をやめて無くし、自然にまかせてそれら相対の力とゆうの終わらせる事によって心の広がりである「世界」からその殺しの力は終わる、のですが、ただその歴史において殺しの力があったじゃないかと言われれば、その歴史すら心の現われでありその歴史そのものすら心によって自由に描ける、とゆうのがまた理でもある、とゆうのがさらに達した哲学者の精神のようです。この時点でもうファンタジーです。 で、誰かが誰かを殺すのは、「殺す」とゆうのはその対象の形を壊すとゆう事であり、「壊す」とゆうのはその形を部分的に奪い去ってしまう事で、つまり「誰か」とゆう人の心が何かを欲する時、そのままの形を壊して奪っていく、つまり「殺す」とゆう事になるようです。「人」である心が欲望を持つ時、それを手に入れるためにその対象辺りを壊し奪っていくのが殺しであり、それが既に相対のやり合いの一部になっているみたいな事です。そのやり合いの起こっていない、もしくは起こった後の静止した状態である 相対の無い心は無垢な状態の心であり、その心が欲望にとらわれる時、奪いやその殺しの力を開始するとゆう事です。 その欲望の力とゆうのは世間に広まっている力であり、その力を見聞きする事によって心は欲望の力にとらわれ、振り子の振れへと進撃を始め、世で相対の力として長い歴史の中で殺し合い奪い合い犯し合うとゆう事になる、ようです。 つまり、人である心が世の何かにとらわれた時攻撃を開始し、その反動でいつか自分が攻撃され返されるとゆう事にもなり、余計な力の介入も無く自然にそれらをやめる方向へ向かったなら、「心」からそれらの、やらなければよかった、と思うような力も無くなり去って行き、世にとらわれない無垢で自由で歴史すらも描く心を取り戻す、とゆう事のようです。 で、最初の質問の「謝る」とゆうのの事ですが、謝る時点でまだ自分の心の広がりである世界やその歴史に、「悪い事をした」と思った現象を描いてしまっているとゆう事です。深層意識だのなんだのの話をすれば、「謝る」とゆう手を打つ事によって既にその深層意識でその原因である「悪いと思った出来事」を描いてしまっているとゆう事です。そんな出来事さえ無ければ謝る必要なんて最初から無いですから。 謝ろうとしている限り、常に世界の歴史にその悪いと思った出来事を描き続けている、その良くないと思う力を掛け続けているとゆう事になるのであり、謝ろうとするのをやめた時その悪いと思った出来事自体を潰していける、みたいな感じじゃないんでしょうか。 ようするに結論を言うと、謝らなくていいからそんな事を描くな、とゆう事です。 「そんなの哲学を極めた人でもなければ無理だ」、と言わずにやめたい力はやめていけ、みたいな感じです、みたいな。 以上、またオンラインゲームに戻ります!!
お礼
ごかいとう。。。ありがとう。。。ございます。。。 長い!orz 途中でよく解らなくなって来ました。 でも、エネルギー保存の法則は"周辺に運動エネルギーが拡散"する事によっても位置エネルギーに還元して行きますよね。 つまり「殺された」という衝撃が家族という周辺に拡散したわけです。 ビリヤードで最初の一突を打つと自分の白玉がものすごい勢いで9ボールに当たりますが、当たったとたんに白玉は静止し、その変わりに白玉が持っていた運動エネルギーが9ボールに移り、9ボールはものすごい勢いで弾けるわけです。 これは9ボールに勢い良くはじけるカルマがあったというよりは白玉の運動エネルギーが拡散したという方がより適切だと思うのです。 でもこれは仰っている世界を踏まえるとカルマを頭ごなしに否定しなければ成立しませんから、無意味かもしれませんね。 でも、カルマも否定はしませんが、積極的に肯定をする気にもならず、私的にはやはりエネルギーが拡散したと捉えています。 そして、最後のまとめが「とどのつまり”無かった事にしたい”という事?」という風に纏まってしまっている様に思えますが受け取り方は正しいでしょうか?
- oredesu123
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さっき書き込んだ oredesu123 です。 質問の「自分が悪い」とゆう部分を、テレビニュースなどで流れている販売店の値段の詐称や料理名の誤表示などでの会社社長と記者とのやりとりの、社長が謝らされている感じの部分を連想してのさっきの書き込みでした。 ナイフで相手の肉をえぐってしまった、となると、こちらもあまり余計な事を言っても世間的に非難されるかもしれないのでここでは沈黙しておきます。 関係無い話になるかもしれないですが、しかもこの科学の時代にちょっと常識的では無い事かもしれないですが、別に信じなくていいですし、ちょっとした座興として書いときます。 古代の哲学的に言うと、今自分が見ている世界、リアルに感じている場とゆうのは自分の心の現われでありその広がりとして世界がある、とゆうのが大体の哲学の基本みたいなところがあると思うのですが、悪い力として自分が誰かの肉をえぐってしまった、となると、そう心に描きあらわしているのは自分であり、その悪い力を止め心の中からそれらの力の掛かりを潰して無くしてしまえば、「世界」とゆう心に現れていた「肉をえぐる」とゆう現象自体を滅する事が出来る、とゆう事にもなるみたいな?。 世界をどう描くかは心の自由であり、「悪い事をした」とその出来事を気にとめていたなら、それはその出来事を世界に描き続けているのであり、その出来事が起こっていない世界を今描けていないとゆう事になり、そのぶん描きの自由を制限されていて、何も気に病むような事の無い心の自由な世界を描けていない、とゆう事になるみたいな?。 だからどんな悪いと思えるような事をしようがしまいが、謝るなんてゆう心の不自由な事をしているよりも、自分の望むような世界を現時点での世界を覆してでも描き現すべきで、その時、やらなきゃよかったと思えるような不自由な出来事は描きさえしなければもう自分の心からは去って無くなっている、みたいな感じが古代哲学の言うところだと思います。 以上、もうオンラインゲームを始めたい時間なのでここら辺で書くのをやめておきます。 *注意! 別にオレは無宗教ですし宗教否定派なので、危ない奴とは思わないで下さい!!。
お礼
ご回答ありがとうございます。 どうぞごゆっくりオンラインゲームなさって下さい。 仰る事は理解できる次元があるのですが、別の次元ではやはりそれで通すわけに行かないというものもあります。 「次元」という言葉を使ったのは「側面」などの言葉が連想させる数%の範囲でという意味ではなく100%受け入れる事が出来るという事を強調したいからです。 でも全く別の次元「つまり全く別の100%」として通すわけにはいかない意見もあります。 例えばレイプされた人、殺された人間の家族の場合などはどうでしょう? 「心の働き」ですみますか? 「明らかな害が他人に及ぶ事」はあると思いますが。 もし心の働きであるなら、その当事者はどうやって選定されるのでしょう? そこには確実に「本人の意思」が関与していると考えられます。 もし大きな力がその人を動かしたのだとすれば心神喪失状態で無罪。 こうなるにも様々なテストのクリアが必須です。 とにもかくにも「加害者の意思」は確実にある筈だと思うのです。 本人が読んだかもしれない。でも呼ばれた方も確実に「応じた」のです。言い逃れはできません。 「謝るべき」部分はあると思います。 如何でしょう?
- oredesu123
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謝るとゆうのは礼儀であり、礼儀とゆうのは本人の気持ちでやるものであって、他人から強制されられるものでも無ければ、やらなければいけないとゆう絶対的な決まりがこの世界そのものに存在しているわけでもなく、その謝り方とゆうのもあくまで人間の主観によって作られた勝手なしきたりでしかないので、謝るとゆう行為は元々やる必要は無いものだと思います。世間の人々はそれらに気づかず謝れ謝れと言うのでしょうけど。 自分が悪いと思っているなら、その誰かに掛けた悪い力の部分を自分の場である心から潰して止めて無くしてしまえば自分の中からそれらの力の掛かりは去っていき、その誰かに悪い力を掛けた出来事はもう関係無くなっておりそれが「反省」なのであって、いくら謝っても悪い力が掛かったままだったらそれこそ謝っても何の意味も無いです。 謝らなきゃいけないと言って謝るのは人間の妄想的な知識によるものでしかないので謝るとゆう行為自体は本来必要の無いものだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そういう風に考える方もいらっしゃるのですね。少し新鮮です。 「悪い力を無くせれば」確かにそれはそれで謝罪行為の一種と捉えられなくもありませんが、謝罪行為というのは改まる改まらないを別にとりあえず現時点でしてしまった事への謝罪行為であるので、今後改まるか改まらないかはまた別の話しの様に思えます。 謝罪したとしても治らない/治そうと思っても治らないものもあると思います。 そんな時にでもその旨伝えて謝罪していれば2度3度されても仕方ないと思えるのが相手です。 つまり、謝罪というのは本来「相手を安心させる/相手の気をなだめる」ためのものであり、以後するかしないかは二の次の様に思えます。 すごく大胆に例えると、ナイフで相手の肉をえぐってしまった。そのままにしておくと出血多量で死んでしまうのでえぐれた肉を抑えて「出血を少しでも少なくするために抑える行為」と言えると思います。 そういう意味で、謝罪の対象は今後もさることながらむしろ「今」にあると言えると思うのです。 すみません。今お酒が入っているので変な意見だったらすみませんが、これを踏まえて最後お願いします。
お礼
すみません。。。 長過ぎる上に真面目でないならこちらも全部読まない事をご容赦ください。 もういいっすorz