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《因果の道理》は 道理ではない。

NemurinekoNyaの回答

回答No.19

《悪因苦果》は、インドにあったようです。 『阿毘達磨倶舎論』の著者である世親(ヴァスバンドゥ)と同時代の、 衆賢(しゅげん・サンガバドラ)の『順正理論』などに、 《悪因苦果》という言葉が出ているようです。 『順正理論』は漢文ですし、非常に難しいので、 場所は違いますけれども、 佐々木現順の『業の思想』から関係がありそうな話を引用します。 ─────────  「世間を見るに、衆悪を造って心の歓悦を感得するに似たるもの有り。是は先の善業の果なり。或は、現の加行生(習慣的に悪を喜ぶこと)なり。或は、斯れに由って、他の敬養等を招く有り。応に知るべし。亦、是れ果(現在)と不現(過去)の因の生なり。」 (中略) 現在と未来  現在は過去と未来とを自らに内蔵している。 過去の業因の果は現在に続く。もし、そうであるとすれば、過去における悪い業因の場合、現在の業果は、苦であるであろうし、また、業以外の条件(諸因)のために、反って、楽なる果として現われるかも知れない。そのことは前に述べた通りである。  それでは、もし過去における悪い業因があったにも拘らず、現在において楽なる果を得たとした場合───それは世間的に見られることであるが───その人の行為の未来はどうなるのであろうか。ここ で、現在は二重の構造を以って示されていることに気づくであろう。それはこのようにである。 「猟獣等の諸の悪行を行ずる時、不正思に由って、便ち歓悦を生じ、妄りに自ら慶慰し、謂うて楽と為すは是れ楽を作る時にして、果を受くる位に非ず。業有り、皆受く。現在、楽なりと雖も、而も、当来(未来)の苦の異熟果を感ず」。  動物を殺害するという悪業を過去に於いてなしながら、現在、自らいくらかの悦びを感じている。此の場合、悦びを観じていることは業果ではあるけれど───業因業果の理によってであるが───見方によって、其れは業果なりとは決められない。向きを変えて未来に臨んだ場合、殺害を悦ぶという業は、其のまま、未来に対する業因となっていることを知るであろう。かく考えると、殺害より起こった悦びは、けっして、過去の業の果ではなく、それどころか、未来で大きな苦を招く業因となっている。未来への業因になると考えるとき、殺害の果を喜ぶことはできない。現在における殺害の悦びは未来によって否定されなければならない。未来は現在のうちに含まれているからである。  現在は、過去に対しては過去の果を受ける位置にあるが、その果が、同時に、未来への因となる。因から果へと移行する論理は、果が因であることによって、未来の新しい果を引くことになる。現在は、過去に対しては現在であるが、未来に対しては過去になる。  それ故に、殺害から生起する小楽にとらえられているならば、此の悪しき小楽は未来において大苦を招く因となるであろう。 「小欲に耽って大苦を招くこと勿れ」  現在の果を───未来を思うことによって───因と考えなければならない。この立場の転換、すなわち、現在は過去と未来を包むという認識がそのまま、倫理的生活行動の論理的基盤となり、大苦を招く事なき行動をとらしめるのである。 ───────── 「是造業時。非受果位。」 アビダルマの中にも、いろんな説があるんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 悪因苦果  ☆ やはりこの一本線による因果関係論は 基本的に飲めません。  つねに《善と悪と無記をふくむ心の状態》にある。ならば ひとつの悪行から必ずや苦果が生まれるというふうに 一要素の因果を決定論のごとく決めつけるのは 世界観が一面的に固定してしまうと考えます。  言いかえると そうは言うものの 人間因から人間果へと因果関係としてなら推移すると見る世界観にあっても たしかに部分的にひとつの悪行は悪い(または苦の)結果を生むといったふうに捉える見方を持っていると言ってよいと思います。    しかもその部分的な見方は まさに部分的な見方であると知っているのだと考えます。つまり 現実にどう結果が現われるかは分からない。つまりは 善因楽果か悪因苦果といったひとすじの因果の歴史線を引くのは 現実的ではないし 人間的でもない。こう考えます。  なお 此縁性の縁起は ゴータマの説だと捉えられているかと考えます。これも 無明というひとつの要素による一本線だと思われます。

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