• 締切済み

《因果の道理》は 道理ではない。

noname#195588の回答

noname#195588
noname#195588
回答No.18

質問文を読み返しました。 すると、 ~~~~~~~~~~~~~~~ (う) そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 相依相関と書いてある。 相依といえば。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ^ なお、この「idappaccayatā」という語は、宇井伯寿博士らによって、「相依性」という不正確な訳語が当てられていた歴史的経緯があることに、注意が必要。今日、「相依性」とは、大乗仏教中観派に見られる双方向的な関係を指す語となっている。参考:『龍樹』中村元 此縁性 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A4%E7%B8%81%E6%80%A7 ~~~~~~~~~~~~~~~ ウィキペディアで因果の道理を書いた人は 大乗仏教側の人だと思う。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4.3 宇井伯寿の縁起説論 (4) http://www.abhidharma.info/data2013/gairon/gairon_8.pdf 4.3 宇井伯寿の縁起説論 http://www.abhidharma.info/data2013/gairon/gairon_5.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 二つ目には、戦前の仏教学界に大きな影響を与えた宇井伯寿教授の縁起解釈である14。宇 井説では、縁起は通時的な発生論的関係ではなく、共時的な論理的関係であると解釈する。 さらに、識と名色との相互依存を重視して、これを十二因縁全体に及ぼし、縁起を相依相 関の意であると主張するのである。しかし、三枝充悳教授の言うとおり、これは「行きす ぎ」である。共時的な論理的関係であると解しても、「AによってB」という論理的な順序 は存在し、ただちに相互依存ということにはならない。 「縁起」の倫理学は可能か:仏教的生命倫理学の原理をめぐって 前川 健一 http://bioethics-s-n.up.seesaa.net/image/24-30E5898DE5B79D.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 検索したらいくつかpdfがヒットしました。 どうも、宇井伯寿という人が問題なんだろうか。 十二支縁起なら、因果関係も十二項目だけだからね。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどり365さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ どうも、宇井伯寿(* 《縁起は通時的な発生論的関係ではなく、共時的な論理的関係であると解釈する》ないし《相依相関の意であると主張する》)という人が問題なんだろうか。  ▼ (前川 健一:相依相関について)~~~~~~~~~  しかし、三枝充悳教授の言うとおり、これは「行きすぎ」である。共時的な論理的関係であると解しても、「AによってB」という論理的な順序は存在し、ただちに相互依存ということにはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち  ▲ (ヰキぺ:此縁性縁起) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (巴: idappaccayatā、梵: idaṃpratyayatā)   ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、    此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。    此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、    此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを「此縁性」と呼ぶ。  この「此」とは「煩悩」(あるいは、それに無自覚な「無明」の状態)を指しており、「彼」とは「苦」を指す。したがって、上記の命題は、   1.「「煩悩」(無明)が有れば、「苦」が有り」   2.「「煩悩」(無明)が無ければ、「苦」が無い」   3.「「煩悩」(無明)が生じれば、「苦」が生じ」   4.「「煩悩」(無明)が滅すれば、「苦」が滅す」  と言い換えることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  かざみどりさんの見解がどのようであるのか いまひとつ分かりにくいのですが 縁起が時間的な継起をともなうのであるなら 因果関係を扱っているということでよろしいでしょうか。  そして 質問者から見てのこの《此縁性縁起》の評価ですが 直前のやり取りにも書き込んだとおり 次のようです。  ☆☆(No.17お礼欄) ○ 人間因(無明+明知)⇒人間果(無明+明知)  ☆ すなわち 《無明(煩悩)》だけを取り出してこの要素があたかも単独分立しそれ一本による因果関係をかたちづくるという見方 この見方に反対するものです。  つねに人間にはそのつどの状態が《無明(煩悩)+明知(さとり)》つまりあるいは《善と悪と無記》のすべての要素が含まれるという見方を提示しています。  いま少しさらに 議論はつづきましょうか。  

関連するQ&A

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら因果応報説のほうには 原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因善果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でした 責任はひとえにわたしにありますと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親レベッカの胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 因果応報、善因善果の実話

    自分のやったことは自分に戻ってくる、という意味で因果応報とか善因善果という言葉がありますね。ご自身の経験や身近の出来事で見聞きした事で、ああ、これは、因果応報だな(良くない行いをしたら、良くないことが起こった)善因善果(良い事をしたら、いいことがあった)と思えるような実話があったら教えてください。検索してみますと、因果応報は、恋愛関連の話(不倫や略奪婚の結果など)が多いようですが、できればそれ以外でお願いします。(中学生に例を挙げて具体的に話したいので。)恐縮ですが、できるだけ詳しくお願いいたします。宜しくお願いいたします。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら原因や結果となるモノゴトに 善悪ないし苦楽という主観による規定がつけ加えられます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は主観の範囲を出ない。  4. すなわち 善悪はこれを主観が判断するのだから けっきょく因果応報の説は 自業自得という考え方である。ゆえに 主観の範囲を出ない。  5. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  6. ものごとがぜんぶ〔歴史の初めから〕一貫して自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから けっきょく自業自得としてすら 規定することにも意味がない。  7. 自業自得は へりくだってこれこれの結果はわたしの自業自得でしたと語ることはあっても 他者との話し合いの主題には 最終的な意義を持つものとしては 成り得ない。    8. つまり ひとつの解決法としては 初期条件において ナゾの何ものかによるエコヒイキがあったという見方が出される。  9. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  10. 前項は 母親の胎内にいるときからのことだと言う。言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  11. ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  12. ただし 主観の問題としてわが心の内なるいわゆる善行の道は捨て去ることもない。と考えてよいか? 善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 因果と縁起の違いについて教えていただけますか

    ある本を読んで、因果と縁起について書かれていました。 仏教用語からきているのと思いますが、 因果は、Aの現象により(因)、Bの結果が必然として起こる。という考え方、つまり、Aがおこれば必然的にBの結果が生じる ということでした。 これは理解しました。 しかし、縁起が理解できません。 「縁起』とは何かに『縁』って『起』きることである」 と説明がありますが、これはどういうことでしょうか? さらに、 「存在も出来事も縁起です。自分以外のいろいろなものとの関係のつなぎ目です。選択は人生における大切な縁を生み出す行為です。」 とありますが、これは 「その都度ベストな選択をしていれば、大切な縁が起こる」ということで その現象を縁起というということでしょうか? Aが起これば 必ずBの結果になる が因果で、 Aが起これば、偶然的な要素(縁)が作用して、Bになる確率が高まる、それが縁起ということでしょうか? どなたか教えていただけますでしょうか。

  • 欲望には悪と善の因が。 善の方はしかし?

    欲望は 自我の殻の内側に人を閉じ込めさせます。 そこから悪としての争いの因が生まれたりします。  しかし 同時に 欲望は、それをよく見つめることで  感性を深める道にも通じ それによって感性が深まれば自我は突き破られ  人への善の真心も生まれます。 そのへんの善の方の因果を なぜかあまり聞きません。 解ると思える人がおられましたら、 是非御回答をお願いします。 反論でもいいです。 欲望なんて悪の因しかないというふうな。 それなら議論しましょう。

  • 因果応報説は 共同主観にはならない。

     1. 因果律とは 別です。  2. なぜなら善悪ないし苦楽という主観による規定が含まれます。  3. すなわち 善因悪果(ないし善因楽果)また悪因悪果(ないし悪因苦果)という考え方は・という意味は 善悪を主観が判断するのだから けっきょく自業自得という考え方は ゆえに 主観の範囲を出ない。  4. 言いかえると その前提(初期条件)として 神の愛の――または  ブッダの慈悲の――えこひいきがあることを意味する。のではないか?  ものごとが自業自得であったならば えこひいきではないのだが 自業自得というのは 主観の範囲を出て有効になることはないのだから そう(自業自得として)規定することはできない。    なら 初期条件は ナゾの何ものかによるエコヒイキである。  5. ▼(風は気ままに吹く) ~~~~~~   わたし(=神)は 〔双子の兄の〕エサウを憎み   〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書 1:2-3)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. 言いかえると 神の愛を われわれ人間が勝手にこれこれこうだと決めつけてはダメであるようだ。  ダメというより もし人間が理解できるようなその愛ないし慈悲の仕組みであるならば その仕組みをわれわれ人間が仕組みなおすことも可能だとなってしまう。  ですよね?  7. ただし 主観の問題としてわが心の内なる善行の道は捨て去ることはない。と考えてよいか?  善と言うのも 主観による判断なんですけれど。

  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

  • 仏法の因果倶時

    因果倶時について質問です。 佐渡御書に「人を軽しめば、還って我が身、人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報を得・・・・是は常の因果の定まれる法なり」とあります。 つまり、簡単にいうと人をバカにすれば、かえって我が身、人からバカにされ、又人の見栄えや姿形をバカにすれば、我が身に、みにくくなる報いがある。という意味ですが、これは過去の行業の果報を現在に受け、現在の行為が未来に影響するなどの因果異時の立場であります。 ここまでは理解できます。 これに対して因果倶時は仏法の極理ですが、これは瞬間の生命に原因と結果が備わっている(具している)ということですが、たとえば火に触れるは因で、熱いと感じるのは果で、一瞬間の因果であります。同じく又怒ると人相が変化する結果はほとんど同時の所作であります。が、これも厳密にいうと極めて短時間のおくれがあります。これも因果倶時とはいえません。 春に種をまいて、秋に実がなるといっても、種をまいた時にすでに実がなる。という結果を含んでいるのであると。すでに結果も含んでいるのであるということなんですが、途中、鳥などが食べてしまったらという屁理屈なしに純粋にですが、生活に約した場合善行の行為の因は、すでに結果もはらんでいるということになります。結果はいつになるかわかりませんが。もし途中で気が変わって善行をやめた場合、最初の因果倶時はどうなったのでしょうか。その善行の結果は消えてなくなったのであれば 因果倶時は証明とならないのではないかと思います。ご意見ご感想をお待ちしています。

  • 善行をすることでしか存在を肯定できない人間に、善も悪も絶対的なものでは無い、なんて死刑宣告と同じ?

    その人は、 1誰にも愛されない 2だから自分で自分を愛したい 3そのために善行をする必要が 4しかし善は絶対ではない 5明確な指標がないと動けない(という強迫観念) 6無気力に。 質問 1、困る人を救うには、それを阻む障害、場合によっては人をも裁いていく意識は危険か 2、善行の目的は、あくまでその人の自己満足であって、 しかしそれは容易くなく、過大な結果を求める以上、その人は幸福にはなれないのではないか 3、善悪が相対的なものならば、その時々で、どちらが善か悪か見定める物差しはあるか 4、そもそも、善と悪を分けることは正しいのか、というパラドックスの問題は・・・ 悩めるものに、救いを。