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《因果の道理》は 道理ではない。

NemurinekoNyaの回答

回答No.5

こんばんは。 Wikipediaの記述は、はっきり言って、嘘!! 《ま・ち・が・い》、《間違い》、《間違》っている!! 質問中の(か)~(す)は《ま・ち・が・い》!! これを信じてはいけない!! 《異熟》は、その果は《無記性》で、《善・悪》ではない!! 《異熟》の特徴は、  1 因と果の異時性  2 果の無記性 の二点で~す。 仏教の《縁起》は、Wikipediaに記されているような、そんな単純なものではない。 一つの現象が起きるにしてもは、そこには無数の因と縁が複雑に絡み合って生み出される!! 戦争で、敵兵を多くのヒトを殺せば、英雄と世の人に讃えられる。 《縁起》や《因縁生起》は、こうしたことまで含む《オシエ》で~す。 縁起の教えは、《縁》にこそ主眼がある。 おなじ《人殺し》という行為が、《犯罪》になるか《名誉》になるかは、《縁》の相違にある!! 因と縁、果の関係を、本気で議論しようとすると、 四縁・六因・五果というヒジョ~に煩瑣で精確な議論をしないといけないので、 ───わたしは、これを正確に行える自信がまったくない─── これ以上は、パス!! ☆善悪が主観的なものであるからには 楽果も苦果もみな同じく主観的であって《のぞましいか否か》で定義するなら それらはやはり善か悪かで捉えても構わないのではないか? すなわちおおきくは 楽果⇒善果 苦果⇒悪果と見てよいのではないか? ◇前にも言いましたが、 仏教でいう《善・悪》は、修行の《障(さわ)り》になるかどうかです。 仏道修行に役立つかどうか。 世間的な意味における《善・悪》ではないというのがポイントです。 で、《善・悪》は分類されています。 説一切有部では、《大善地法》や《○煩悩地法》、 唯識では、《善》と《煩悩》・《随煩悩》として、ずらっと羅列されています。 興味がございましたら、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29 をご覧になってください。 仏教でいう《楽》、《苦》というのは、感覚的なもの、《快》・《不快》程度の意味なので、 う~ん、《善・悪》はちと微妙ですね~。 まして、 ゴータマさん仏教は、《苦》のみならず、《楽》すら否定しちゃうんで。。。 《苦受》・《楽受》を超越してしまわないといけない。 《不楽不苦受》や《捨受》とかいうのですが・・・。 ☆(な) ならば そのような・どの時点でもつねに《善と悪とをふくむ》原因かつ結果としての状態にあるワタシについて その行為の軌跡の中から 一本の線としての《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)を ただいづれか一方だけの取り出して これこそが因果関係であるぞと言ったところで 何の意味をも成さない。せいぜいが気休めである。 ◇一本線ではありませんよ。 その行為をするしないの自由意志があるので。 《因果》の法則(?)というのは、決定論的なものではない。 もっとも、 結果の方から見れば、一本線になりますけれども。 ちなみに、《同類因》はすぐに《等流果》となります。 ☆(と) つまりは 任意の一時点をとってそのとき ワタシの状態は過去の《善と悪とをふくむ原因》の結果として 《善悪の入り混じった》ものとしてみちびかれている。しかもその状態〔から繰り出す行為〕は 未来への《善と悪とをふくむ》原因となって 《善悪の入り混じった》結果をうむ。――このことは あたりまえであるはずです。 ◇「あたりまえ」のことですよ。 でも、ヒトは、こんな「あたりまえ」のことに気づいていない。 あるいは、 すぐに忘れてしまう。 で、 自分だけは、この例外者であると思い、日々、悪事を重ねる。 仏教の《縁起》の教えは、このことをも説いているということで。 ☆ (に) つまりブディズムの説くと言われる《因果の道理》は けっして道理などではない。こう帰結されますまいか。どこが 《大宇宙の真理》でしょう。どこが《さとり》なのでしょう。かえってものごとの見方を 一面的な狭いものとしていはすまいか。 ◇Wikipediaの記述は、間違っていますよ。 この記事を書いた人の解釈、理解、勘違い、誤解が入っていま~す。 この世のものは原因・《因》と条件・《縁》の結果である、 という意味であるのであれば、 まぁ、 《大宇宙の真理》と言えなくもないのかもしれませんが・・・。 《縁起》説は、《大宇宙の真理》というような大層なものではなく、当たり前のことです。 でも、 こんな当たり前のことを、忘れちまうんだな~。 他人はともかく、 自分だけは例外だと思ってしまうんだな~。 ☆(ぬ) なんでこんな子どもだましのような《理論》が 永くつづいて来たのでしょう。日本人はここまでばかなのでしょうか。 ◇「自分だけは例外である」という過ちを気づかせてくれるからではないでしょうか。 ☆(は) (ブディズムよ 恥を知れというところでしょうか)。 ◇ではなく、 「ブディストよ、恥を知れ!!」です。 「ブディストよ、お前たちとて、《縁起》の例外者ではない。そのことの自覚があるのか!!」です。 口では《無我》を唱えつつ、 オノレが《無我》であることを忘れているのではないか!! ───────── 密厳院発露懺悔文 我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏(まと)はされて衆罪(しゅざい)を造る 身口意(しんくい)業 常に顛倒(てんどう)して 誤って無量不善の業(ごう)を犯す (中略) 諸佛の厭悪(えんあく)したまう所を慚(は)じず 菩薩の苦悩する所を畏れず 遊戯笑語(ゆうげしょうご)して 徒ら(いたずら)に年を送り 諂誑詐欺(てんのうさぎ)して空しく日を過ぐ (中略) 若し善根を作せ(なせ)ば有相(うそう)に住し 還って輪廻生死(りんねしょうじ)の因と成る http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/mitsugon.htm ─────────

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  さて こちらからは お説を吟味してまいります。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  《異熟》は、その果は《無記性》で、《善・悪》ではない!!  《異熟》の特徴は、   1 因と果の異時性   2 果の無記性  の二点で~す。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (1) 異熟の果は 無記性だと言っても 善因から楽果 そして悪因から苦果がそれぞれみちびかれるということだそうですが 楽は 自分の思うようにことが運ぶなら 大きく主観にとって善いことであり 苦は 自分の思うようにならないのであるからには 主観にとって悪いことである。となるのではありませんか?  (2) 因果の倶時か異時かは あまり議論しなくてもよいでしょう。倶時が現象としては 異時として成るといったふうに説くでしょうから。  (3) よって (さ)(し)(す)の説明は 大きく捉えて 同じことを言っている。つまり マチガイではないと考えられます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教の《縁起》は、Wikipediaに記されているような、そんな単純なものではない。  一つの現象が起きるにしてもは、そこには無数の因と縁が複雑に絡み合って生み出される!!  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (4) これは あたりまえだと考えられます。ヰキぺ氏も 単純に説明しているだけであって 複数の因や縁が複雑に作用しあうというのは 前提であるはずです。  (5) しかも 因縁そして果がいかに複雑であったとしても そこから 善因楽果や悪因苦果のいづれかひとつの筋として因果論を説くのは いただけません。という物言いです。  (6) というよりも 一時点でのワタシの状態は 過去のすべての因縁が――善も悪もからみあいつつ――あつまってもたらした結果でしょうし その結果なる状態から繰り出される行為が これも善と悪とをふくむ因となって 次の結果をみちびくということ。このような《現在時における〈因果をふくむ状態〉》は つねに成り立っている。こう見なければならないでしょう。  (7) ということは 因果論は 世界に生きているかぎり そのワタシにあてはまる見方であって その全体観としてなら あまりにも当たり前であるでしょうし その中から善因楽果というひとつの筋を取り出して ワタシにあてはめるのは あまりにも一面的であるでしょう。  (8) つまり 因果論は 無用の長物です。善因楽果もしくは悪因苦果というどちらか一筋だけの因果関係において おのれの精神の履歴を捉えては むしろ いけないのです。     * 価値判断を控えた・事実についての因果関係の認識は それとして成されます。科学ないし学問です。  ◇ 戦争で、敵兵を多くのヒトを殺せば、英雄と世の人に讃えられる。  ☆ (8) これは 昔の考え方です。基本的に 昔においても人間の心としては ひとを殺したら 人殺しです。ひとの意志を無視したという咎がかけられます。暴力論のもんだいです。  ◇ おなじ《人殺し》という行為が、《犯罪》になるか《名誉》になるかは、《縁》の相違にある!!  ☆ (9) これは 世の中の社会力学というそれこそ無記の――そしてしばしば 無効の――意志行為関係からなるカザリまたはシガラミです。仮象です。ひとごろしは つねに 意志の無視という暴力です。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  仏教でいう《善・悪》は、修行の《障(さわ)り》になるかどうかです。  仏道修行に役立つかどうか。  世間的な意味における《善・悪》ではないというのがポイントです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(10)  もしそのことが 世間の常識としての善悪観と違っているという意味であるなら それは その時点で そもそもブディズムなるものを放っておきます。  (11) ただし 思想として一般・公共の場にも出て来ますから その場合の思想を捉えて批評します。言いかえると 世間の常識から見て これこれは こうである・ああであると批評します。いまそうおこなっています。  世間一般の側からの主体的なブディズム批判です。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  仏教でいう《楽》、《苦》というのは、感覚的なもの、《快》・《不快》程度の意味なので、  う~ん、《善・悪》はちと微妙ですね~。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(12) いわゆる常識から 善悪として判断しています。それが 的外れだとすれば ブディズムはよほど《世間ばなれ》しているとなることでしょう。そして その点でもおそらく人びと一般の心をまどわしており たぶんすでにうらぎっていることでしょう。  (13) ブッダになることが ただ《感覚的な快不快》の問題だというのであれば そのような結果をすでにまねいていることでしょう。  こういうことが判明するだけでも 質問に意義があります。  (14) 《同類因・等流果》(く)やあるいは《異熟因・異熟果》(す)のいづれかの一本線について  ◇ もっとも、 / 結果の方から見れば、一本線になりますけれども。  ☆ という見方が 一面的であると考えられます。つまりは 自分の都合に合わせて いづれかに当てはまる要因を拾い上げて その一本線として捉えている。と考えられます。つねにその一時点におけるワタシの状態は 善悪のいくつかの要因のあつまったかたちであると考えられるからです。  (15) (と)について:  ◇ 仏教の《縁起》の教えは、このことをも説いているということで。  ☆ 説いていませんよ。世間の常識とは 善悪や苦楽の概念が異なると言ったぢゃないですか。《一時点のワタシにあらゆる善悪の要素があつまっていて 過去からの結果を成しつつ 未来への原因と成って行くこと》が当たり前だということを ブディズムは説いていませんよ。  (16) それに 善因楽果か悪因苦果かのいづれか一本線になると言ったではないですか。そうではなく つねに――つねにです――複雑だというのが この(と)の命題です。これが 世間の常識であり あたりまえの善悪をめぐる因果関係論です。  その世間離れしているのなら もう放っておきますが 公共の場にたとえばヰキぺとして出て来るのなら それを取り上げ批評します。    ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  この世のものは原因・《因》と条件・《縁》の結果である、  という意味であるのであれば、  まぁ、  《大宇宙の真理》と言えなくもないのかもしれませんが・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(17) この考え方が マチガイだという物言いです。すべての因縁果の関係を説いていることは けっきょく何も言わなかったことにひとしい。という批判です。  言ったとするなら 例の一本線による片寄った見方です。それは 飲めないとすでに述べました。  (18)  ◇ 懺悔  ☆ は 無です。強いて言えば カッコつけです。世間体のためのみにおこなう仕業です。意味がないか もしくはマイナスの意味がある。最低の思想の発露です。  (19) 仮りにいやしくも反省が意味を持つとするなら それは ひとに知られずにおこないます。反省をしますという事柄を持ち出して来ることも 意味がありません。他人に対して・または他人のことで 懺悔を持ち出すことが 意味がありません。もしくは 体裁をととのえるだけのことになります。  基本的にそういうことだと考えます。  (20) ゴータマは イカサマ師だとあきらかなかたちで言って 初めて――もしそうだとすれば――反省が成ります。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からのつづきです。  (21) けっきょくブディズムの善は  ◇ 仏教でいう《善・悪》は、修行の《障(さわ)り》になるかどうかです。 / 仏道修行に役立つかどうか。  ☆ であるなら ブッダになることへの妨げのないことが 善であることになります。ということは 世間一般でも ブッダになることは 善だと見ていますから――または ブッダターの発揮は 善だと見なしますから―― 世間離れしているとも思えません。同じ定義であるように思います。  要するに無明でないこと・渇愛のないこと・煩悩から自由であること これは善でありその反対は 悪だということであれば 同じ定義だと見られます。  その善を因としておこなう行為の結果が 楽だとすれば その楽というのは ブッダである状態だとなります。

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