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「神」について。

noname#210533の回答

noname#210533
noname#210533
回答No.12

ちらりと書きます。 神は数えられるのですか?何人、と。 たった一人ですか? 一人、ということは、人間を例に取ると、物事を知覚したり 認識したり、思考する部分は一か所しかない、ということに なります。 例えば、恋愛中に仕事の事を考えているとします。 それは二つの事を同時に考えているのではなくて、彼女の ことより仕事の方が気になって気が逸れている状態、つまり 彼女の事と仕事の事を同時に考えている訳ではない。 一人の人間が、ある瞬間考えることが出来るのは、基本的に たった一つです。 勿論、意識的に、という意味ですが。 まあ、仮に3つや5つを聖徳太子みたいに考えられたとしても 同じ瞬間に一億はおろか、たった百人の顔を同時に思い出して 夫々の人々の記憶を呼び覚ますことなど到底できないでしょう。 遍く人々を全て見ていてくれる存在を神だと考えて、それは 慈父であり愛情に満ちた聖母であり、と無数の有神論者が 夢想したその姿は、どうしても人間そのものです。 擬人化された超自然的存在だという建前にはなっていますが、 殺して食うために産ませて育てられる沢山の動物たちを救済して くれる神など聞いたことがありませんし(人間を救済する神の中で。) 人間の原罪を問うても、殺して食わねば生きていけない生き物を 造った自らの責任についても語ることなく、また、この地獄を終わらせる ために、募金一つしてくれるわけではありません。 つまり、遍く人々を見つめる、ただそれだけのためにも、「神の意識」は それが思考である限りは、脳、もしくは同等の機能を有する有機的な システムが存在していなければならないのです。 仕組みが無ければ 機能しようがないのですもの。思考は思考する仕組みがあって初めて その成果物として産生されるものですから。 神は超越した存在であるからそんな理屈は無関係に云々、という 神についての論説は、有理を思考してはならぬ、神について科学的に 思考することを止めよ、という思考停止命令のようなものです。 何が言いたいというと、この世界のどこかに、それが宇宙空間内の ダークマター内に、ある種の力場で形成された差し渡し数光年の 光の回廊、という情報処理回路を構成していたとしても、それらは もはや「個人」では有りえないだろう、ということです。 膨大かつ極めて広汎に何かを成す構造体というものは、多くの素子、 エレメントが分化し、階層化し、統一的に動作するために組織化を 余儀なくされます。 書けば書くほどややこしい文章になってしまい、自分でも辟易して いますが、要するに 神が存在したとしても、それは個人というものではなく、行政機関の 様に、巨大な組織になっているだろう、という考察です。 神が、という単語を「神省庁」とでも捉えれば少しは伝わるでしょうか。 無論、中央省庁から末端の村落の公務員に至るまでをそのエレメントと する組織体です。 それが人類の為に何故仕事をしてくれないかと言えば、お役所仕事 だから、と言えば止むを得ないのかも知れません。 そもそも、高々400kmの国際宇宙ステーションからでさえ、個人の顔は 無論の事、家々もビルさえも、野球場だって肉眼では見えません。 広い範囲を見ようとすれば、当然細部への意識は薄れるし、逆に細部を 見つめれば全体は見えない。 意識や思考が、情報を処理するテーブルに乗せて弄繰り回す仕組みで ある限り、この、どこにどのように焦点を合わせるかという問題・・・ 意識のフォーカス、は、レンズが一つである限りは結べる焦点もたった 一つしか有りえないのです。 神は究極の人類の救済を目的に創設された、沢山の人々を魅了する 幻のスーパースターのようなものです。 だから擬人化されているべきだし、 ロックンロールでもあるべきだ。 でも、哲学者が形而上的な存在として模索する神は、全てその時代の 科学を土台にして、その進化する先の無限遠をイメージしようとして 行われますよね。 それは数学であったり物理学であったり、或いは音や音楽、色や光や 芸術と言う分野で、それらをツールとして我々人間を解明しようとする 営みに他なりません。 個人である神は、つまり我々そのものです。 そもそもが「全知全能」位、意味不明な概念もありません。 よくよく考えれば全ての矛盾を合理的に含む存在という意味になります。 親が科学的に「りんご10個とみかん20個、あわせていくつ?」と問いかけて、 子供が「全部!」と答えるような、笑えるナンセンスです。 (そもそもりんごとみかんを合わせることも無茶だし、数を数えるという点だけを 抽出するなら、全部、は誤りとは言えなくなります。 無限を二倍しても半分に しても無限であることと同じなのですから) 「神」という言葉を定義する手懸りを考えていらっしゃるのだろうと思いますが、 とりあえず「神」という言葉しかないから暫定的に使用しているだけで、ことの ポイントは「全知全能」とか「無限・有限」という思考遊びの産物と、理不尽に満ち、 生死一つも平等ではなく、幸不幸さえ簡単には理解できない人間というものの ごちゃごちゃっぷりを一緒に扱ってしまおうとするあたりに無理があると思うのです。 人間について、命について、徹底的に考えることは、そのまま神について考えることと 全く同義語になります。 何故って、人間性もサイエンスも哲学も、全部このしゃれこうべの中に詰まってる重量わずか 1400g程の白子みたいなタンパク質が産生しているものなのですから。 更に言えば、人の営みの、ほんのわずかな一滴について一生を費やして考察しても ただ漠然と全知全能の神についてクラインの壺を出たり入ったりして正気を失うよりは 多くの人々に言語を超えた領域で共感と伝播を可能にすることになるでしょう。 嵐のコンサートに多数のファンが群がり、歌い、叫び、踊る。 十二分に、神を前にした民衆の姿そのものです。 人間のスーパースターを数多の人々が熱狂して見つめるのは、擬神化された人、 これも幻ですが、それは呼応する民衆一人一人の心の中にある音叉が共鳴して 振るえている。 つまり、神を認識し、神を求め、神にアクセスしようとする「器官」が我々の意識にも 肉体にも先天的に備わっている証左に他なりません。 ただ黙々と一つ事に打ち込む者が何故多くの人々に認められ記憶されるのか。 神の事も世界の事も考えたことなどなくても。 職人やアーティストの残した作品も生き様も、考察を超越して神に近い。 神について深く考えることは、結局人の事を考えるのを止める事であり、 それは神から遠ざかることになるのかも知れません。 神を語ろうとするものほど、神から遠い場所に離れていく。 賢いは愚か、愚者は賢者。 ゼロと無限大は同じものの裏表。 こういう問題について考える時には、決して単なる思考ゲームに埋没して自画自賛を せぬように、いつでも言葉も話せずに誰かを想う愚か者としての姿勢も忘れずにいたいと 私は思いながら生きているのです。 私は、つまり、馬鹿だし、馬鹿でいいや、と幸せです。 それが神についての私の答えです。 まる。

alterd1953
質問者

お礼

すみません。 2回読む気力がありませんので漠然とした印象になってしまいますが 取り合えず、私の「神」のイメージは人ではありません。 そして「全知全能」も、ほとんど形容の矛盾ではないかと思います。 強いて言うなら 「神は偏在する」とか「神は細部に宿る」のイメージから 細胞の中のDNAとか、素粒子に重力を与えるヒッグス粒子でしょうか。 言い替えるなら「この世をこう在らしめている究極の原因」でしょうか。 そして、現在、人類は宇宙の始動因やこれからどうなって行くか等は勿論のこと DNAの文法や赤ん坊がどうして言葉を覚えられるのか等の かなり根本的な事すら分かっていない状況のようですから ソクラテスが 「自分が無知である事を知っているのが本当の知である」と言った事や ニュートンが 「私は知識の大海を前にした砂浜で遊ぶ子供に過ぎない」と言った事等は 全くもって真実であると思います。 但し、私にとっての「神」はイコール「この世の全て統べる法則」の事ですから 生きている限り、例えほんの少しでもその中身を知りたいと願います。 それは取りも直さず、最新の科学的知見であり、また哲学的な思索の成果なのです。 ご回答ありがとうございました。

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