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「神」について。

kanto-iの回答

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.11

お礼、ありがとうございました。 釈迦についてですが、私見でのお話しです。 釈迦は活動していたとき、あくまでも個人でのことであり 宗教として確立してなかったと思います。 宗教として立ち上げたのは弟子たちであり、そこに違うものが入ってきていると思われます。 釈迦の話しは、私から見れば哲学を語っているものであり ソクラテスと共通するところも多いと思います。 表面的なところは異なって見えますが、本質としてです。 聖書やコーラン等は思想が強いので、自らに問うことより頭から信じること。 つまりお話しを鵜呑みにすることに重きを置かれているかなと。 ソクラテスも釈迦も自らに問うこと、つまりそれは哲学的批判をするということですが それがあるなしで、哲学的追求と言う面でまったく異なるところだと思います。 年代的な物ですが、自らに問えるほど自らを深く掘り下げる人が少なかった時代であり 疑問が湧いたことに対しての、適切な問いの作り方が確立されていない時代であり 問いを作れるほどの深さを体系的に作るより、両人が掘り下げていきながら その重要性を説くことに、力を尽くした方なのかなと最近思っています。 釈迦の言葉を宗教としてしまったために、残念ながら今の日本ではステレオタイプに侵され 表面的には生活に根ざしていますが、本質はどこへ行ったのやらという感が拭えません。 個人的見解ですが、両者の背景と行動を追っていくとそんな風にも思えました。

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 釈迦もソクラテスも現世の欲を離れ深く思索した結果をなんとか伝えようとしたのでしょうね。 ソクラテスの場合はプラトンやアリストテレス等に引き継がれて 大きな哲学の潮流になったようですが 釈迦は原始宗教の偶像崇拝等と結びついて換骨奪胎されたようにも思います。 いずれにせよ、人間が欲から離れるのは至難のようですね。 聖書やコーランは、まだ読み切ってませんので何とも言えませんが 今の所、思索の結果と言うより「神の啓示」と言う側面が強いように思います。 ひょっとすると「こうなんだ」と言い切られた方が 人々にはアピールするのかもしれませんね。 ではまた(笑)

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