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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:千利休の切腹の理由はなんだとおもいます?)

千利休の切腹の理由はなんだとおもいますか?

あずき なな(@azuki-7)の回答

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回答No.4

秀吉が博多の津田宗達や今井宗休を重視するのに 堺の千利休は邪魔になったから と言うのが通説ですが 利休は茶の湯の師匠であり 当然多くの武将から慕われていた 利休の下には黙っていても多くの諸将が集まります 秀吉にとっては当然 それは危険と感じたでしょう もっとも秀吉より石田三成がそう感じていたようですが 豊臣秀長が生きていた頃は少なくとも利休は暴走しないだうと三成は考えていた 秀長は野心もないし あの徳川家康でさえ「大和殿(秀長のこと)が天下様であったなら自分が天下人になる事はなかった」と言った程の人物でした しかし最大の庇護者である秀長を失った利休は もはや三成の標的です 三成は堺の商人とも密接でした 堺はさまざまな危険因子を孕んでいます 豊臣政権を崩壊させられるだけの力が堺にはありました おそらく三成はそれを危惧し 秀吉に進言したのでしょう しかし ただ 利休が危ないから追放してくれ と言ったのではさすがの秀吉だってそれだけでは切腹はさせないでしょう 三成は頭がいいので 色々難癖をつけたはずです もはや 味方のいない利休にとってそれを押し返すだけの反論もできなかったでしょう 事実 不当に自分の作った茶碗に高値をつけて売っていた 事もあって 利休は反論らしい反論もしていません 恐らくは無駄だと思ったのでしょう 怒りに任せて処分をしようとする秀吉にはどう弁明しても無駄だと… 秀吉は晩年に「利休を死なせたくは無かった…」と言っていたそうです 怒りに任せて切腹させてしまった事を後悔していたのでしょう

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