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千利休

こんにちは。 千利休は、武士ではなく茶人ですよネ。 なぜ秀吉に切腹を命じられましたか?

  • 歴史
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みんなの回答

noname#259322
noname#259322
回答No.7

ご質問を敷衍すると、 「切腹は武士にのみ許された『名誉ある自決』という位置づけの処刑方法であったはず。  なぜ、武士階級ではない千利休の処刑に切腹が命ぜられたのか?」 ではないかと思われます。 なぜ、武士ではない千利休に切腹が許されたか? これはNo.4さんの回答の最初の一文が説明しています。 切腹が武士階級のみとされたのは江戸時代の中期に入ったあたりからとされます。 それ以前にも切腹自体はありましたが、もっと時代をさかのぼれば町民や女性も切腹していたんですよ。 これは「日本人はなぜ切腹するのか」(千葉徳爾/東京堂出版)などに詳しいです。 http://www.tokyodoshuppan.com/book/b79903.html この本から…ではなく、すみません、この本の書評から引用します。 >いきなり、室町期から近世にかけて女も切腹していたという事実をつきつけられて、息をのむ。それも武士の妻女だけではない、農民や町人にも腹を切って自死する女房がいたという。 https://allreviews.jp/review/4493 そういうわけで、 お尋ねになりたいことが 「なぜ武士ではない千利休に切腹が許されたか」 であれば、回答は 「豊臣秀吉の時代には切腹は武士だけのものではなかったから」 になります。 そもそも、江戸時代の(いちおうの)法令である御定書にも「切腹は武士に限る」といったようなことは書かれていなかったそうですよ。 ただ、豊臣秀吉の時代にはすでに、切腹は単なる処刑方法ではなく、自分で選ぶ、尊厳を守れる死といったニュアンスがあったようです。 また、なぜ豊臣秀吉は千利休を処刑しようとしたのか?については他の回答者さんの言う通り諸説あります。 なぜ斬首などではなく切腹だったのか?これについては完全に推測しか不可能ですね。

sora_iro1881
質問者

お礼

こんにちは! 女性も切腹していたのですね。 家康の正室、築山殿も切腹を申し付けられましたよね。 しかし、腹を出すのは、胸も出てしまいます。そのような辱しめを…。 質問文を書き直して頂き、すみません。 どストレートに書きますと、何故、千利休は秀吉にコロされなければならなかったのか、という事なのです。 天下を争う相手でもない。 わたしは、朝顔事件かなあ、と思っています。 利休の家の生け垣の朝顔がとても立派だと聞いた秀吉は、利休に見に行きたいと言いました。 利休は『では明日。』と言い、夜のうちに朝顔をすべてきってしまいました。 一輪だけ残して。 やって来た秀吉は、朝顔は?と。 利休は茶室に連れていき、そこに一番見事な一輪ざしにいけた朝顔をみせたとか。 秀吉は『さすが利休』と言ったそうでしが、内心は違ったと思います。 秀吉は、利休と朝顔を眺め、茶を頂き、気持ち良く帰りたかっただけと思います。 この話は、わたしは利休を意地悪だな、と思いました。 謝って欲しかったのは山門の木像ではなく、朝顔を切った事、踏みにじられた気持ちだと勝手に思っています。 ご回答をどうもありがとうございました!

  • june2023
  • ベストアンサー率20% (13/65)
回答No.6

利休が秀吉の怒りを買った原因を 「大徳寺三門(金毛閣)改修にあたって増上慢(仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと)があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」 とする説が知られているが、その他にもさまざまな説があり、詳しくは分かっていない。

sora_iro1881
質問者

お礼

こんにちは! 大徳寺の山門の木像は、利休がした事ではなく、ある意味被害者ですよね。 孤高の死です。 利休の方から来て欲しかった秀吉は、拒絶された。 質素を好む利休には、黄金の茶室を喜ぶ秀吉など、耐えられなかった様に思います。 ご回答をありがとうございました!

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9721/12092)
回答No.5

>千利休は、武士ではなく茶人ですよネ。なぜ秀吉に切腹を命じられましたか? ⇒その筋の文献によりますと、次のような理由が考えられるそうです。 1.千利休は「侘びの美」を完成したが、茶の湯の権威を欲した秀吉は「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。しかし、利休はこの秘伝の作法を弟子に教えた折、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある。自由と個性である」と言った。秀吉が秘伝とした「もったいぶった作法」は重要でないと否定している。 2.利休が作った国宝「侍庵」は極限まで無駄を削ぎ落した究極の茶室で、利休が考案した入口は間口が狭い上に低い位置にあり、いったん頭を下げて這うようにしないと中に入れない。天下人である秀吉たりとて同じようにしないと入れないし、武士の魂である刀を外さねばくぐれないのだ。一度茶室に入れば人間の身分に上下の差はなく、茶室という中では「平等の存在」となる。 3.秀吉は貿易の利益のために堺に重税をかけるなど様々な圧力をかけ、堺の自主独立の象徴であった壕を埋めてしまった。利休は堺の権益を守ろうとするが、秀吉はそれを疎ましく感じるようになった。 4.茶の湯に関して、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする素朴なものとは正反対である。秀吉は自分なりに「茶」に関して一家言を持っていただけに、利休との対立が日を追って激しくなっていく。ある茶会において、利休は派手好きな秀吉が嫌う色「黒」を知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて、秀吉に出した。この席には他の家臣もおり、秀吉のメンツは丸つぶれになった。 5.利休が京都の大徳寺の山門を私費で修復をした。その際大徳寺の住職が、感謝のつもりで利休を模した雪駄履きの木像を、利休には知らせず山門に安置した。その後、秀吉が大徳寺を訪れて山門をくぐった時「上から見下ろすとは無礼千万、通るたびに足で踏みつけられているも同じだ」と激怒したという。そして利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリさせようとした。しかし利休は、信念に悖るとして謝罪を断った。 6大徳寺の山門説が切腹命令の最大の直接原因とされているが、それ以外にも諸説がある。 ①利休は名品となる茶道具の鑑定を行っていたが、安価な茶道具を高額で売り、私腹を肥やした疑いを持たれたという説。 ②二条天皇陵の石を勝手に持ち出して手水鉢や庭石に使ったために秀吉の怒りを買ったという説。 ③豊臣秀長の死後、豊臣家臣団の勢力の均衡が崩れ、石田三成にとって利休は眼の上のたんこぶのようになり、利休が側近としての価値が上がるのを恐れた三成が秀吉に「利休は危険人物であると告げ口をしたのではないか」という説。 ④無類の女好きだった秀吉は、利休の弟子に嫁いでいた次女を側室とするようにと命じたが、利休が「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否したために秀吉に恨まれたという説。 ⑤朝鮮出兵を批判して秀吉の怒りを買ったという説。 ⑥徳川家康と利休がつながり、秀吉の茶の中に毒を入れて秀吉を暗殺しようとしたという説、など。

sora_iro1881
質問者

お礼

こんにちは! 沢山、ありがとうございます。 にじり口、でしたか? 両手をついてサッサッと入る茶室は、どんな偉い人も、身分の低い人も、ここでは皆、平等。のお作法。 山門の木像の件は、利休は知らなかったとも言われ、また、秀吉の了解もあったとか、情報は色々ですね。 また、茶道具で私腹を肥やした説もありますよね、しかし、利休がそんな事をする訳がない。 利休を強引に切腹させた事により、秀吉は後世の人々の笑い者です。 正しい者は誰にも伝わります。 利休は、そこまで考え、命を投じた様に思えてなりません。 ご回答をどうもありがとうございました!

  • 4017B
  • ベストアンサー率73% (1304/1775)
回答No.4

え~っと、まずそもそも「切腹」が武士に対する名誉ある刑罰になったのは、徳川政権以降の江戸時代からで。秀吉の戦国時代(安土桃山時代)の頃はまだそんな習慣も考え方も無かったです。 それが同じ戦国時代の末期、秀吉が高松城を攻めた時に、城主の清水宗治が切腹して果てたのを見て。秀吉も敵ながらあっぱれ、潔くその作法も立派であり感服した~という話がまことしやかに伝わっていますが…まあこれは確証が無い噂話程度なので、実際に秀吉がそう思ったかどうかは不明です。が、その後での質問者が提示された「千利休への切腹命令」が行われていますので、もしかしたら多少は影響を与えているのかも…? しかしながらその後の "大坂の陣" での西軍方の敗軍武将に対しては全て斬首刑になっています。ですがその中の豊臣陣営の直属の武将達には切腹が命じられています。ですのでちょうど千利休の事件から「何か切腹てエモくね?」みたいな感覚が、少なくとも戦国武将達の間では徐々に広まって行き。その後の江戸時代で家康によって法律の形でまとめられたのではないのかなと思います。 …で、ご質問の「なぜ秀吉は利休に切腹を命じたのか?」という点に関しては…ハッキリ言って謎です。これについては今でも専門家が文献や当時の戦国大名の関係性等から、色々と推測したり考察が巡らせていたりしますが。現在まで確実なコレだと言える様なモノは分かっていません。当時の秀吉の心境などを記した手紙などが新たに発見でもされれば、何か大きな進展があるかもしれませんが…真相は未だ闇の中です。そのため歴史ミステリーや映画の題材等によくなってますね。

sora_iro1881
質問者

お礼

こんにちは! 映画は『利休にたずねよ』ですね。 エモいですね。 秀吉は、切腹マニアですかね。 ビビッて、取り澄ました利休の命乞いを所望したのでは。 しかし、利休はやって来た切腹関係者を茶を点ててもてなし、さっさと腹を斬ってしまいましたとさ。 わびさびの美学の利休に、取り乱すなど無いのです。 命?欲しけりゃくれてやる。 それでも秀吉の様な泥臭い奴とは関わりたくない、と言っているかの様な潔さです。 ご回答ありがとうございました!

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6227/18566)
回答No.3

価値観の違いが次第にあきらかになってきて もともと物怖じしない性格だった利休は、相手が秀吉であっても気にせず反論することが多かったと言われています。一説によれば、秀吉が利休に切腹を命じたとき、秀吉は「利休は命乞いをし、そうすれば上下関係がはっきりするだろう」と考えていたようです(切腹の命を伝えたのは、秀吉本人ではなく使いの者)。しかし、利休はいたって冷静に対応し、そのまま切腹を受け入れてしまったのでした。 脅しのつもりだったのに

sora_iro1881
質問者

お礼

こんにちは! そうですね、わたしもそう思います。 秀吉は、何もかも自分より優れた人気者の利休にマウントを取りたかったのです。 織田信長は焼き物に造形が深く、目利きでした。出自も良いですしね。 自分にはそういう美意識がない。 綺麗なおなごは好きですが。 とにかく豪華なら良かろうと、黄金の茶室。失笑。 いくらなんでも命ですよ。 利休だって狼狽え、ひれ伏して謝罪するだろうと思っていたのでは。 しかし、利休は今か今かと待つ秀吉に『謝罪する事は何ひとつ無い』と、細君の前で切腹なさったとか。 ご回答をありがとうございました!

  • 82224141
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.2

千利休は、豊臣秀吉に仕える茶人として知られており、茶の湯の流派である裏千家を創設しました。しかし、1591年に起こった刀狩りの際、千利休は秀吉に対して、茶道具の中には刀剣の部品が使用されていることを説明し、茶器の一部を提供するように要求されました。しかし、千利休は秀吉の命令に従わず、茶器を提供しなかったため、秀吉に切腹を命じられました。 そんな感じです

sora_iro1881
質問者

お礼

こんにちは! 茶人達が、権力争いに巻き込まれた図式です。 秀吉は、家康の茶の湯の師匠である利休に家康暗殺を持ちかけたと言われています。 茶室の中で毒を盛る様にと。 しかし、利休はこれを静かに拒否したと。 …この時から、ただでは済まないと覚悟していたのでは。とも思えます。 言い掛かり切腹ですよね、秀吉の得意な。 ご回答をありがとうございました!

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2180/4828)
回答No.1

>なぜ秀吉に切腹を命じられましたか? 秀吉としては、処刑を望んでいた様ですね。 ただ、処刑をすれば「秀吉政権への影響が多い」事を危惧したのです。 秀吉配下の武将だけでなく有力商人なども、利休の弟子ですからね。 ですから、武士と同様に「自らの責任で命を絶つ」事を命じたのです。 事実、切腹命令でも武将・商人からは「助命」が多かったのです。 実際、何故利休に死を命じたのか?は確実な答えはありません。 1.秀吉への服従者よりも、利休への服従者が多かった。 1.秀吉の政策に、たびたび反対した。 1.山門二階に利休の像を設置したので、秀吉が利休像の下を潜る。 1.豪華好みの秀吉と詫び錆の利休の考え方は、水と油だった。 まぁ、秀吉にとって「目の上のたん瘤」だったのは間違いないようです。

sora_iro1881
質問者

お礼

こんにちは! 助命願いが出るという事は、切腹命令からしばし時間があったという事ですね。 周りも知る事が出来たと。 山門の利休像の設置は、利休が願った事ではなく、大徳寺側が行った事ですよね。 利休は被害者では。 秀吉が居なければ、日本の歴史は全く違ったのでしょうね。 ご回答をありがとうございました!

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