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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:マタイの福音書 6:7について教えて下さい。)

マタイの福音書 6:7についての疑問

517hamaの回答

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  • 517hama
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回答No.2

こんにちは 私自身もクリスチャンです。クリスチャンという立場、個人的な認識として書かせていただきます。 質問者さんもクリスチャンということですのでご存知かと思いますが・・・ 聖書自体にもさまざまな種類があり、訳も異なります。また、同じ訳でも聖書の版数によってひょげんが変わる場合もあります。 マタイの福音書 6:7ですが ある聖書では  「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」 別の聖書では  「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」 ですから、 1と2の質問に別々に答えるのは難しいのでまとめての意見となりますが・・・ 私自身も質問者さんと同じような疑問を持って牧師先生や諸先輩に質問をしたことがあります。 わかったようなわからないような回答でした。(回答としては理解できますがやはり自分自身が素直にうまく解釈できるような回答にはならなかったです) それから年月が経つ中で今自分自身として理解をしているのは 「神様は確かに私自身が祈りたいと思っていることをすべてご存知である。」「しかし、自分自身が何を祈りたいのか、どうしたいのかを神様は知っているのに、自分自身がきちんと理解できていない。分かっていない」「だから、祈りという手段を通じて神様が私自身が気づくように語りかけてくださっている」と思っています。 最終的には「すべてを主にお委ねします」とするだけでいいのかもしれませんが、自分自身が祈りの課題であったり、祈りを通してどうすればいいのかを考えるときなのではないかと考えています。 一人で祈るよりも複数で祈る方が祈りの力を感じますし、祈る方によって御言葉を組み入れたり、流れるような祈りをされる方もいます。人の耳に聞こえの良い祈りをすることが目的ではないですし、どんなに言葉に躓きながら、言葉を間違えながらであっても、祈りたいという思いは神様に伝わると思いますよ 言葉を通して祈りますが、「祈りは言葉ではない」とも思います。 ですから、同じマタイの福音章の6:6では人に見せるものではないと言われているのだと思います。 祈りは神様との対話だと私自身は思っています。 何かの参考になればと思い書かせていただきました。

christ519
質問者

お礼

517hamaさま、このたびはありがとうございました! >神様は確かに私自身が祈りたいと思っていることをすべてご存知である。 しかし、自分自身が何を祈りたいのか、どうしたいのかを神様は知っているのに、 自分自身がきちんと理解できていない。分かっていない。 だから、祈りという手段を通じて神様が私自身が気づくように語りかけてくださっている。 とてもシンプルで解りやすい考え、回答でした! そうですね! 祈りという手段を通じて、自分自身の気持ちをきちんと整理するためでもあるのですね。 さらに信仰が深まった気がします! 心から感謝申し上げますm(_ _)m

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