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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:マタイの福音書 6:7について教えて下さい。)

マタイの福音書 6:7についての疑問

taco8chの回答

  • taco8ch
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回答No.4

「我は、汝の父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、 (出エジプト3章6節)死者の神ではなく生者の神である」 なんて自己紹介されたら、祈る方としては、 「あー、我らが父なる神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 死んだ者ではなく生ける者の神様~」と、くどくどしく唱えるのが人情。 おくゆかしくも自らを「愚かで弱い」と卑下するクリスチャンは、 おくゆかしくも自らを、とうてい神には近づき得ないと謙遜する。 そこでおくゆかしい君らは神の嗣子をして君らの仲介者にかつぎだし、 その名前を添えて祈ることを発見した。これもまた実に人情。 しかし人情なら我々異教徒だって引けはとらないくらい等しく祈る。 いつでもどこでもそして何にでも祈る。見えるもの見えないものに祈る。 星々に祈り、山河に祈り、砂嵐に祈り、森木に祈り、 鳥獣に祈り、花木に祈り、精霊に祈り、悪鬼に祈り、 死者の霊に祈り、石や古木や土くれに姿を与えて祈る。 誉れを祈り、富を祈り、生かせと祈り、殺せと祈る。 祈ること、それはおよそ人間の持つほとんど自然的とも言ってよい 本性の発露であって、 我らはそれをいつどこで誰から教えられたかは忘れたとしても、 手を合わせ、頭を垂れ、心に口に、言葉を唱えることは覚えている。 その本性じたいにクリスチャンやユダヤ教徒、異教徒の別はないのだ。 しかししばしば人々は、祈りの効力が人間の肉体と精神の力によって 神の吟味の秤にかけられると信じる傾向もあるのだ。 彼らは、祈りの集中と、熱心と、それにかけた時間量と労働量による 出来栄えこそが神の報酬に値するとかたく信じる。 訓練された肉体と精神の力が最上の祈りを生むのであって、 そして、そうではない、劣ったそれは奈落に下れと蹴落とす。 彼らは主張する「私はいつも祈っている。朝な夕なに。 喜びの時も悲しみの時も。世のため人々のために」 カルメル山で異教徒が神に捧げた全身全力の祈りは実に半日間に及んだ。 練られた呪文を唱えて自らの肉体を裂きながら踊り狂った。 彼らの純粋な血液は彼らの純粋な信仰の証明である。しかし忘れたか。 神は兄の初穂ではなく弟った者の仔羊に目を留めたのを。 主の祈りは、祈りの模範として伝えられているもので形式ではない。 ルカ書の教えるそれは語句も状況もマタイ書とは非常に相違する。 さらに伝えられている古い写本にはそうした言葉さえ見い出せないという。 宗教は教義を生み、教義は儀式を生み、儀式は形式化する。 主の祈りにさえ、宗教が言葉を肉付けしてきた痕跡を発見するのだ。 祈りが人の心に生じるときからか、あるいはそれよりはるか以前からか、 神がその予定と調和をすでに知るなら、人間はなぜ祈るのか。 契約の再確認という神への不信からだろうか。 ここにも人々によって奈落に蹴落とされたはずのひとりの盲人がいる。 「ダビデの子よ、我を憐れめ」人々は彼をダビデの子から引き離そうとするが、 そうするほどに盲人の叫びは大きくなる「ダビデの子よ、我を憐れめ」 ダビデの子は盲人を呼ぶと彼に問いかけた。「何をして欲しいのか」 隠されていた盲人の祈りは明らかにされる「目が見えるようになりたい」 で、目は開かれた。しかしそれは盲人の熱心と執着へのご褒美だろうか。 洋の東西を問わず言葉には神妙な働きを喚起するという思想が存在する。 心に想うこととそれを口に出して表すこととは違う次元の現象なのかしら。 ダビデの子は盲人に「言え」と命じた。「行け」とも命じた。 あげく最後にこうのたまったのだ「てめえのおかげさまで」

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