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鎌倉、世界遺産に登録せず。残念な結果に対する感想
- 神奈川県民で、日本史が好きな私にとっては、鎌倉の世界遺産登録の落選は残念です。
- 鎌倉は古都と言われますが、京都と比べるとアピールしにくいです。
- 鎌倉の地味なイメージや巨大な構造物のなさが不利に働いたのかもしれません。
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たびたび失礼~ 仏教徒の隠れ里ですか? なるほどねぇ。 確かに寺院は非常に多いし、実はかなりいろいろな宗派の寺があります。 禅寺のイメージが強いかもしれませんが、日蓮宗もあれば真言宗もある。 もちろんその他の宗派のお寺も・・・ ひょっとしたら、日本の仏教宗派の大所がそろってるんじゃないかな? 寺ばかりではありません。 神社も極めて多い。 八幡を筆頭に、神明社、八坂、八雲、熊野、諏訪、天神、稲荷、弁天、聖天・・・ 八百万の神々そろい踏みって感じです。 地神の龍神もいますし、鎌倉七福神なんてのもあります。 恐ろしいことに安倍晴明やお岩様、さらに立川流まであったりする。 いわば一種の宗教都市という見方が出来るのかもしれません。 (にしても稲荷が多すぎる気がするなぁ・・・知ってるだけでも30ヶ所はある) まあ、鎌倉は脱貴族文化が大本ですからねぇ。 確かにあまり華々しさはありませんが、逆に言えば後世の「侘び寂」に通じる一種の潔い、質実な美学がある。 そういう意味では、鎌倉の成立は確かに坂東武士なわけです。 しかしながらその後の歴史的な変遷を軽んじすぎた。 今回の世界遺産登録への取り組みで、鎌倉時代以降の鎌倉史についてはノータッチでした。 近世の鎌倉文化、文士たちや文化人、谷崎や大仏、清方や太宰に触れずに鎌倉を語たる? そりゃ問題外ってもんです。 さらに、これだけの宗教施設が集中している事に対する文化的・歴史的な解釈もない・・・ ただ、個別の説明があるだけで、包括的な「鎌倉観」を形成しないで望んだって、そりゃ無理ですって。
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- daidou
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面白い話が出てきましたね~ 私もそれと同じこと考えてましたよ。 「坂東平氏VS伊勢平氏」 坂東平氏から見れば、自分たちを切り捨てて京の都で好き放題やってる伊勢平氏です。 これは恨みを買って当然。 しかし、一応武士の棟梁である「平氏」を討つにはそれなりの旗頭が必要です。 平氏に拮抗できる武家の棟梁の家柄としては、源氏か藤氏。 おそらく坂東平氏にとって御しやすかったのが、当時弱体化していた源氏でしょう。 武官系の藤原氏はちょっと力がありすぎたかもしれません。 頼朝にしてみれば、坂東平氏の力を利用するつもりだったのでしょうけれど・・・ 事実として、源平後、源氏は三代で絶え、後は北条執権と御家人たちの支配下に置かれる。 うんうん、こりゃ間違いないですねぇ。 そもそも関東は高望王の昔から、平氏の勢力圏なんですよね。 むしろ関東こそが平家の本拠地だったような感すらあります。 長谷に「御霊神社」というお社がありますが、これはまさに鎌倉武士を祀ったものです。 御祭神は「鎌倉権五郎景政」高望王(平高望)の玄孫にして、鎌倉から三浦地域を開拓した坂東平氏の雄です。 大庭や梶原はこの鎌倉権五郎の子孫にあたります。 つまり元々鎌倉の地を開梱し、領土としていたのは平氏だった。 三浦義明、千葉常胤、上総広常といった武将も平氏の流れです。 ん? 義明に広常といえば、「犬追いもの」=那須野原の「九尾の狐退治」ではないですか。 ちなみに、この広常、後に梶原景時に首をはねられ、その太刀を洗ったという「大刀洗」という地名が今も鎌倉に残っている。 そんでもって、鎌倉の海蔵寺の開祖ってのが「玄能和尚」つまり「殺生石」を打ち砕いたという坊さんで、海蔵寺には殺生石のかけらと言われるものが現存してたりもする。 次に入ってきたのが、比企一族などの藤原の一派。 といっても都で優雅にやってた藤原じゃなくて、「俵藤太」こと「藤原秀郷」の直系で、バリバリの武官。 杉本城を築いたりしてかなり勢力があった。 なんと、大ムカデ退治・将門征伐の俵藤太の直系ですと? そしてやっと源氏です。 これで、頼朝の系譜が「源頼光」の直系だったりすれば文句なしなんですが、残念ながらそうじゃなかった・・・ その代わり弟の義経さんが大天狗の一番弟子でお相手が謎の白拍子「静御前」ですね。 こういうロマンあふれる伝説に彩られた一面てのがまるっきりアピールされてなかったのも、敗因の一つではないかな、と思います (なんとか回答の形になった(笑)
お礼
あなたの様な碩学に、私の「頼朝傀儡説」、「平氏内抗争説」を支持していただいて、心強いです。御家人が平氏庶流ばかり、河内源氏が名ばかりの存在になっていた、源氏の面々がことごとく北条氏に粛清された、こんな事実を考えれば、当然行き着く説だと思うのですが、武家政権の嚆矢である「ビッグネーム・頼朝」を蔑む説は唱えにくいのでしょうか。こういった事を主張した学者さんはいないのでしょうか。 私はさらに、頼朝は無能だった、もっと言えば北条が意図的にロクな教育もせず、操り人形として使いやすい様にしたてたデクの棒、うつけだったと考えています。北条(おそらく時政)は、頼朝を利用する陰謀をいつから考えていたのか想像するのも、血なまぐさいけど面白いものです。「奇貨居くべし」…。いや、もっとおどろおどろしい。 それにしてもこの時政、実に食えない人物ですね。歴史上稀に見るハラグロダヌキだと思います。それもまた指摘されないのも、ではそんな人物を重用し、支えられていた頼朝は何なんだ!となるからでしょうか。 それと、頼朝も暗殺されたと思います。義経、範頼、頼家、実朝と、ことごとく凶刃に倒れた中、頼朝だけが天寿を全うしたとは考えにくいです。書物によるその最後もぼやけていますし…。もちろん仕掛け人は…。 最後まで勝ち残った北条の悪辣さが目立ちますが、源氏粛清に、他の御家人も反対していない所を見ると、和田も三浦も、源氏を利用して、自分の勢力を伸ばしてやろう!という魂胆は同じだったのでしょう。北条がいなくても、源氏の命運は尽きていたのでしょうね(頼朝を担ぎ上げたら、どこからかひょっこり現れた範頼や義経も、ホンモノだかどうだか…)。 鎌倉幕府は、血で血を洗う、内ゲバ続きの政権だった…。お寺が多いのも、何だか納得出来てしまいます。 やっぱり、謎多き鎌倉のお話は面白いですね。こんな、歴史へのこだわりや愛着を全面に出せば、世界遺産に向けて努力するのもいいと思います。鎌倉の方は、みんな土地に愛着を持っておられるのでしょうね? 観光資源として、皮算用するのも否定しませんが、タテマエとホンネは使い分けなければ…。日本人は、バカ正直なのかなあ…。
- reflector
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あれ? HN変えたのですかw >源氏が、北条が、比企、和田、三浦が、足利、新田が…と空想しながら、お寺などはもちろん この「比企」はコリアンですので無関係です。 さて、本題です。 鎌倉は偽装した関所だったと考えられます。 関東圏に入所するには、平家と組まなければ入れなかったようです。部外者はお断り。 つまり、北条家と手を組み入国を許されたと考えましょう。 そして、コリアン討伐部隊は、不法入国、不法占拠していたコリアンを抹殺したようです。 その内の生き残りが、誰かと一緒に北海道からモンゴルを経由、半島へ辿り着いたと思われます。 この一派は、後の李氏朝鮮になったようです。 本題の源氏は、コリアン抹殺指令の他に、聖地を整え子孫を継承する役目があったと思われます。 安倍晴明の千年後復活が主体にあったと考えられます。 なお、和泉式部が詠ったと言われている短歌ですが、史実はイワナガヒメ(石長姫、岩長姫)が老衰するまでに書いた詩です。 和泉式部は、推定年齢40歳代半ば過ぎに貴船神社で短歌を翻訳、京都で詩を公開しました。 つまり、紀元前2世紀ごろ、日本にヘブライ語(文字)があった訳です。
お礼
HNとは、ハンドルネームの事でしょうか。ここではIDと言う様ですが、私は、こういったサイトは、ここが初めてで、去年11月の、ここの利用当初から「ftyn」ですので、人違いです。 さて、コリアンの事はよく分かりませんが(大陸からの流入は、断続的に続いていたのでしょう)、鎌倉幕府の顔ぶれは、北条、和田、三浦、梶原と、有力な御家人が平氏の庶流ばかりなのが不思議に思っていました。 そこで私が考えたのは、源平の抗争は、京の平氏(貴族=本流)と、関東の平氏(庶流)の、平氏同士の戦いだったのではないか、という事です。諸流は、関東の戦力を結集するための戦略として、源氏のネームバリューを利用したのではないか?つまり、頼朝は単につるし上げられただけの、飾りだったのではないか? ずっとそんな事を、勝手に考えていました。だから、鎌倉が平氏(本流に敵対する同士)のための関所だったという説には、なるほどと思います。 世界遺産とは関係ないお話なので、これぐらいにしますね。勝手な説を言えて、ああ、スッキリした!
- mekuriya
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鎌倉は世界遺産登録運動を町興しに利用しようという匂いが余りにも臭すぎたし、日本遺産とは呼べても世界遺産に名乗りを挙げるのはいまいち違うかなと思っていました。鎌倉は最初の本格的武家政権とは呼べるけど、具体的に何がそうなの?って感じでぴんとくるものがない。京都の公家文化に対抗して臨済宗を中心として鎌倉仏教を振興させたというだけの話で、それは日本史のテーマとしては意味があっても世界史的には平安仏教だの鎌倉仏教だのは全然関係ないですよね。鎌倉の観光資源は日本人には価値があっても世界的に見たらどうなのだろうかという疑問があります。そもそも世界遺産は、観光の後押しをすることが目的なんじゃなくて、人類の普遍的価値を表す遺産を後世に残そうという主旨なんですよね。観光的効果は否定できないまでも、それはあくまで副産物です。日本はもう十分な世界遺産があるし、二流国みたいにそうがつがつしなくてもいいと思いますし、鎌倉にすれば永遠の世界遺産候補というキャッチフレーズでも十分、観光客にはアピール出来そうな気がしますけど。そんなに外国から観光客を呼びたいなら英語、ドイツ語、フランス語といった外国語でもレストランのメニューを表示した方が良いように思いますけど。世界遺産に登録されれば観光客が増えるだろうという取らぬ狸の皮算用的発想は余りにも安易だし、努力する方向をまちがっていないかという気がします。 要は外国から観光客を呼び込みたいってことなんでしょ?それなら世界遺産登録に拘るのは発想が邪道だし、努力の方向性を完璧に間違えているとしか言い様がない。 念のため、付け加えれば私は日本文化を世界に紹介し、観光資源をアピールすることは大賛成です。しかし、それにはもっと地道な努力が必要だと思う。方向性を間違った努力ほど、この世に滑稽なものはありませんからね。そういうと日本の近くにそんな国があるように聞こえて来ませんか?
お礼
世界遺産の主旨は仰る通りですが、実際には、裏で金勘定をしているお方が、どこにもいるのではないかな…?お隣の国々しかり。 鎌倉のイメージを色で言うと、どうも「灰色」になってしまいます。彩がないのですね。歴史的な意義はあるけど、史跡がないせいか、室町(京がお膝元)や江戸の幕府に比べると、ずいぶん昔の事に感じます。 鎌倉幕府って、後の幕府に比べると、地方政権だったのではないかな、などとも思います。 鎌倉って、お寺ばっかりですよね。栄えていた時代も、あんなに辛気臭かったのかしら?他の方へのお礼でも触れましたが、古都というより、「仏教徒の隠れ里」に見えてしまいます。 こう書くと、ワルグチばかりになってしまいますが、私は鎌倉は好きですよ。念のため…。 ご回答、ありがとうございました。
- bougainvillea
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鎌倉は鎌倉時代は栄えましたが、室町時代に入ってから街は衰退、 地震や明応津波に襲われて、街は壊滅的な打撃を受けました。 江戸時代はわりと寒村みたいな感じで、明治になってから 源氏を祖とする島津氏の薩摩藩出身者が大量に移住。 海軍のある横須賀にも近いですもんね。 戦後はベッドタウン化が進んで、観光地に。日本は欧米に比べて 景観規制がゆるいので、むごい街並みになっています。 「武家の古都」を打ち出したけど、鎌倉時代のお城や天守閣はないし、寺社や切り通しだけ。 世界史的な意義として、五山の禅宗がモンゴル撃退の精神的支柱だったとか、 江ノ島をモンサンミシェルのような信仰と神社が合わさった島だとか もう少し膨らましてもよかったように思います。 平泉や石見銀山が登録されて、鎌倉がないというのはさすがに腑に落ちないですが、 最近は海外でもイギリス・バースの温泉とかショボい世界遺産が多いので、これも仕方ないかなぁと。 TBSの世界遺産とかでショボ遺産の回だと腹が立ちます。 まぁ、五輪でレスリングが落選するんですし、国際的組織でも全て正しい判断を するわけではないということで、納得するしかないのでは?
お礼
鎌倉の「サクラチル」(落選ではないらしい)は、私も消極的ながら納得です。「かつて幕府があった所」という、予備知識がないと、地味なのですね。さびれていた時代が長かったからなのでしょうね。 いささか不思議なのですが、鎌倉は、かつて栄えた感じがせず、むしろ「仏教徒の隠れ里」みたいな、薄暗さを感じます。 ご回答、ありがとうございます。
- tpg0
- ベストアンサー率31% (3785/11963)
世界遺産登録に落ちたのではなく、鎌倉市が自主的に辞退したのです。 なぜなら、世界遺産登録選考に一度落ちたら、二度と選考対象にはならないそうなので世界遺産登録に万全を期すため、今回は鎌倉市側から辞退したことを報道で知りました。 従って、鎌倉市は世界遺産登録に不備な所を今後は整備して、次の世界遺産登録を目指してるはずです。
お礼
辞退ですか。ああ、確かそうでしたね。前の方のお礼にも書きましたが、次回以降も難しい様な気がします。 ご回答、ありがとうございました。
- localtombi
- ベストアンサー率24% (2911/11790)
武家の古都と呼ぶにはあまりにも、遺構が少ないということではないでしょうか。 非常に分かりやすく言うと世界遺産そのものは「人類の宝」と言えますが、鎌倉はそれの足元にも及ばなかったということでしょう。 鎌倉は、貴重な文化都市であることは異論がありませんが、都市化が進み、社寺はあるが武家の権力を示す遺跡が少ないということです。 例えば、構成資産である「荏柄天神社」の参道付近で進むマンション建設計画について、この場所は源頼朝の幕府跡の近隣地で、景観や環境を保護するバッファゾーンに当たりますが、業者が建物の高さを計画よりも低く設定したことを受けて、平成23年の秋に市が計画を認定しました。 住民は反対しましたが、その「のぼり」が立ち並ぶ様子を、調査員がメモしていたそうです。 結局、ビジョンがないままに都市化を進め、世界遺産という話に「にわか仕立て」で“武家の古都”という理由を考えたものの、都市化が進んでいる現実とのギャップに対して説明がつけられなかったということに尽きます。 しかも、大震災並みの地震(東南海連動地震)が起こったら、鎌倉は10~15mの津波がやってきますから、とても世界遺産どころではありません。
お礼
全盛時代の遺構がほとんどないのは確かですね。地形だけではねえ…。歴史を知っている我々日本人には貴重な場所なのですが…。 開発のお話は詳しく知りませんでしたが、それでは、次回以降も難しいでしょう。 ご回答、ありがとうございました。
- daidou
- ベストアンサー率29% (491/1687)
残念でしたねぇ。 というか、市民としてはむしろ良かったような気がしなくもないです。 あぐらをかいてる市の名士と称する連中にゃあいい薬でしょう(笑) そもそも、「武家の古都」? ええと・・・ お武家さん関連ってなにかあったっけ? 七口(切通し)と稲村ヶ崎の古戦場? 一応鶴岡八幡宮が源氏の関係か・・・ 大仏も五山も江ノ島も武家とはちょっと違いますしねぇ・・・ 実際に鎌倉武士に関係する史跡はともかく少ないし、あっても「ここが昔そうだった」って場所だけで現物がない。 長谷の大太刀稲荷とか小町の政宗刀工とかいっても知名度低いしねぇ。 残ってないんですよ、鎌倉の武家文化って。 「武家の古都」ってキャッチコピーは明らかに選択ミスでしたね。 じゃあ、ほかに何があるのか? うーん、決定力不足です。 せめて「八幡宮」「大仏」「江ノ島」をひとくくりにできるキーワードが必要だったと思います。
お礼
鎌倉は、その時代の史跡が、大仏さんなど、ほんのわずかで、「昔は栄えたんですよ」といった感じの、通好みな場所と感じます。歴史好きには、想像を膨らませられる、いい所なのですが…。「世界遺産」となると、ちょっと違う様に思います。後援者さんには申し訳ないけれど、落ちたのも、仕方がないかな、と、余りこだわりのない私です。 ご回答、ありがとうございました。
お礼
二度目のご回答、ありがとうございます。大変にお詳しいですね。鎌倉か、その近郊の方でしょうか。 宗教も神様もそろい踏みとなれば、歴史に頼らなくても、日本の宗教のメッカ、現役の「宗教都市」として喧伝するのも、間違いではなさそうですね。 それにしても、「宗教都市」とは、言い得て妙、ですね。なるほど、貴族文化の向こうを張って、宗教都市を築き上げた名残が、今の姿なのですね。さして広くもない地域に、あれだけの神社仏閣がひしめき合っているのは、シロウト目に見ても一種独特で、世界遺産には寸足らずかもしれないけれど、歴史的な価値はおおいにあると思います。 幕府以後の歴史。これは大切な視点ですね。滅亡後の足利氏の支配。公方、管領。扇谷、山内・両上杉氏、後北条氏の支配。江戸時代は、幕府の天領だったのでしょうか。詳しく知っている人が、どれぐらいいるでしょう。私も詳しくはないので、大きな事は言えません。 かつて幕府があった古都だから、世界遺産に…だけでは、通じませんね。何だか、難しいお話になってきました…。