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《にんげんの前史》を終えてみませんか。

noname#180711の回答

noname#180711
noname#180711
回答No.3

 力のはいったお礼、ありがとうございました。遅れてごめんなさい。言い訳は、カロリーが足りなかったということ(集中力散漫)、難しい話だなと思ったということです。ついに脱落して、食事を買ってしまいました。美味しかったなあ。人間は罪深いものです。もっともこのままやって死んだ人が世にはいます。シモーヌ・ヴェイユは栄養失調で、実質的に餓死したそうです。何だか、子供に供給されている食料が足りないと抗議して、自分がそのカロリーで生きてやると啖呵を切ったそうです。その結果、実質的に自殺になりました。 > 5. そういうとき ユニクロが 《ブラック企業》の汚名を着なければならないのは 明らかに当然だと言うのか。言えるのかどうなのか。  未だかつてあったブラック企業と比べると、ユニクロはまだマシなのかもしれません。しかしそれでも私は、ユニクロはブラック企業の分類だと思います。福利厚生がしっかりしている企業と比べると、どう考えてもおかしいことをやっていますので。  私の衣類の約三分の一がユニクロです。これを捨ててやりたいところですが、お金もないので、次回から買わないことにしました。買う時に、店員さんの顔を恥ずかしくてみていられません。この安い服は、この人の労働対価を搾取して成立しているのかあと思うと、特にです。適正な価格で買いたいですよ、本当に。昔のユニクロは、他の衣料メーカーが暴利を貪っているのに風穴を開けてくれたんだと思っていましたが、今は全く違うことをはじめています。  じゃあ、どこで買うべきかというと、それは分かりません。コムデギャルソンなど割高な店で買えば、それはいいんでしょうが、そんなお金ないですもの。自分で縫うのがいいのかなあと思いますが、今度は布と糸の生産者が搾取されているということになったら困ります。フェアトレードの価格を調べて、考えたいと思います。  私は正直、安すぎるものは買うべきではないと思います。コーヒーでも何でも、味などで選ばず、もうその値段はそういうものかと思って、お金を支払っています。その代わり、毎日は消費できませんが(笑)。アフリカのコーヒー、本当にまずいですね。エチオピア産でまともなものは、そんなにないです。でも、暮らして行けないと言われると、どうしてもそれを買います。 >8. 《会社が生き残らなければ 従業員も人びと一般も生き残れない》というような側面が まったくないとも言えない情況なのか どうなのか。  いや、これは論点が違うのではないかと思います。会社は存続して行けるんでしょう。富の分配の仕方が変わるということです。従業員5人に2000万円を支払うとすれば、今は一人400万円だった。これからは、一人が1700万円とり、残りがそれぞれ100万円ずつにせよ、ということでしょう。ですので、 > 11. ならば 過去において《アース役》だった人たちに向けて 経営者や会社内外の人びとが パワハラについてごめんなさいと ひとことあやまるだけで 風通しはよくなりましょう。全国的にです。  日本人は これが出来ると思います。(ほかの国でも出来るでしょうが)。  それは夢物語に思えます。そうできるなら、そうしたいけれども(笑)。いや、ここは笑う以外に反応が思いつきません。嘲弄の笑いではなく、無力感を吐露する笑いです。そういうわけで、笑いのついでに、次の詩をお読みくださったらと思います。即興で書いたものですし、他の欄で投稿もしてしまいましたが、ぶらじゅろんぬさんの意見を聞きたいと思いましたので。ちなみに、私の投稿の補足欄を読むと、あの青年は、ぶらじゅろんぬさんの考えに近い発想なんだなと思いました。競争からおりてやる、それが抗議になる、ということですので。 「年収100万円世代の歌   ーユニクロの社長に捧ぐ」 http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20130411/246495/?rt=nocnt 私の人生で無意味なこと、 それは音楽を聴くこと、 おいしいものを食べたいと思うこと、 本を読み、ものを考え、 家庭を持ち、子供を育てたいと思うこと。 私の人生で有意義なこと、 それは機械のようにルーティン化した暮らしを送り、 ただ栄養剤をちゃんと飲んで保険の審査に合格し、 老衰が起きる前に死亡し、 保険金を老いた両親に残してやること。 私たちに、あらゆる宗教が教えるべきこと。 生きているのは無意味である。 しかし死ぬのも無意味である。 だから生きても死んでも、どちらでも構わない。 なら、生きていようではないか! 私たちの世代は「眠りの世代」だ。 睡眠時間を削って働く者は、ゆっくり眠ることを夢にみて、 低所得者は、カロリーが足りなくて虚脱感のあまり眠り込み、 解雇されたものは憂鬱のあまり一日を眠る。 誰が目覚めていられよう? おお、心臓はむしり取ってしまえ、 知性は放棄し、よく見える目は潰せ、 生殖器はむしり取ってしまえ、 子を残してはならない、 不幸の種をまくことになるからだ。 おお、私たちを家畜にするがよい、 その覚悟はできている。恋もせず、与えられた餌のみを食べよう。 管理者がくれば、喜んで身を差し出し、売春もすれば、臓器も売ろう。 だが家畜にだって、相応の配慮をするものではないのか。 残しておいてもらいたいものだ、 一つの夢を。それは自分たちが生まれてきた意味があるということ、 食べられたとしても感謝されて食べられるのだということ、 仕事をして他人のために役に立てたという満足があるということ。 だがそれさえも、今は許されていないのだ。 あるのはただ、廃棄処分場で見上げる錆びた空と、何者かの高笑いのみ!

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。とため息まじりに息を継ぎまして まづは ご回答をありがとうございます。  先に次の問題を取り上げます。  ★ ちなみに、私の投稿の補足欄を読むと、あの青年は、ぶらじゅろんぬさんの考えに近い発想なんだなと思いました。競争からおりてやる、それが抗議になる、ということですので。  ☆ まづ わたしは《ゲームから降り》ていません。初めから今日に到るまでです。  《競争》を・つまり世間と同じ競争を同じようにやるかまたやったかと言えば 同じ外見でおこなった・またはおこなおうとした。心は違っていたのかも知れない。  結果 究極では 取り合われなくなった。世間が若年の者をひとり取り扱うのに 特別の手立ては要らないということだと思います。  けれども  ◆ 静かに暮らしたいだけ   ◆ うるさい生活を離れたいと望む  ☆ ということはありませんでした。人びととは手法をたがえて(できるだけわたし自身の手法で)しかしおおむね同じことをやろうとしていたとさえ考えます。  歯車は回り続けていました。また人びとのしんがりに位置しようとは どこかで心がけていたのでしょう。そのような気持ちにもとづくわたしの発言は いやがられたか けむたがられたか あざわらわれておしまいだったか。  こんなところでしょう。  ですから それからというもの 言論の場で――と言ってもじっさいに公共の場には立ち得ませんでしたが もくもくと――《ゲームの内にいて それとしての競争をおこなって来た》となります。  《抗議》をしたという感覚はありません。  ただし 世界観の上で 自分がおかしいぢゃないかと思ったその思想に対しては 抵抗するどころではなく けちょんけちょんにけなして来ました。批判するしかないという理解でした。  信仰としてのではなく組織宗教としてのキリスト教 ゴータマ・ブッダその人の思想 日本教一般および特にはその二階建て構造の仕組みなどなどです。  この姿勢ないし態度は ですから ブラック企業の問題についても 当てはまります。  たぶん むかしとの違いは 歯車の回り方は そうとう違って来ていると思われることです。しんがりからも振り落とされたなら いまは 訴訟にまで持ち込み闘うという雰囲気が満ちています。  そうせよと言うのではなく この雰囲気があるということは そうとう人びとの思いや気持ちに違いが出て来ているのではないかと思うのですが それでもかえって その逆の反動もつよいのでしょうか?  つまり 支配的な思潮ないしクウキに反発するチカラが出しやすくなった。にもかかわらず そのクウキを読まない抵抗力の発揮に対しては 反動のチカラも同じく強まっているということなのでしょうか。    でも たぶん それだと ふるい勢力は 自己防衛しなければならないと感じているということですから 時の流れ 歴史の歩みには 逆らえないといった感覚も 次第に深めて来ているのではないか。  ひとこと誰かが そのお二階さんなる指導層の人びとやその功績について 愛にあふれる讃辞をささげるなら どこかの時点で イチコロになるかも分かりません。風前のともしびかとも思われます。  いい加減 《アマアガリ》を敢行して歴史の長い人も短い人も その固有の方言としてのアマテラス普遍語――すなわち アマテラス人格語およびアマテラス科学語――の立派さを保つみづからの位置にうんざりして来ているかも分かりません。  人格語も科学語も(それらは 確かに大事ですが) やはり ほころびを見せて来ている――つまり昔から ただのタテマエにしか過ぎないと分かっていた――と思われます。  あやまつことのないアマテラス普遍語 これの永久保持は むつかしくなってきたのではないでしょうか。  あやまち得るスサノヲ人間語――理性だけではなく感性をも活かす人間語――の出番だと考えられます。本音の問題。ホンネをどう表わすかの問題などとして。  というよりは アマテラスお二階さんは ほとんどつねにスサノヲ市民社会の中から その人間語に磨きをかけてアマテラス語にまで深め高めたその思想や研究の成果を輸入してと言いますか パクって 自分たちの社会や国家の運営にあたって来た。  そろそろ アマテラス公民圏の人たちよ 大政奉還してはいかがか? と問うときなのではないでしょうか。地域社会(ムラ)の主権という意味です。インタムライズムと呼びます。  このインタムライズムを国際的にも おしすすめつつ ブラック企業の経営姿勢等々をも見守って行き ムラ市民の声として よりよい方向へ提案をして行く。よりほかにいい案が思い浮かびません。  振り落とされた場合 訴えることもありと成って来たと言いましたが 訴訟をする方法は けっきょくこれまでのやり方と同じ軌道の上にあるのでしかないと思われるからには あんまりおもしろくありません。  シモーヌ・ヱイユは 残念ながら やり過ぎたと思います。いいことであっても。  ユニクロ社長の考えは 年収一億と百万とに分かれるという議論でしたね。見落としましたが やはり会社内外での意見や世論によって このような仕事のあり方についての考え方をみんなで みちびいて行くという手立てが考えられます。  でぃーくべくさんは すでに抵抗運動を先駆けておられるようですが 何とか みんなのチカラとして表現するかたちに持って行きたいですね。  しょうじきに言えば  ★ 福利厚生がしっかりしている企業と比べると、どう考えてもおかしいことをやっていますので。  ☆ という行き方はわたしは採りません。福利厚生の費用は けっきょく収益からもたらされると考えられるからです。付加価値の分配として 給与や福利厚生もあるわけですから けっきょく 競争力と仕事の働き方といった問題に問題があると思われます。  あとは 新興国と先進国とのあいだで 報酬の配分がいかにおこなわれるか。一律百万なのか。これは 議論して行けばよいのではないでしょうか。  ★ 老衰が起きる前に死亡し、  ☆ は いいとしても  ★ 保険金を老いた両親に残してやること。  ☆ となると ご両親のほうがかなしまれますよ。単純に。  ★ おお、私たちを家畜にするがよい、  ☆ そのむかし社畜とも会社奴隷とも言われていたわけですが 人びとはけっこう向かって行きました。能天気みたいに。  その旧世代の遺産が どう成ったのか。  ううーん。どうしても A 圏のお上のかじ取りが どこかでうまく行かなかったと思ってしまいます。  ここは 単純に へたぢゃないか と言ってやるのが 思いやりというものではないでしょうか。すねたりせずに。  家畜に成ってやるから 相応の配慮をせよというのではなく 必ずしもそうではなく おまえさんたち 優秀な船頭さんたち 世界はその優秀さ以上に複雑きわまりなかったみたいだ みんなでそのゼロ地点から再出発しようぢゃないかと 新世代は 言うべきではないだろうか。  もうしばらくは あらためてアース役になって その尻拭いさえをもやってやるから 元気を出して その能力を発揮してくれたまえと。  シガラミやゴミの処理は あんがい得意なんだ なぜって われわれは 単純に言って愛に満ちているのだ だからこの世界の中でもっと前へさらに前へ 後顧のうれいなく すすんで行ってもらいたい。  こう言ってやっておけば たとえすぐに効かなくても ボディーブローのごとくのちになって効いてくるかも分からない。  けれども 愛に満ちていなくてはダメだ。批判をするにも 愛において。なのかな。  そのチカラは どこから出て来るのか。  もともと そなわっている。としか言いようがない。

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     について あらためて問います。第三セッションです。  まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。  今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ        の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース      (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は      ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。       人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。    階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか?   ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • にんげんの前史から後史へ(!?)

     歴史を展望してみたい。第三弾。  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。   (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通   (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。         したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ         の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり)  § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。   (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者       とに分かれる場合。        ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い       にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら       れる。        それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る       音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。         このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関       係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース       (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は       ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。        人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。        チカラ関係としての社会力学の兆し始め。   (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工       的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし       てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと       して出来たもの。        身分関係。その世襲制度。         特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階       建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで       は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する       場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係       およびその社会構造がかたちづくられる。        (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての       流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ   (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。   (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。   言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。   ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。  ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。    階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。   ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。   (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。  マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。  このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか?  中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。    日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。  一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き)  社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。  ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。  前史を終えて後史に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか   いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。  もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。  宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。  一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。

  • にっぽん がんばれ。がんばれ にっぽん。

     われわれは にんげんの前史を終えることができるか  § 1 ヒトの定義から入ります。  その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると考えます。  (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通(マジハリ)  (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。        したがって競争し奪い合おうとする交通人は 社会とい        うヤシロのその神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり        なるクセ)  § 2 ここから《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。  (あ) 第一次の権力関係:        ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく       ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても――        まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを下にある       ことに甘んじて受ける者とに分かれる場合。        この場合には そのまなざしの上下関係が 互いにみと       めあっている自生的な性格のものと        そして一方が《アース(接地)役》を務めるかたちとなるよ       うにそれが必ずしもよいことだとは思われない作為的・人       工的な性格のもの         とがある。  (い) 第二次の権力関係:        第一次の《自生的な性格のもの》からにせよ《人工的な       性格のもの》からにせよ そのまなざしの上下関係を社会       制度として固定させようとして出来たもの。自生的なもの       も 作為的となる。        身分関係。さらには その身分の世襲制。         特には 社会を《市民スサノヲ圏と公民アマテラス圏》と       の二階建ての構造として固定する国家における身分制度       としての・その社会力学的な(=世間のシガラミなる)交通       関係としての構造。        (その中で一階と二階とのあいだで流動性が保証されて       いる社会のあり方も 現実的ではある)。  § 3 階級ということ  (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられ取り扱われる。  (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ情況としての二階建てに成ると捉えられる。どういうことか?    言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲んだかたちとなっている。そこから よくもわるくも 言わば《情感の共同性》なる情況を醸し出して来る。  ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれを保守する社会的な圧力が加えられたとしても もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ゆづり終えている。  (ただし 情感の共同性についてその綻(ほころ)びと繕いとは しょっちゅう起きている)。  ゆえに――そうとうきびしいことだけれど―― そのお二階のえらいさんよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと どこかでその二階へのアマアガリについて反省し ほんとうはこのアマアガリ教とその実践はどうも行き過ぎだったと思ったときには人間にお成りなさいと心のどこかで言っている。  (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。  § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》  経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として取り込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み 一面ではその《お金をとおしてのマジハリ》といった一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを一人ひとり誰をも世界史的な存在とすることとなった。  この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやいくら革命をやっても堂々巡りであると分かったところまで行き着き)    社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいのお この位を下りて心だけとしてでもアマクダリしてみたいわいと言い始めたなら――)   (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に分かれつつ社会形成の道行きのもとにそれぞれが自己形成してきたホモ・サピエンスは その潜在能力をもう全部出し切ったと言える地点に来たのではないか?  しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでにわれわれじんるいは採っている。  ふるいニンゲンは ほろびる。んだにゃあ。  にんげんの前史を終えて後史――どんな?――に入ると見てよいのか?  そう見るのが ふさわしいのかどうか?  よろしくご教授ください。  われらが《あたらしいひと》とは どういう存在か?  にっぽん がんばれというのは この新しい歴史にあって日本が先頭を走っていると推し測られるからです。  当てずっぽうなのですが それでもコジツケをおこなうならそれは あらゆる宗教から完全に自由な《もののあはれを知る》思想(生活態度)に立脚する縁の下の力持ちたるスサノヲ草の根市民が おっとどっこいと言って 立ち上がって来ると思われるからです。にっぽん がんばれ。

  • 吉本隆明の思想について

     次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。

  • 強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか?

    強者が弱者を餌食にするのは、人間社会でも働く法則でしょうか? 政治カテゴリーによく首を突っ込んでいるのですが、社会的弱者に属する人や集団を排斥し差別する人の投稿が、守ろうとする人の投稿より圧倒的に多いように感じるのです。 植物には住み分けというのがありますが、同じ場所にある場合、より生命力の旺盛な種がそうでない種を駆逐して繁茂しますよね。 動物の場合はもっとはっきり、肉食獣が草食獣を食べて生きて生きます。人間社会の場合、途上国ではやはりこの法則がはっきり見えます。一部の権力と富を持った支配階級が、権力も金も無い大部分の弱者を徹底的に搾取する社会が固定化しています。アメリカの支配階級は全世界で傀儡政権を作って一般民衆を弾圧し富を略奪し続けています。 人間社会は違うと教えられて来たはずなんですが、日本社会もどうもその法則から抜け出せていないと見えるんです。日本にも支配階級というものが形成されています。官僚や利権政治屋、大企業が日本社会を自分たちに都合のいいように動かしており、弱者の立場を代弁する共産党や社民党が一向に反撃できません。在日は日本のマイノリティーであり、弱者です。その彼らを見下し、差別する投稿が政治社会カテゴリーでかなり優勢です。 人間社会も所詮、生物社会の法則に従うのか、強い者が弱い者を食う。人類の進歩、幾多の血を流してたどり着いた民主主義社会というのは幻想に過ぎないのか?戦時中の反省から、ずっと反権力で弱者の立場からモノを言っていた朝日新聞も数年前から、完全に世界一の強者であるアメリカの腰巾着のような新聞になってしまいました。最大多数の最大幸福なんてのは、所詮不可能で、人間社会も落ち着くところは、一部の強者が残りの大分を食うような社会ということになるのでしょうか? いや、人間社会は違うというなら、どこがどのように違うのか教えて下さい。人間社会には動物社会にはないモーメントが働く可能性があるのでしょうか? どうも今の日本社会を見ていると悲観的になってしまいます。

  • フーコーは 人間は権力人だと見たのですか

     【Q‐1】 かつての実存主義で言うように 権力ないし権力関係というのは 社会生活において一般的に見られるものであって それは 基本的に言って 人間関係における視線の上下関係のことを言うと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐2】 もしそうだとして このように 視線をそそぐ・受けるという関係が たとえば西欧中世では《羊飼いと羊の関係》のごとくであったと考えられるが これは そういう《認識の装置》が 大きく言って《物語》として 人びとに共有されたことを意味する。これで よいでしょうか?  【Q‐3】 この《認識の装置》としての物語は いわば 権力関係の素であるように思われるのですが それは どこから来るのでしょうか? たとえば 《構造》から来る。もしくは社会の総体的な《構造》じたいが そういうものである。ということでしょうか?  【Q‐4】 このような構造ないし物語が どの時代にも はたらいて その意味で一定の文明をかたちづくっているとするのならば 人間は 権力関係人ないし権力人(――これを ホモ・何と言えばよいでしょう――)であると規定したと捉えてよいのでしょうか?  【Q‐5】 もしすべてこのようであるとすれば そのときには フーコーは そのように自分の紡いだ《権力人物語》を 人間と社会とに あらたな認識の装置としてのごとく おおいかぶせようとした。としか捉えられないのですが じっさいのところは どうなのでしょう?  おおしえください。  【Q‐6】 わたしの見るところ どうも 《構造》を 人間の意志の与り知らない《無主体の過程》であると捉える前提があって 簡単に言ってしまえば この前提が わざわいしているように思えるのですが どうでしょう?

  • 人間とは?

    皆様、おはようございます。 先日、金正男氏が暗殺されるというニュースが流れましたが、皆様はそのニュースを見てどう思われたでしょうか? 他国のことだから関係無いや。と思われた方も多々いらっしゃると思います。 そういう私も、そんな感覚でしたが、ふと、日本の或る漫画にも同様のことが描かれていることに気付き、人間なんてものは同じ、日本もあの国と同じ状況になれば、暗殺が行われるのでは?と人間不信に陥りそうです(涙) その漫画とは、「プラチナエンド」 簡単に言えば、神という権力の座をかけて、人間同士が殺しあうストーリー。 あの「DEATH NOTE」「バクマン。」を手がけた、大場つぐみ&小畑健コンビの漫画なので、人間同士の殺し合いの中にも、愛や希望を強く感じることは出来ますが・・・ ふ~う、人間とは何か?皆様はどう思われますか? 私は、権力の座には全く興味が無く、我が家の権力の座は妻のモノなのですが、 もし、プラチナエンドのような状況に巻き込まれれば、自分が理性的な行動をとることが果たして出来るのかどうか? 白の矢を使いライバルを殺し、赤の矢を使い他人のココロを操るという欲望に負けてしまうかもしれない・・・全く自信がありません。 ただ、「笑う」ことが出来れば、人間は大丈夫とも漠然と感じているこの私に、あなたの思う人間について、(プラチナエンドや権力論についてでも構いません)簡単で気軽で良いので教えて下さい。

  • 前史を終わらせるには どうするか?

     どのようにして 前史を終わらせるか。  (1) まづ基本的に 《何もしない》 が答えだと考えられます。  (2) それと合わせて対案は 次です。  (2-1) 基本的に いまの前史の過程をそのまま進む。   前史の過程に棹さして歩む。これが 前史を――もしそういう自然史過程および人為的文化的過程としての人類史であるとすれば――終わりにみちびくのだと。  (2-2) これは 同じく基本的に《ひとり》としての人についても当てはまると見ます。   その人それぞれに持ち合わせている前史の要素 これをひととおりその人の思う存分展開させること このことをとおして もしそうだとすれば 前史が終わるのだと。  (2-3) 言いかえるとこの個人史というのは 個人対個人の関係ないしシガラミのような関係史としての展開となると思われます。   うまく行けば その十全な展開が ただ互いのあいだの想像上のたたかいを対話というかたちにおいて成し終えることだけで果たされるかとも見ます。  あるいは ヒラメキによって一瞬にして わだかまりは解け 互いの和解にみちびかれるかとも見ます。  (3) ただし たとえば社会形態を新しい形態へ移行させるといった文化的側面においては どうか?   ――と言ってもそれも けっきょく個人どうしの上下身分の関係とその錯綜構造としては 生まれという要素も社会的自然というかたちでからんでいると思われますが そうだとしても―― どこからでも新しい契機は持ち出されて来るものと考えられます。  一点突破は どこからでも試みられる。社会形態には どこにも隙がある。  考えが思い浮かんでその考えをよしと見た者がその新しい社会像を推し出して来ると思われます。これを吟味検証していけばよい。  (4) 前史としては あとはそこで社会力学上の関係錯綜の過程をたどって行くはずです。    (5) そうして 基本的に・全体として見て 《前史を終わらせる》には《前史に沿って歩みを進める》のが筋道だと考えます。   つまり その中で――全体としての自然史過程の中で―― 社会形態にかんする側面である(3)の仕事は 人為的に作為的にはたらきかけコトを起こすほどの行動をすすめるわけですが その結果も 全体として前史に沿ってあゆむ。こうなるかと考えました。  (6) あるいは抽象的に言ってしまうと こうなりましょうか?  《前史人が自己とそして社会と和解したときに 前史が終わる》と。  前史のシガラミに不満をかこちその短所をののしっている間は のぞみが薄い。のかも分かりません。  (7) それとも《前史》などという捉え方が どこかまちがっていましょうか?