• 締切済み

概念を超えた世界と不爭の相

内容物がそれぞれ異なるゆえに、また、外殻や入れ物がそれぞれ異なるゆえに、質が、重さが、何某が異なる故に物事は衝突し、壊れる、そのように見たとして、仮に言葉でさえもそうであるならば、概念を超えた世界と、そこには不爭の相が見られるかということについてお尋ねしたいです。わかりにくい文章ですので、補足あればいたします。 どうぞよろしくお願いします。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

こんばんは。 すみません。 「全部、物理だから」で納得出来るか、というと、 ・・・まあ、そういう立場もあるというのは、判るわけですが。

noname#181644
質問者

お礼

これはいわゆる、唯物論?というご回答でしょうか。たしかに生理学や物理学が進めば、。と思いもしますが、自分にはよくわからないです。 ご回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.1

>内容物がそれぞれ異なるゆえに、また、外殻や入れ物がそれぞれ異なるゆえに、質が、重さが、何某が異なる故に物事は衝突し、壊れる 宇宙が完全に均一ならば衝突することも破壊されることもないのでしょうね。 これでイメージ的には合っていますか? >仮に言葉でさえもそうであるならば 「大きい」というのは他の物などとの対比ですですから 差異がなければ言葉はどうなるのでしょう?難しいです。 まあ、物質の差異により衝突破壊され私たちに知覚可能になるのであれば 言葉の差異により概念化というものもできるのかなと無責任に思うところです。 >概念を超えた世界と、そこには不爭の相が見られるか 概念を超えた世界には衝突破壊に似た現象は起こるのかということですか? 概念を超えた世界とは直観につながる世界しかイメージできないのですが それでよいのであれば、説明不能、つまり、知ることができないとしか答えられません。

noname#181644
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 宇宙の例えで大体イメージはOKです。 それに言葉の世界が準じた形をとっているとしたら、おっしゃるように差異のある故に概念化できるということでもあります。 概念を超えた世界として直観をあげて、知ることができないとされておりますが、説明不能、やはり難しいでしょうか。確かに概念を超えていると名打った時点で、説明不能であるかもしれません。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 「ハレ」と「ケ」の概念を英訳する

    困っています。助言いただければ幸いです。 現在、大学の課題で、英語で論文を書いているのですが、 教授(外国人)に、私が稚拙に訳したformal situation(ハレ)と informal situation(ケ)の概念が伝わらず、再提出になってしまいました。 古神道の言葉で、非日常、聖、陽を表す「ハレ」と、 それに対し日常、俗、陰を表す「ケ」の英語による説明は非常に難しく、 formal/informal, ceremony/everyday lifeなど、私の思いつく言葉では説明し切れません。 書いている内容は、演技論です。「ハレ」「ケ」という言葉は、 ある映画監督の言葉を、著書から引用した中に出てくるので、 監督の意図の正確を期すためには他の表現に言い換えることができません。 発言の趣旨は以下のような感じです。 「私が監督するジャンルの映画では、俳優は常に『ハレ』の演技をし、 観客も『ハレ』の演技を期待して映画を見る。しかし私が俳優に求めるのは『ケ』の演技。 それゆえに、観客は期待する演技が見られず、俳優を批判する。それはおかしい」 このようなニュアンスなのですが、どうにかうまく訳せないものでしょうか。。 上記の私の文章そのものが、わかりにくいものであるかもしれません。 申し訳ありませんが、神道におけるハレとケの概念に基づいた発言であるという ニュアンスを残しつつ、exaggeratedでないnaturalな演技を求める、 という翻訳にできないでしょうか。 皆さんの力を貸してください。どうかよろしくお願いします。

  • 悪という概念の役割について

    悪という概念の役割について 江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 悪という概念の役割について

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました。 そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 悪という概念の役割について、

    江原氏(スピリチュアカウンセラー)の本を読んでいたところ、守護霊の話についての部分で、 「守護霊はどんなにその人が悪党であっても見捨てずに最後までよりよい方向に導こうとする」 というような内容が書かれていました そこで、ある仮説を立てました。 天上人(霊界、あの世の人)には悪という概念がない。 考えてみると悪という概念は他者(神、他人、動物、自然、物)との関係の上でしか存在しないと考えられます。 すると、肉体を持たない天上人にとって他者は存在するにしても関係自体にたいした意味を持たないのではないでしょうか。 働く必要も、食べる必要も、眠る必要もないのですから、他者との関係を必要としないはずです。 他者との関係が極端に希薄な彼らにとっては「悪という概念」は事実上無意味に等しいのではないでしょうか。 すると、肉体を持たない天上人にとって『善』は蓮の花のごとく美しいものでしょうが、肉体を持ち他者との関係を維持せねばならない我々にとっては時に非常に危険な代物となりうるわけです。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っているのですから。 そこで、結論として、 『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 「悪」とは独善という名の『善』なわけですから。 皆さんはどう思われるでしょうか。 ちなみに、死後の世界があるとか無いとかは気にしないでください。

  • 哲学が 難しいのは何故ですか?

    通常は 易しく解き明かせないということ自体、その物事の解明はまだ「易しく解き明かす」までには順序良く整理されきってはいないという事を意味していると思います。 この通常の定義の通用しないような思索展開が、 真理とか美とか善とはとか、私たちが生きてるということの不思議さとかその因果とか、あるいは存在自体の因果の謎(?)とか、ではその中での価値とはとか、意味とはとか そういう言葉を使う私たちの言葉自体の可能性とか限界とか、 考えをどんどん深めていくにしても、なぜ哲学という思索の中では起こりえるのかが解かりません。 難しい言葉を使ったほうがより鮮明になる思索展開があったとして、その難しい言葉は、順序良く解かり易く説明できないということはありえないと思うのですが、どうなのでしょうか? もしかしたら 考えすぎて頭のこんがらがったままの人が作った難しい言葉で(概念でもいいです。概念という言葉なら中学生でも解かる概念ですからそれはこの難しい言葉の範疇ではないですからね)、 あるいはむずかしい概念で、さらに考えようとしてきたために、歴史的にだれにも分り易いところまで整理するのが大変な世界となってしまっているのが哲学という学問の世界なのでしょうか?

  • 死の概念は業を境に二分して解釈できる。

    死の概念は業を境に二分して解釈できる。 死後があり、誰もが彼岸に行き着くならば、そこでは誰もが業因がないことを悟り苦もないであろうと考えます。このように彼岸に置いて非業が判るゆえに予め安らかな死を迎えるならば、それが非業の死です。 ところが未だ現代にでも業の観念というか噂の類が、まかり通っているゆえに、(これは信仰ゆえでしょうか?)苦痛に満ちた死を想起して実際にそのように見える死を迎える人もいます。 そして冒頭に戻り死後があるならば彼岸は非業です。 非業の死に苦の響きがあるのは業があるとする者が良性の業、(功徳とも言う)を失う事を恐れる「苦」です。 現代の死の(観念でなく)イメージでは、死のイメージがそのように業の痛みに覆い隠されて判らなくなり、何が苦痛であるかについて、死ぬ事に勘違いというか濡れ衣のような間違った解釈がなされています。そして本来の死は宗教的な言葉で「往生」と表現されています。 本来の死がないがしろにされ違う解釈がなされていることになります。 そうであれば、業とは、その論は無であり虚構であると、理解しない業の信奉者が想起する苦痛に満ちた死にざまであり「死」を知らぬ妄想でありましょう。 社会を見聞した限り死を知らぬものは生をも知りません。 その姿は屍であり、死を知らぬゆえに屍のまま地獄のごとき娑婆を徘徊するのです。 まさにそうであり娑婆世界観を徘徊するものは屍をさらしその自らの姿を悲しむのみです。 そうしてお釈迦様がその悲しみを理解する慈悲を発露して救ってくださるのを待ちます。 ところがお釈迦様はすでに入滅していると伝承されています。 ますます屍のままの生きざまを体現するのが仏教の祈りでしょう。 信仰のうち訳は無いものすがりのとりすがり教団以外ではありません。 生きながらに入滅し、娑婆とおさらばする事をお勧めします。 業を「そんなもんありゃしねー」と理解できないものの死のイメージとは苦が付きまとったまま屍のごとく生きる事です。 死の概念とはそれとは別の喜び。 そして、業を信奉する者は死を知らず屍の概念をもって死を汚す。 以上に、伝統的概念をもって論説してください。 哲学的思索の助けを募集する質問です。

  • どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか

    どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか  たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。  ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~  たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。  時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。  しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。  永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。  ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。  (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。  これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?  表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。  この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか?   いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。

  • これは論理学的には正しい文章?

    論理学を修めた人に質問です。 " 白馬は馬ではない。なぜなら白馬は「白い」馬であり、「白い」とは色の概念である。「馬」とは動物の概念であり、「白い」と「馬」の2つの概念が結びついた「白馬」は「馬」ではないのだ。 つまりB ⊃ A ≠ B の原理を指している。 " これは論理学に正しく書かれている文章なのでしょうか? 現実では白馬は馬なのですが、言葉の上だけで見ればたしかに白馬は馬ではありません。 それとも、これは論理学には正しく書かれていない文章でそれゆえ間違った結論に至るのでしょうか? 論理学的に間違っているとすると、どこがどのように間違っているのでしょうか? 専門用語を使わずに説明してもらえると助かります。