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「ハレ」と「ケ」の概念を英訳する

困っています。助言いただければ幸いです。 現在、大学の課題で、英語で論文を書いているのですが、 教授(外国人)に、私が稚拙に訳したformal situation(ハレ)と informal situation(ケ)の概念が伝わらず、再提出になってしまいました。 古神道の言葉で、非日常、聖、陽を表す「ハレ」と、 それに対し日常、俗、陰を表す「ケ」の英語による説明は非常に難しく、 formal/informal, ceremony/everyday lifeなど、私の思いつく言葉では説明し切れません。 書いている内容は、演技論です。「ハレ」「ケ」という言葉は、 ある映画監督の言葉を、著書から引用した中に出てくるので、 監督の意図の正確を期すためには他の表現に言い換えることができません。 発言の趣旨は以下のような感じです。 「私が監督するジャンルの映画では、俳優は常に『ハレ』の演技をし、 観客も『ハレ』の演技を期待して映画を見る。しかし私が俳優に求めるのは『ケ』の演技。 それゆえに、観客は期待する演技が見られず、俳優を批判する。それはおかしい」 このようなニュアンスなのですが、どうにかうまく訳せないものでしょうか。。 上記の私の文章そのものが、わかりにくいものであるかもしれません。 申し訳ありませんが、神道におけるハレとケの概念に基づいた発言であるという ニュアンスを残しつつ、exaggeratedでないnaturalな演技を求める、 という翻訳にできないでしょうか。 皆さんの力を貸してください。どうかよろしくお願いします。

  • 英語
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • saru_
  • ベストアンサー率39% (38/97)
回答No.4

 ハレ・・・sacred  ケ・・・secular というのが、よく使われているようです。 ただし、単語を置き換えるだけの単純な翻訳が、この場合のベストかどうかに関しては、疑問が残ります。 別途と「ハレ」と「ケ」の概念を説明した上で、「Hare」と「Ke」を使って翻訳した方が、その監督が日本古来の考え方を使って演技を語ろうとしている点が明確になるのではないでしょうか? 最近は、東洋的な概念を表す言葉は、そのまま使ってもOKという風潮が強いので、外人さんの抵抗も違和感なく受け取れると思います。「陰」と「陽」なんかも、普通にYin and Yangで通じますしね。 以下のキーワードで、Google検索してみると、参考になる文章が見つかると思います。   "Hare" "Ke" secred Japan

mikenorth
質問者

お礼

なるほど、それが一番伝わりやすいかもしれませんね。 ありがとうございます!

その他の回答 (3)

noname#125540
noname#125540
回答No.3

No.1です。補足。 >よく、「祝祭的な」なんて日本語では言いますけれども。 でもこれも元は英語か何か外国語で、それを見聞した日本人が日本語に直して使ってるだけかもしれません。 元の英文を読んだことないのでどういう単語を普通使ってるのか知らないのですが・・・・ festivalとかfestiveなのでしょうか??? と思ったらNo.2に回答が来てましたね。なるほど~ やっぱり祭りの日です。 村で公に儀式をするような感じなんでしょうか。

参考URL:
http://eow.alc.co.jp/%E7%A5%9D%E7%A5%AD/UTF-8/?ref=sa
  • tjhiroko
  • ベストアンサー率52% (2281/4352)
回答No.2

ハレとケの概念についての英語の説明はこちらなどを参考になさってはいかがでしょう。 http://www2.kokugakuin.ac.jp/ijcc/wp/cimac/sonoda.html#para0017 3の3段落目に説明されています。

mikenorth
質問者

お礼

ありがとうございます! リンク先、参考にさせていただきます!

noname#125540
noname#125540
回答No.1

よくは分かりませんが、 formal/informalというのは違うような気がします。 「日常」と「祝祭」みたいな対比ではどうでしょうか。 よく、「祝祭的な」なんて日本語では言いますけれども。 日常と非日常でもいいのかもしれませんね。  ↓

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%A8%E3%82%B1
mikenorth
質問者

お礼

迅速な回答ありがとうございます!

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