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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:どこが誰にでも起きる感覚になるのですか?)

誰にでも起きる感覚とは?

このQ&Aのポイント
  • 頭の中で聞いたことのある音楽が再生したり、言葉が浮かんでいたのを何者かが停止するようにしてきた感覚があった。自分の頭の中で音楽が再生したり、言葉が浮かんだことを何者かが「鳴らすな」とネガティブな言葉を言い聞かせてきた感じがあった。
  • 数日間続いた症状が変化し、自分の頭の中で音楽が再生したり、言葉が浮かぶことの否定がなくなり、「鳴らすな」というネガティブな言葉を何者かが言い聞かせてくるような感覚が治まり、自由を取り戻したとも言える出来事が起きた。
  • 何者かが自分の頭の中の音楽を勝手に再生したように感じた。それは自分の意思で抵抗できなかった出来事だった。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#194156
noname#194156
回答No.4

他人にやられたというニュアンスのない表現に変換して下さいということは、「自分でしたこと」や「自分の中から沸き起こった感情」という意味になり、そこには「自分以外の誰かの感情は混じっていない」というのが私の解釈です。 私の解釈だと次のようになります。 【1】頭の中で聞いたことのある音楽が流れ、言葉が浮かんでいたのが消えていく感じがした。その時に、頭の中で音楽が流れたり、言葉が浮かんだことで「鳴らすな」と自分で禁じ念じたからだろう。「鳴らすな」イコール“自分の頭の中で音楽が流れたり、言葉が浮かぶな!”という意味だ。 【2】ここまでの出来事が数日間続いた後、変化が生じた。頭の中で音楽が鳴ったり、言葉が浮かぶことを禁止しようと思わなくなり、「鳴らすな」というネガティブな感情が静まったのだ。これは開放感に満たされた出来事だと言えよう。 【3】僕の頭の中で音楽が勝手に流れ出すイメージがあった。自分の意思で止めようにも止めることは適わなかった。 【4】僕の頭の中で音楽が勝手に流れ、自分の意思で止めることができなかったのを何とかしたかったので「(頭の中の音楽が勝手に流れるのを)止める」とポジティブな言葉を僕は自分に言い聞かせるようにした。 ――添削する人によって違う文章になるものと思いますが、それでもやはり、添削後は誰にでもある出来事に変わってしまうと思います。

noname#181272
質問者

お礼

ご回答有り難うございます! 僕の中では自分以外の何者かの意思が働いていたので、自分がしたことだとは思いません。 そのままの表現で良いと思った箇所もあれば、変えて伝えたほうが良いと思った箇所もありました。 例えば自分の中で起きたことと合致した表現にすると、 【1】頭の中で聞いたことのある音楽が流れ、言葉が浮かんでいたのが消えていく感じがした。その時に、頭の中で音楽が流れたり、言葉が浮かんだことで「鳴らすな」と何者かが禁じ念じたからだろう。「鳴らすな」イコール“自分の頭の中で音楽が流れたり、言葉が浮かぶな!”という意味だ。 【2】ここまでの出来事が数日間続いた後、変化が生じた。頭の中で音楽が鳴ったり、言葉が浮かぶことを禁止しようと思わなくなり、「鳴らすな」というネガティブな感情が静まったのだ。これは開放感に満たされた出来事だと言えよう。 【3】僕の頭の中で音楽が勝手に流れ出すイメージがあった。自分の意思で止めようにも止めることは適わなかった。 【4】僕の頭の中で音楽が勝手に流れ、自分の意思で止めることができなかったのを何とかしたかったので「(頭の中の音楽が勝手に流れるのを)止める」とポジティブな言葉を僕は何者かが言い聞かせるようにしたような感覚があった。 僕はNo.3のお礼に書いたように、自分が意図して行ったわけではない、このような状態を表す別の表現に改めたいのです。 要するに大袈裟ではない適切な表現に書き改めてもらいたいということです。 大袈裟ではない表現に改めるとどういう表現になるか、わかりますか?

その他の回答 (6)

noname#194156
noname#194156
回答No.7

No.4,6です。お礼をありがとうございました。 また、長文回答にお付き合い下さいましたことに重ねてお礼申し上げます。 >停止していた音楽が勝手に再生されたのは、自分ではない何かが都合の良いふうに(勝手に)操るために再生されたのだと感じたこともありました。 >都合の良いように(勝手に)操るイコール心身の自由が奪われたような感覚だと思うし、そう感じたのです。 po-ria1さんはこのことについて何か思うことはありますか? ご質問者にとって、頭の中で音楽が鳴っていることは不快で不利益に思えるのに、止めたくても止められず、その原因を自分ではなく“自分ではない何かの意思”に求めたのなら、『操る=心身の自由が奪われたような感覚』となるのは頷けますし、ご本人の心情としては正にそうでしょう。 仰りたいことは聞き手が誰であっても伝わると思いますし、同じ様な経験がある人が聞いた場合、決して大袈裟な表現ではないと思います。 そして、悩みが深いという印象になりますね。 実際、悩んでいるし困っていたのだから、表現として正しいと思います。 私の場合は原因を自分に求めますので、単純に「ああ、煩わしいなぁ…疲れてるのかなぁ? 早く止まってくれれば良いなぁ」だとか、「何度も聞き過ぎて記憶に焼き付いてしまっているのかなぁ? まあ、そのうち止むだろうさ」と、深く追求するのを止めます。 そのことばかりに意識を集中させると、余計に“頭の中の音楽”が消えなくなることが多かったので、気持ちを切り替える(他に意識を向けることで頭の中の音楽をスルーする)ようにしています。私の場合はそれで自然に消えるので問題なく過ごせます。 >No.5さんへのお礼内容は読みましたか? もし読んでなかったら、読んでそちらのお礼に対する返信も下さい。 質問文の訂正などを書きました。 読みましたけれど、最初のご質問文よりも更に難しく変換しづらい内容になっているなと思いました。元々のご質問文の方が短くてスッキリしている分、読み手側には理解しやすい内容になっていたと思います。 訂正後の文章には、元々の文章と同じ様な内容や言い換え文が付加されていたけれど、本質的な部分で言いたいことはあまり変わっていないという印象なので、手を加える箇所は最小限にした方が読む側には解り良いと思いました。 …と不躾で申し訳ないでのすが、以前に参加させていただいたときも感じていたのですが、回答する度に、ご質問が難しくなって行くというのは私にとってはつらいことです。 元のご質問を読んで、この内容なら回答できると判断したのに、それが複雑な内容に変わってしまうと、「う~ん…」と再回答することに躊躇してしまいます。 なおNo.4の回答で申し上げた >他人にやられたというニュアンスのない表現に変換して下さいということは、「自分でしたこと」や「自分の中から沸き起こった感情」という意味になり、そこには「自分以外の誰かの感情は混じっていない」というのが私の解釈です。 ――というスタンスは今も変わりありませんので、訂正後のご質問に対して私が再度回答を書いても、最初の回答と同じ様な内容となり、やはり、ご質問者にとって満足の行く内容にはならないと思います。 No.6でも、 >例えば私が統合失調症や、それによく似た精神状態になったことがあるのなら、ご質問者の仰る感覚が理解できるのでしょうけれど、経験がない以上は、ご希望に添った添削文が書けないのです。 ――と書いていますが、それは今も同じです。 ご質問者の表現を大袈裟だと言った方たちは、「ご質問者がイドのことも超自我のことも他人だと思える」その状況が理解できないから「大袈裟だ」と発言しているのだと思います。しかし、イドや超自我の概念について少しでも触れたことがある方や、過去に統合失調症やそれに似た症状を示す精神疾患を患った事がある方、精神医療関係者なら、ご質問者の表現を「大袈裟だ」とは言わないと思います。 どうやって理解したら良いのか見当も付かないから「大袈裟だ」と言っているのであって、それは、ご質問者の表現力とは関係ない(ご質問者の所為ではない)ことだと思います。 なお、 >自分が意図して行ったわけではない、このような状態を表す別の表現に改めたいのです。 >【1】~【4】の文章を他人にやられたというニュアンスをなくした文に手直しして下さい。 というのは、矛盾した内容です。 「自分が意図して行ったわけでもなく、他人にやられたのでもないのなら、誰がやったことになるのでしょう?」 答えは一つしかないですよね。 『意識化にいるもう一人のあなた。あなたがあなただと認めたくないあなた』ということになってしまいます。 それは結局、『イドと超自我が行ったこと』になってしまいますし、『イドと超自我はそれぞれが自分自身の一面で分身』なんです。 ですから、これが ご質問に対する直接回答になります。 【ご質問者がお書きになった“「何者か」という表現を『意識化にいる自分』と改めるよりないのではないか”というのが私が出した最終結論であり答えです。】 それでもやはり、「イドや超自我の概念」に否定的な方や理解する気がない方からすれば、『意識化にいる私』も大袈裟な表現に映ることでしょう。 人は理解できないことは「大袈裟だ」というものなんです。 けれども、「少しでも理解しようと思う方は大袈裟だとは言わないもの」です。 しかし例外として、理解したい気持ちがあるけれど相手にあまり悩まないで欲しくて、もっと気楽に構えて貰おうと敢えて「大袈裟だ」と返答する方もいますから、「大袈裟だ」と言われたことを恥ずかしく思わなくても大丈夫です。 その場合は叱っているのではなくて、「気に病まなくても大丈夫だよ」と安心させたくて言っているのです。

noname#181272
質問者

お礼

再度ご回答有り難うございます! po-ria1さんは真剣に話を聞いてくれる誠実な方だと思いました。 No.5のお礼に書いた訂正内容は難解だと感じたのですね。 この質問は、「他人にやられたというニュアンスを含まない表現に変換して下さい」というのが主旨だったので、質問は解決したと言えると思いました。 この質問に対する回答を戴けて感じたことは、僕が知らなかった、頭に入ってなかった語句を使ってpo-ria1さんがご回答なさったことです。 そのことで僕は気持ちがスッキリしました。 そうですか、質問内容がだんだん難しくなると回答することに躊躇うのですね。 今回はNo.4のご回答をベストアンサーにすることにします。

noname#194156
noname#194156
回答No.6

No.4です。お礼をありがとうございました。申し訳ないですが今回は特に長文です。 >僕はNo.3のお礼に書いたように、自分が意図して行ったわけではない、このような状態を表す別の表現に改めたいのです。 要するに大袈裟ではない適切な表現に書き改めてもらいたいということです。 大袈裟ではない表現に改めるとどういう表現になるか、わかりますか? ―― 例えば私が統合失調症や、それによく似た精神状態になったことがあるのなら、ご質問者の仰る感覚が理解できるのでしょうけれど、経験がない以上は、ご希望に添った添削文が書けないのです。 でも、「イド・自我・超自我」という表現を借りれば、ご質問者の仰ることが説明できるのではないかと思います。 でも私は、これらの概念について本式に学習したことがなく全くの素人なので、申し訳ございませんが、「イド・自我・超自我」についてご関心を持ったならば、私ではなく専門知識のある方に直接聞いていただきたいです。 ************************************************** ここからは、「イド・自我・超自我」について引用文で説明します。 ◆イド・自我・超自我について 《フロイトによる心の働きについてのもう一つの視点が構造論です。 構造論では、人間の心がイド・自我(じが)・超自我(ちょうじが)で構成されていると考えます。(イドをエス、自我をエゴ、超自我をスーパーエゴと呼ぶことがあります) イドは快楽原則(かいらくげんそく)にしたがって「あれがしたい」「これが欲しい」というように手段を選ばず欲求、感情、衝動などを満足しようとする本能的な源泉です。イドは無意識層の中心の機能であり欲求、感情、衝動などをそのまま実現しようとします。 自我は感情を現実に適応させる機能です。イドを理性的にコントロールし、現実原則(げんじつげんそく)にしたがって、イドからの本能的な欲求を現実にあった形に調整する役割をします。 超自我は「ああいうことはしてはいけない」「こうすべきだ」「こうしなければならない」というようなルール、道徳観、倫理観などを追求しようとする部分です。超自我は人間の成長過程において受けたしつけや社会との接点を通して学習されます。幼児期は親の判断基準に従っていますが、成長するにつれ「これをやってはいけない」と自分で判断できるようになり、超自我が形成されます。 ― 【寺子屋心理カウンセリングルーム/精神分析療法>構造論】 http://www15.wind.jp/~jyorenin/counseling/kouza0104.html より抜粋 ― 》 ◆超自我とは 《超自我とは、常に道徳的、意識的であろうとする部分です。 子どもは、親から叱られたり褒められたりすることで、 行動の善し悪しを学びます。 そして、小さな頃は、親の判断基準に従っていますが、 成長するにつれて「これをやると他人に迷惑がかかるからやってはいけない」 などと、自分で判断できるようになります。 この意識が超自我です。 超自我は、自我よりも強く、イドを律します。 つまり、自我は、イドと超自我の間で調整役を担っています。 車の運転で、三者の関係をたとえるとするなら、 イドは自動車、エゴはドライバー、超自我は交通法規となります。 ― 【心理学の基礎用語~精神分析の用語~/イド・自我・超自我(id,ego,superego)】http://sinrikaunsera.com/sinri36.html より抜粋 ― 》 ◇◇◇ 添削ではなくて申し訳ないですけれど、上記を踏まえた参考意見です。 フロイトの構造論を採用して考えた場合、ご質問者が仰る「何者か」とは「超自我」に当たると思います。この直ぐ上のリンクにある解説では“超自我は(車の運転で例えるなら)交通法規となります”とありましたが、超自我とは「警察官や厳しい父親」のような感覚であり、「自制心」のことを指すのだと思います。 そして、自我とはイド(本能・欲求・衝動)と超自我(自制心)の間に存在する感情で、自我のことを普段、私達は「自分自身のように感じている」ということだと思います。 「自我を中心にイドと超自我は常に綱引きをしている」。そういう例えを読んだことがあります。 ならば、その綱引きによろめき倒れることなく、自我を中心に据えてしっかりと立っていられるときの私達は、自分の中に存在するイドにも超自我にも違和感を持たずに、どれも自分の感情なんだと受け止められるので、「私の中に侵略者は存在しない。私の心は私のもの」という思考を取るんだと思います。 つまり、「超自我」は誰の心の中にも存在するけれど、この超自我によって「自我」を激しく責め立てるほどに強く攻撃されたという経験や感覚を特に持たない人は、超自我のことも自分の感情だとすんなり受け止めることができるので、自分とは別の人格のようには感じないということです。 しかし、この超自我が自我を弱らせてしまうほど激しく攻撃してくることがあり、 「こんなに自分を苦しめる感情が自分のものとは とても思えない。 一々、お説教を長々と聞かせて“ああしろ!こうしろ!”と、いつまでも自分の中に居座って、迷惑だ! 出て行ってくれ!」 というのが、ご質問者にとっての「超自我=何者か」なのだろうと思いました。 そして、「ご質問者の頭の中の音楽を勝手に再生する者(何者か)」とは、「イド(衝動)」で説明できるのではと思いました。 自分で望んでいたとは思えない身勝手で衝動的な行動を「イド」が仕向けてくるように感じるので、ご質問者は「イドを別人格のように感じている」んだと思いました。 ◇◇◇ ここからは、「イド・自我・超自我」で【1】~【4】を説明してみます。 【1】超自我によってご質問者が律せられている状態。(超自我から禁止令が降りた状態) 【2】例えて言うならドライバー(自我)が自動車(イド)を快適に乗りこなしている状態で、警察官の取り締まり(超自我)のない状態。 超自我からの禁止令がなかったので、ご質問者のイド(欲求)が満たされ、また超自我とイドが喧嘩し合うこともなかったので、ご質問者の自我がバランス良く両者の間で立っていた状態。(自我が超自我から攻撃を受けてはおらず、イドと自我の目的が一致した快適な状態) 【3】イド(衝動)が暴走した状態。イドがあまりにも激しく暴走したので、自我が超自我の力を借りてイドの暴走を阻止しようと試みたが、失敗に終わった。 【4】イド(衝動)が暴走して頭の中の音楽が鳴り止まない状態は、自我の力ではどうしようもなく、自我よりも強くイドを律する力を持つ超自我が緊急発動して、事態を解決させた。「(何者かによって頭の中の音楽が勝手に再生されたのを)止める」とポジティブな言葉をご質問者に言い聞かせたのは超自我ということ。 超自我と自我(ご質問者)の目的が一致したので、超自我はご質問者を苦しめることなく、ご質問者を救った。 * 普段、私達はイドのことも超自我のことも名を知らずとも、自分の感情と受け入れて違和感なく暮らしています。 またイメージの力を借りれば、イドや超自我の概念を説明されれば何となく理解できます。 しかし、心が弱ったときには、何者か(イド・超自我)に心が侵略されているように感じるかも知れないですね。 私は、イドのことも超自我のことも自分だと思えるので、No.4のような添削文になりましたが、ご質問者はイドのことも超自我のことも他人だと思えるので、ご質問文やお礼にあるような文章になってしまうんだと思います。 ご質問者が、イドのことも超自我のことも自分だと思えるなら、きっと、こういうご質問は考えなかったことでしょう。 イドと超自我の綱引きで自我が脅かされていると感じたとき、人はカウンセリングを受けたり、専門医を訪ねるんだと思いました。

noname#181272
質問者

お礼

詳しいご回答を有り難うございます! イド・自我・超自我についてを解説下さり、参考になりました。 どうもありがとうございます。 僕も調べてみましたが、po-ria1さんのご回答と同じようなことがwikipedia及びコトバンクなどのサイトに書かれていました。 僕がインターネットで「頭の中の音楽を勝手に再生した」でyahoo検索したところ、“一時停止した音楽が勝手に再生し始める”という記事が出てきました。 まさに僕の頭の中で起きたような出来事と言えると思いました。 質問文の【3】に関しては、頭の中で止まっていた音楽が、喫茶店での利用者さんの行動を見ていた時などに勝手に再生されたということです。 こういうのも何者かによる再生と同じようなことだと感じたのです。 こういうことがあったことも医者に伝えようと思いました。 停止していた音楽が勝手に再生されたのは、自分ではない何かが都合の良いふうに(勝手に)操るために再生されたのだと感じたこともありました。 僕は桑田佳祐の曲や森高千里の曲などが喫茶店での利用者さんの行動を見ていたときに再生されたのです。 頭の中で桑田佳祐の曲が停止していたのが喫茶店での利用者さんの行動を見た瞬間、「♪情けない男でごめんよ 愚にもつかない俺だけど・・・」と再生されたのです。 都合の良いように(勝手に)操るイコール心身の自由が奪われたような感覚だと思うし、そう感じたのです。 po-ria1さんはこのことについて何か思うことはありますか? もし差し支えなければ、詳しく教えて下さると幸いです。 No.5さんへのお礼内容は読みましたか? もし読んでなかったら、読んでそちらのお礼に対する返信も下さい。 質問文の訂正などを書きました。 No.4のお礼内容も訂正があります。 >自分の中で起きたことと合致した表現にすると、 【1】頭の中で聞いたことのある音楽が流れ、言葉が浮かんでいたのが消えていく感じがした。 ―――というのは頭の中で音楽が流れ、言葉が浮かんでいたのが突然停止した。それは何者かによる仕業だと感じたと訂正します。 No.5のお礼にも、 >>【1】頭の中で聞いたことのある音楽が再生したり、言葉が浮かんでいたのを何者かが停止するようにしてきた感覚があった。 ―――は、何者かが止めてきたような感覚があったと訂正します。 ―――――と書きましたが、この箇所も訂正です。 『頭の中で音楽が再生したり、言葉が浮かんでいたのが突然停止した。それは何者かによる仕業だと感じた。』と訂正します。 >その時に、頭の中で音楽が流れたり、言葉が浮かんだことで「鳴らすな」と何者かが禁じ念じたからだろう。 ―――の箇所も『頭の中で音楽が流れたり、言葉が浮かんだことを「鳴らすな」と何者かが僕に禁じ念じた』と訂正します。 >【2】ここまでの出来事が数日間続いた後、変化が生じた。頭の中で音楽が鳴ったり、言葉が浮かぶことを禁止しようと思わなくなり、「鳴らすな」というネガティブな感情が静まったのだ。これは開放感に満たされた出来事だと言えよう。 ―――という部分は自由を取り戻したプラス開放感に満たされた出来事と言えると思いました。 >【4】僕の頭の中で音楽が勝手に流れ、自分の意思で止めることができなかったのを何とかしたかったので「(頭の中の音楽が勝手に流れるのを)止める」とポジティブな言葉を僕は何者かが言い聞かせるようにしたような感覚があった。 ――――の箇所も訂正です。 ‘自分の意思で止めることができなかったのを何とかしたかったので’は『自分の意思で止めることを何者かによって禁じられていた感じを何とかするために・・・』と訂正です。 また「(頭の中の音楽が勝手に流れるのを)止める」というのはポジティブな言葉ではありません。 こういう言葉を他者が言い聞かせたと感じたことで心身の自由を取り戻した感じがしたし、開放感に満たされたということなのです。 お手数ですが、もう1度ご回答を下さると幸いです。

  • birth11
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回答No.5

[1]こういうことが起こる、感じられる、というのは精神的なものだと思います。言葉の言い換えよりも、こういうことが自分を直接苦しめるものであるのなら、そういう音楽がなくなるようにすることがオススメです。できれば薬での治療ではない方がいいと思います。音楽を聞いて苦しみを感じないのであれば、そのままでも何ら生活に支障がないのであれば、受け流すといいと思います。 [2]自分の生活にししょうがないことだと思うので、そのままを受け入れればいいと思います。この段階で、薬治療がなされているのであれば、薬による効果となるのですが、どうでしょう。 [3]その音楽が、自分が不快に思うものであれば、別の好きな歌を歌ったりすればいいものだと思います。自分が別に不快でなければ、そのまま受け流したりすればいいと思います。 [4]幻聴は誰にでもあるものだと思います。ただそれを健常者は自分なりの解釈で、なんでもないことだと言い聞かせることで、受け取るわけです。 [1]~[4]を通してすべて精神病に直結する捉え方なので、自分自身がそう捉えることに重圧感があるのなら、徳を積むことをオススメします。幻聴と契約を交わすわけです。自分がこういういいことをやったのだから、幻聴さんも、あまり出てきてくれるな、っとか。

noname#181272
質問者

お礼

再度ご回答有り難うございます! どうも質問文もここまでの回答内容も自分の中で起きた出来事とは合致しない内容に思いました。 質問文の >>【1】頭の中で聞いたことのある音楽が再生したり、言葉が浮かんでいたのを何者かが停止するようにしてきた感覚があった。 ―――は、何者かが止めてきたような感覚があったと訂正します。 >「鳴らすな」イコール“自分の頭の中で音楽が再生したり、言葉が浮かぶな!”という意味だと思う。 ―――という部分も、「鳴らすな」イコール“自分の頭の中で音楽が再生したり、言葉が次々と浮かぶな!および頭に浮かぶ音楽や言葉に合わせて自分が音楽や言葉を発するな!”というふうに訂正します。 >>【2】ここまでの出来事が数日間起きた後、今度は【1】の症状が変化した。 ―――というのは【1】の症状が別の症状に変わったということです。 >>自分の頭の中で音楽が再生したり、言葉が浮かぶことの否定がなくなり、「鳴らすな」というネガティブな言葉を何者かが言い聞かせてくるような感覚が治まり、自由を取り戻したとも言える出来事が起きた。 ―――という箇所の文末ですけど、自由を取り戻したとも言えるし、No.4さんが仰るように開放感に満たされた出来事だと言えると思います。 >>【3】何者かが僕の頭の中の音楽を勝手に再生したように僕は感じた。それは自分の意思で抵抗できないと感じた出来事だった。 ―――の箇所は、何者かが僕の頭の中の音楽を勝手に再生したように僕は感じた。それは自分の意思で止めようにも止めることは適わなかった出来事を伴う出来事でもあったと言うことが僕の中で起きた出来事だと言えると分かりました。 >>【4】何者かが僕の頭の中の音楽を勝手に再生したように僕は感じ、それを自分の意思で止めることができなかったのが切っ掛けで「(何者かによって頭の中の音楽が勝手に再生されたのを)止める」とポジティブな言葉を何者かが僕に言い聞かせたように感じた。 ―――の箇所も訂正です。 自分の意思で止めることができなかったのが切っ掛けではなく、自分の意思で止めることが否定されていたのが切っ掛けと訂正します。 ここまで質問文などの訂正です。 *** [1]に関して‘そういう音楽がなくなるようにする’ことはできません。僕は誰でも音楽が勝手に頭の中で流れるということは正しいと思うし、過去に聞いた音楽がそのまま頭で再生されることは不思議ではないというのは間違ってないと思うのです。 なのでそういう音楽がなくなるようにすることはできません。 どの音楽や言葉が浮かんでも止められるような感覚があったのです。 質問内容とは脱線しますが、耳鳴りと幻聴が大きな音で聞こえることに対しても、何者かが「鳴らすな」と言い聞かせてきたように感じたこともあったと思うのです。 [2]僕は統合失調症と高機能自閉症を診断されており、担当医師からピーゼットシー、ロナセンを処方されて毎日飲んでいます。 けれどなかなか効果が出ず、以前聞いた情報ですが、薬は年単位で効果が出るとのことです。 [4]の幻聴が誰にでもあるというのは、一般的に音声として聞こえる幻聴なのか、「止める」という言葉を何者かが自分に言い聞かせてきた感覚のどれなのかがわかりませんでした。

  • birth11
  • ベストアンサー率37% (82/221)
回答No.3

[1]頭の中で聞いたことのある音楽が流れてきた。でも、自分自身で止めようとしないでも、音楽は消えて行った。遠くの人が言っている声らしきものが、聞こえてきたが、誰がそれを言ったかを確認する気持ちにならなかったので、そのまま聞き流した。 [2]ここまでの出来事が数日間起きた後、頭に音楽が流れるようなことが治まった。 [3]外で誰かが音楽を流している。自分以外の他人が流しているので自分の意思では聞こえないようにすることはできないと感じた。 [4]外で誰かが音楽を流している。しかし、それに対応しなかった。すると、「止める」という言葉が聞こえたような気がした。

noname#181272
質問者

お礼

ご回答有り難うございます! 頭の中で流れて言った音楽が消えていったという解釈は正しいですが、自分以外の何者かの意思で無理矢理止められたと感じました。 やらされた者が誰なのかはわかっていたと思います。 僕は“自分の意思で行った事ではなく、不随意で(意に反して)この状態に陥ってしまったと感じているため、受け身的な表現にしたことが多々ありました。しかしこの受け身的な表現だと文章的にどうにも落ち着かないのです。 自分では感覚にあった言い替えが難しく、自分が意図して行ったわけではない、このような状態を表す別の表現に改めたいのです。”ということが言いたかったのです。 要するに大袈裟でない適切な表現が知りたいということです。

noname#181272
質問者

補足

補足です。 birth11さんの[2]の書き換え表現‘頭に音楽が流れることが治まった’のではなく、何者かによって音楽が勝手に消えていく感覚が治まったのです。

回答No.2

人間には誰にでも湧き上る感情や、考えがあります。その感情や考えが『何処から押し寄せているのか?』の解釈の仕方は人それぞれですが、貴方が抱いている疑問と重なります。 お腹が空いてきた時、『誰かがお腹が空いた事を知らせて呉れた』と感じるのか、『自分でお腹が空いた事を自覚した』と感じるのかの違いです。自分のお腹が空いた事は『誰も知らせて呉れはしません』 自分が気が付いた事は『自分自身からの情報です。』 その情報を自分の解釈で、自分が勝手に作り変えているだけです。

noname#181272
質問者

お礼

ご回答有り難うございます! 文末の‘自分の解釈で、自分が勝手に作り変えているだけ’という部分についてが良くわからないです。 『誰かがお腹が空いた事を知らせて呉れた』と感じることも本当は自分が勝手に作り変えているという解釈が正しいかどうか知りたくなりました。

  • system110
  • ベストアンサー率14% (26/183)
回答No.1

夢の中の出来事とか・・・

noname#181272
質問者

お礼

ご回答有り難うございます! 具体的にどこが夢の中の出来事なのかを教えて下さると幸いだなぁ・・・と思いました。 僕は書き換え文をsystem110さんが書いて下さると助かるのです。

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