• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?)

フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?

noname#178638の回答

noname#178638
noname#178638
回答No.18

想定にそって質問文をよみ穴を見つけ指摘する主旨ですか いくつか疑問を書きます。想定…想い定めへのケチもつけます、信教の自由があるので信仰否定は違反でフルボッコ(お酒の名前ですか)とはいえコミュニケーションコンプレクスの要因や秘かな血脈の因縁など主旨から外れるので書きません、知りませんし (nonY-Zn)=(X-Zi)=(nonX-Zi)とか(X-Zn)とか なるべく考えない方が神Xが訪問しやすいということですか 汎神論は理性YをもXの一部とするようですがそういうの想定から除外ですか 神Xを謎として想定・定義するとして、なぜそれを信仰するのです。人知をこえているものがなぜ=素晴らしい信仰対象になるのです。謎ならそれが絶対や永遠や無限という属性を帯びているであろうと見なすのは何故です。ロマンですか。ロマンや情熱をどこから湧きますか。哀しみですか。信仰の動機が気になりますやはり哀しみですか。使途不明の欲の煩悩化回避ですか 想定Xは誰による想定ですか、質問者Ziさんによる想定ですか、「Ziたる人々それぞれ」というのは他の人たちと想定を共有したいわけですか 神Xの定義が謎というのはなぜですか。各宗教の信仰対象が持つ神らしさの共通点が主観的に謎性を帯びているということからですか。虚仮威しの抽出ですか スピノザから治安とると荘子やテロリストになり、あるのもないのも全てXとみなしZやYを夢とみると超汎神論になります なんのために神を定義したり想定したりするのですか。社会の調和や愛のためですか。人為軽視ですか。 コミュニケーション狭窄ありますか。コミュニ以外を目的にした信仰や信仰を重んじないコミュは無効ですか 超汎神論として神の定義を「全てのあるもの及び全てのないもの」とすると「なぞ」であることは属性以下になり、ある・あるいはないだけで信仰され、たんなるりんごも神になり、りんごがないことも神になり、りんごの謎っぽさや明らかさや無さも神りんごの属性になり、神りんごも食べられます、そういうのどうですか、とりとめもありませんか なぞ信仰は経験YをなぞXより軽視し、Zを冷ややかにもドングリとみなしますか、超汎神論では分かるものも重視します なぞ信仰はなぞ偏重、経験や人や人為への軽視、コミュニケーション軽視に通じていませんか なぞ信仰や超汎神論や汎神論は神を重視しすぎて関心や話題が狭く人間関係貧しいですか、二分思考(部分対象関係?妄想-分裂ポジション)は一方を重視しもう一方を否みがちになります 二分せずX=Y=Zというか範囲Z(人的未知・既知)を範囲Y(世界的未知・既知)が囲むまわりをさらにX(神)が囲むとみると、人Zは思考Yからでなく全体Xから取り出され、すると神Xの定義は、分かっているまたは分かっていないあるいは今後もわからないもしくは今後わかるかそれすら不明なものとなり、かくして超汎神論における超汎神Xはナゾ信仰のなぞXよりもテキスト上・図式上より広い範囲を獲得しより多くのコミュニケーション対象(折伏営業対象)を得られますか Xの属性として不可変性とありますが可変性の方が神っぽい空っぽいと思いませんか、世界や物も空で常に変わります 信仰の基本形態の成立→人生 という順序なのは何故ですか Xを謎と想定するとして、謎Xからの介入や介在の形態を人が自ら判断できるのですか。精霊や妖精が脳や丹田を訪れこう囁いたとむりやり解釈するのですか ・信仰形態が合致(なぞ信仰・無神論)→コミュニケーション成立 ・信仰形態合致せず(一方が何かを信仰または双方が別々の信仰)→コミュ不成立→人間性低下・対立 といいますが差異をコミュニケーションのだしにするなら信仰形態が合致しない方がコミュ成立かつ持続し、合致し差異がなくなるとコミュ不成立というか途切れますか ・「なぞの神Xを信じてる」→あっそおんなじだ、じゃあね ・「神とか信じてない」→呵々それ無神論という信仰形態だよ ・「特別な何かを神として崇拝してます」→オッケーおばかさん、ちょっと話し合おう ・「ぼく神とか自分で信じてるかどうかよくわからない」→NGだよ とのことですが謎に対し誠実なのはむしろ最後の信じきれず不信も抱ききれないとらえ方ではないですか 超汎神論者は何かにつけ向き合うので大変です いろいろ質問してすみません 暇なときにでも

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ 二分思考(部分対象関係?妄想-分裂ポジション)は一方を重視しもう一方を否みがちになります  ☆ つまり  X と Y とは次元を異にする。こういう定義で事足りると思います。  ★ 二分せず X=Y=Z というか範囲 Z (人的未知・既知)を範囲 Y (世界的未知・既知)が囲むまわりをさらに X (神)が囲むとみると、人 Z は思考 Y からでなく全体 X から取り出され、すると神 X の定義は、分かっているまたは分かっていないあるいは今後もわからないもしくは今後わかるかそれすら不明なものとなり、かくして超汎神論における超汎神 X はナゾ信仰のなぞ X よりもテキスト上・図式上より広い範囲を獲得しより多くのコミュニケーション対象(折伏営業対象)を得られますか  ☆ やはり X ≠ Y そしてまた必然的に X ≠ Z という取り決めは 動かせません。  (これとても こういう数式は ほんとうはマチガイですが。つまり 次元を異にするものを等しい・等しくないとは判断できません)。  ★ Xの属性として不可変性とありますが可変性の方が神っぽい空っぽいと思いませんか、世界や物も空で常に変わります  ☆ たしかに ですから 《不可変性》は 経験事象としての可変性とならべてただそれを否定しているのではないわけです。たしかに おっしゃることは考えられるのであって 神の不可変性は 経験世界における可変性をも みづからの内に持っているとさえ推理されます。  ★ ~~~~  信仰の基本形態の成立→人生  という順序なのは何故ですか  ~~~~~~  ☆ ええ これも 信仰の成立の以前にも《人生》は始まっていますし そのいまおこなわれています。  言ってみれば 《普遍性において 神 X を心にいだいたその時点》つまり 非思考の庭がわが心になったという時点つまり 信仰の基本形態の成立の時点を この理論においては 重視します。   神に対する排他性から自由になった(つまり それ以前にもそうだったと言える場合があるのですが それが自覚された)ことを 重視しています。    《心の明け》というのは そういう意味があります。どの神に対しても・したがってどの人に対しても 心が閉じられていない。という《非思考の庭》の効用のことです。  ★ X を謎と想定するとして、謎 X からの介入や介在の形態を人が自ら判断できるのですか。精霊や妖精が脳や丹田を訪れこう囁いたとむりやり解釈するのですか  ☆ これは 実際問題としては 人それぞれにまかせられています。  いくら突飛な内容でも それを自己表現することまでは 自由だと見なされると思います。  重要な内容を持つと人びとが考えたなら その主観真実を 共同化するものと思います。(それとても マチガイでありえますが)。  ★ ~~~~~  ・信仰形態が合致(なぞ信仰・無神論)→コミュニケーション成立  ・信仰形態合致せず(一方が何かを信仰または双方が別々の信仰)→コミュ不成立→人間性低下・対立  といいますが差異をコミュニケーションのだしにするなら信仰形態が合致しない方がコミュ成立かつ持続し、合致し差異がなくなるとコミュ不成立というか途切れますか  ~~~~~~~~~  ☆ 《信仰形態が合致(なぞ信仰・無神論)》というのは カッコ書きから推察できるように 信仰の形態は――神の名が異なるかたちで――異なるのだけれど 《 X-Y-Zi 》なる類型としては互いに同じであり対等であることを意味します。よって そのような対話の基礎固めにもとづき 《コミュニケーション成立》となると見ます。  ★ 信仰形態が合致しない方がコミュ成立かつ持続し  ☆ これは 棚上げ路線ですよね。  ですから 《差異》をどこまでも気にする場合には 類型において同じ土俵(リング)に上がっていると互いに理解し合うことになるのだと思います。(なんなら その差異を人よりも相手よりも大きく広く深い境地において包み込んでいますよと誇ることが出来る場合は 相手を――その了解をとって――折伏してもいいわけです)。  ★ ~~~~~~~~  ・「なぞの神 X を信じてる」→あっそおんなじだ、じゃあね  ・「神とか信じてない」→呵々それ無神論という信仰形態だよ  ・「特別な何かを神として崇拝してます」→オッケーおばかさん、ちょっと話し合おう  ・「ぼく神とか自分で信じてるかどうかよくわからない」→NG だよ  とのことですが謎に対し誠実なのはむしろ最後の信じきれず不信も抱ききれないとらえ方ではないですか  ~~~~~~~~~~  ☆ 基本的に言って 神や信仰の談義をするのは むしろ例外的な事態であって コミュニケーションはあくまで 生活上の交通なり経済活動としてのそれなりの問題だと考えています。  そしてむろん 神の談義になってもいいわけです。  ★ ・「ぼく神とか自分で信じてるかどうかよくわからない」→NG だよ  ☆ これは 《 NG だよ》と実際に言うかも分かりませんが 基本的には 《おのれの信仰形態の成立以前の状態にある》と捉えるわけですから 《以後の状態》にある人は 一般に寛容であると思われます。  ★ 超汎神論者は何かにつけ向き合うので大変です  ☆ なるほど。おもしろいですね。たぶんわたしは 初めてだと思います。こういう切り口からの問い求めとその対話は。 (部分的に ほかの思想の人の場合でもむろん重なるところがあるでしょうが)。  だいたいお応えできたかと思います。・・・

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  盛りだくさんです。  ★ 汎神論は理性 Y をも X の一部とするようですがそういうの想定から除外ですか  ☆ これは 前回のご回答へのお応えを書いたあと気づきました。  スピノザはもっと徹底した《神即自然》だったんだっけ と。  ただし この問題ですけれど そのスピノザの説はひとつの見解になるかも分かりませんが そこまでの規定の仕方になると――つまり 非経験の場( X )と経験世界( Y )とが一部としてにしろ重なるところを持つとなると―― これは 《ゆゆしき》問題です。わたしとしては みとめられません。  ですから 《神即自然》は 論理的なふつうの定義としては 前回でのわたしの理解のごとくなるかと思います。つまり 神 X が 経験世界 Y にみづからを写像するといったふうに です。そうなるとその意味としては スピノザ自身の見解は いわば文学的な言葉のあやを用いた定義だと言わざるを得ない。こう考えましたが どうでしょう?  ★ 神Xを謎として想定・定義するとして、なぜそれを信仰するのです。  ☆ じんるいのどの言語でも 《かみ および しんじる》という言葉をもって実際に使っているからです。  この言語習慣が意味のないものであり 神なる言葉も死語だということであれば 話は違ってくると思います。    それとも 別の定義を持ち出して来るか だと思います。  ★ 人知をこえているものがなぜ=素晴らしい信仰対象になるのです。  ☆ 《素晴らしい》かどうかは ひとそれぞれだと思います。そして信教の自由に属すと見られます。  ★ 謎ならそれが絶対や永遠や無限という属性を帯びているであろうと見なすのは何故です。  ☆ 《非経験の場》という想定からです。経験世界とは次元を異にすると定義したことになり だったらその X は Y を覆い包むであろうと――つまりこれは 人間がそういう概念を想像じょう派生させようとして推理したものだと思うのですが――いちおう帰結されると思われます。  ★ ロマンですか。ロマンや情熱をどこから湧きますか。哀しみですか。信仰の動機が気になりますやはり哀しみですか。使途不明の欲の煩悩化回避ですか  ☆ これは いろいろでしょうね。つまり 上で言った言語習慣のもんだいです。けれどもそれも 表現の自由(ないし意志自由)として ゆるされていましょう。  ★ 想定 X は誰による想定ですか、質問者 Zi さんによる想定ですか、「Zi たる人々それぞれ」というのは他の人たちと想定を共有したいわけですか  ☆ 哲学は 概念によってものごとを抽象し 一般性のある視点や内容の分析を提供するものと思います。むろんこの仮説は 質問者のものです。  ★ 神 X の定義が謎というのはなぜですか。各宗教の信仰対象が持つ神らしさの共通点が主観的に謎性を帯びているということからですか。虚仮威しの抽出ですか  ☆ いえ。《非経験の場》が ワケの分からないナゾだという意味です。《霊》とも言いかえるのは そういう意味においてです。幽霊といった意味のことです。  きわめて中立の抽象概念またその説明として 《雲をつかむようなもの》ゆえ ナゾです。  つまりこのナゾを 人びとは《かみ》と言っているというかたちにおいて 言語習慣から導き出したという意味です。  ★ ~~~~  スピノザから治安とると荘子やテロリストになり、あるのもないのも全てXとみなしZやYを夢とみると超汎神論になります  なんのために神を定義したり想定したりするのですか。社会の調和や愛のためですか。人為軽視ですか。  ~~~~~~  ☆ ひとつに ですから《非経験の場 X 》と《経験事実の世界 Y 》とは峻別しなければならないと考えます。  ひとつに 定義そのものは 純然たる哲学としてのいとなみ――交通整理のごときつとめ――だと見ます。そして この神論の結果としては 自分で言うのですが普遍的な内容をもった定義にもとづき 人びとは 宗教や宗派の別なく 《神》のことでムヤミにあらそうことからは自由になる。と考えても のぞんでも います。  ★ コミュニケーション狭窄ありますか。コミュニ以外を目的にした信仰や信仰を重んじないコミュは無効ですか  ☆ 《神》にかんして排他的になる信仰は 無効でしょうね。  話し合い一般において 信仰や神のことは――互いの認容(同意)をもとにして おこなってもよいわけですが―― 話題に出さないと思います。  ★ 超汎神論として神の定義を「全てのあるもの及び全てのないもの」とすると「なぞ」であることは属性以下になり、ある・あるいはないだけで信仰され、たんなるりんごも神になり、りんごがないことも神になり、りんごの謎っぽさや明らかさや無さも神りんごの属性になり、神りんごも食べられます、そういうのどうですか、とりとめもありませんか  ☆ この仮説にかんする限りで 《非経験の場 X 》と《経験事実の世界 Y 》との峻別は 必要だと考えます。    ★ ~~~~  なぞ信仰は経験 Y をなぞ X より軽視し、Z を冷ややかにもドングリとみなしますか、超汎神論では分かるものも重視します  なぞ信仰はなぞ偏重、経験や人や人為への軽視、コミュニケーション軽視に通じていませんか  ~~~~~~  ☆ 《非経験の場 X 》と《経験事実の世界 Y 》との峻別は 両者を同じひとつの次元において捉えることはないという意味になります。比較して一方を重視するとか軽視するとかの結果が現われるという問題ではないとなります。  ナゾ信仰ゆえに この世の実際の生活日常がおもんじられるという結果になるとも考えられます。意味が―― X つまりナゾないし〔ほんとうの意味での〕無意味もしくは無根拠によって――付与されるという感覚をおぼえるでしょうね 人間は。  ★ なぞ信仰や超汎神論や汎神論は神を重視しすぎて関心や話題が狭く人間関係貧しいですか  ☆ 仮りに《神を重視しすぎる》としますと そのことはそのこと自体によって 経験世界のものごとを大事にするようになるでしょう。すでに触れたように 朽ちゆく存在の移ろい行くものごとを扱っていても その一つひとつのものごとが意味づけられたような感覚をおぼえるようになると思われるからです。  次のような現実が現われると思われます。  ▼ (マタイによる福音書 / 25:31-46 ) ~~~~~  ・・・  37: すると、正しい人たちが王に答える。   『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、   のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。  38: いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、   裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。  39: いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、   お訪ねしたでしょうか。』  40: そこで、王は答える。   『はっきり言っておく。   わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、   わたしにしてくれたことなのである。』  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (つづく)

関連するQ&A

  • 何故なお神を勘違いしたままでいるのか?

     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神とは何か?

    神とは何か?  決定保存版にしたいと思いますので 添削あるいは根本的な批判をよろしく願います。  ○ 信仰類型論において 神とは何かを問い求める  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y =考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X =考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない。 X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。(つづく)  ☆ つづきがあります。お手数ですが ニ千字制限により  【Q:不可知とは どういうことですか?】 回答No.36のお礼欄へとつづきます。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html  ☆ あるいは余裕のある方は 次の質疑応答も参考にしていただけるはずです。  【Q:信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6010202.html  ☆ それではよろしくどうぞ。

  • ブッダは 神ですか

     絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。  きわめて単純に また 類型的に言って   人間  = 絶対(絶対者=神)         ↓      ゴータマ=ブッダ   イエス =キリスト という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。  もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。    このような考えに対して添削をおこなってください。

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 《非在》なる神をどうして理解できないか

     § 1 不在と非在  たとえば ○○さんご在宅でしょうか? と尋ねて いえ あいにく○○は不在です。といった会話があります。  けれどもこのとき《不在》だと言っても ○○さんは どこか他のところにいるはずです。  すなわち 《存在(在宅)と不在(留守)》とは互いにこの同じ時空間――《宇宙》としましょうか――にある或る人の存在についてふたつのあり方を表わしています。また それだけのことです。  ところが もし《非在》と言ったらそれは何を表わすか? 《存在に非ず》とは どういうことか?  § 2 不在でありうる存在は 《感じる・考える》の対象となる  在宅と留守とのあり方を交互に変える○○さんなる存在については 見ることも触れることも声を聞くことも出来ます。つまり 《感じる》ことが出来て さらにその知覚を 概念で認識して《デカイ》とか《だが声は小さい》とか言葉で表現し得ます。  さらにあるいは その小さな声で言ったことが妙に気に成ってその内容について《考える》ことをもおこなう。  では 《非在》とは 何のことか?  感じることが出来るのか? 考えることができるものなのか?    § 3 《非在》とは 想定である  《非在》とは 存在・不在なるこの世界(宇宙)をこえたところに想定したものです。  世界の合理的な理解としての経験法則――たとえば これがあればあれが生じるといった因果関係――から自由な場(ないしチカラ)を想定して名づけたものです。  この経験法則としては ○○さんは 在宅であれば会社には不在であるということを示します。家と会社とに同時に存在することは出来ない。という世界です。  あるいは ○○さんであって 同時に別の人たる△△さんであることは出来ない。あり得ない。という世界です。  《非在》という想定は このような居たり居なかったりする経験存在を超えた場としてなのである。  § 4 《非在》という想定が 神のことである  《存在が有るでもなく無いでもない》。《この原因でその結果が生まれるといった因果律に支配されない》とは どういうことか?  ということは 《どこにも有るのではなく どこにも無いのでもない》とすれば 当然のごとく――このささやかな人間の知性で考えるに―― 《因果律に支配されない出来事が起きる》ことを 想定として表わそうとしている。  ここにもあれば 同時にあそこにもある。  という存在(つまり非存在という別個の場 つまりお化け)のことを 人間は想定することができる。想定して来た。《神》として。  § 5 神は 人間やモノについて言う《存在》とは 別個の場として想定されている。すなわち 《考えるや感じる》の対象ではない。  非在なる神は したがって あまねくそのチカラがはたらくという意味で《遍在》だと 人間の理性では推し測られた。あるいはしまいには 全知全能なる存在ではないかと。  この神は すでに存在の有るか無いかで推し測る宇宙の次元を超えているからには 《感じる》ことも《考える》ことも出来ません。  出来たと思っても それが合っているのかどうかが 人間には分からない。考えて分かったというのは この経験世界における思考や想像によって得た補助線――神を理解するための補助線のこと――を言っている。神本体ではあり得ない。  それゆえに・あるいはそれでも 分かったと宣言する人が出て来ても ほかの人においても納得することが出来るかどうかは分からない。(だから分からないながら ある程度の人数の《賛同者やさらには崇拝者》が出る余地はある)。  § 6 神を受け容れるかどうか。受け容れるというのは 《考える》でもなく《感じる》でもなく 《信じる》と言う。  この神は その想定として受け容れるかどうかは ひとの自由である。ひとの選択にまかせられている。  ただし《受け容れない》と選択した場合も 神という想定じたいは 消えることはない。《感じる・考える》を超えている非在を どうして人間が消すことができよう。  だから 神とわれとの関係は 受け容れたと受け容れないとに分かれるとき それらは《有神論と無神論》とに分かれたことを意味する。  一般に有神論は 神を信じると言い 無神論は 神を信じないと言う。  すなわち後者は 《無い神を信じる》と言うのにひとしい。  《信じる》というのは 《感じる・考える》を超えた《非在》とわれとの関係をあらわす言葉である。  § 7  信仰とシュウキョウ  《信じる――または わが心なる非思考の庭としての動態――》は 信仰としてありうるが この神をオシエとして《考えるや感じる》の対象にすることは――それが シュウキョウである―― いただけない。シュウキョウはその起こりからして 思考に非ざるものを思考したオシエを 信じるという自己矛盾である。  § 8 この神をどうして理解できないのか?

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • キリスト教 人格的な神

    信仰者にとって、何故人格的な神こそが人間の自由なる人格を支える唯一のものであったのでしょう? 宜しくお願いいたします。

  • 普遍神は 無根拠が根拠である

     1. 人間が 理念としたり理論としたりあるいは義や愛と言ったりするそのような――経験合理性にもとづく――根拠から神は いっさい自由である。  2. その普遍神への信仰は 義無きを以って義とする。義をともなえば 人間のただのハカラヒによって神を信じるに過ぎなくなる。  3. この《神と信仰についての理論》にそぐわない神論や宗教のオシへは インチキである。  4. 言わんや 神は人間がつくったなどという浅い考えは もってのほかである。  5. 人間がつくったり規定したりしてできる神なら その人間のあたまのチカラを出ない。だから おふざけにしかならない。アイドル狂いにひとしい。  6. すなわち 根拠があるなら それは 人間の理性以上のものではない。のだから 無根拠を神は 根拠としている。  ご批判をどうぞ。