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会津軍は、もっぱら武士階級から編成されていたようで

会津戦争について教えて下さい。 会津軍は、もっぱら武士階級から編成されていたようです。したがって、兵員が足らないため、少年兵の白虎隊まで動員していました。 一方、新政府軍は、多種な階級の兵から編成されていたようです。例えば、長州藩の軍は、武士はもちろん町人や農民も含んでいました。 これでは、会津軍は、質はともかく、量で負けます。 会津軍は、なぜ、多種な階級から構成された軍隊を作らなかったのですか、あるいは作れなかったのですか?

  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.5

奇兵隊のような武士と民衆を混成した軍隊を作れた長州藩が特殊なのです。 会津藩に限らず新政府軍の薩摩藩を始めほとんどの藩は武士階級が中心の軍制です。 勝ち馬に乗った多くの藩が新政府軍に加わったために圧倒的な軍事力差が生まれたわけで、決して会津が軍制改革ができなかったから戦力差が生まれたわけではありません。 そもそも武士は戦うために存在していたわけですから、その存在意義である戦争を他の階層に任せることなど自身の存在を否定することに等しいことであり、容認されることではありません。明治政府ですら、徴兵制度の導入によって士族の存在意義を否定したため西南戦争を招いています。武士によって成り立っている藩が多種な階級から構成された軍隊を作るのは簡単なことでは無いのです。 長州藩にしても全軍が混成軍隊になったわけではなく、一部に過ぎません。これは、下関戦争という対外戦争に強引に突入して藩の危機という意識を多様な階級に持たせたからこそ成し遂げられたもので、当時としては画期的なものなのです。 なお、白虎隊の大半は10代後半で当時としては少年というわけではありません。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 不勉強でした。 長州が、特殊なのですか。 武士階級の存在意義を否定するような混成軍隊を作ることは、出来ないのですね。 薩摩を中心とした西南戦争も、然りですね。

その他の回答 (10)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.11

おまけ1 兵員数ってのは関係ないじゃないの? http://www.aizue.net/siryou/gunsei.html 11,500 対 対する西軍の総数は、10万人とも、7万5千人ともの大軍に達していた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89 3,000 対 未詳 とかあるけど、第二次長州征伐における戦力比も10倍程度だったはず http://www5.ocn.ne.jp/~soukyuu/sikyousennsou.htm おまけ2 http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/687/1/nk22005.pdf 萩藩や会津藩、鹿児島藩、佐竹藩、佐賀鍋島藩などの家系継承パターンの分析 長男による継承も、実子男子による継承も、萩藩では他の諸藩に先立って18世紀前半に顕著な減少を示す。 ※ 実子男子 萩藩 59.1% ※ 実子男子 会津 74.3% この論文ではこれ以上踏み込んでいないが 伊藤博文:WIKIPEDIAより下記引用 百姓・林十蔵(後に重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。家が貧しかったため、12歳ごろから奉公に出されたという。父・十蔵が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防国佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文父子も足軽となった。 数量的は分析はないが、養子と言った時には、身分制関係なく行われていたと考えられます。 幕臣である勝海舟も御家人株を買って御家人になっていますが、書類上は「養子」となっています。 萩藩では家系の継承において養子縁組の比率が高かったことは、武士に養子に入る百姓が他藩に先駆けて多く存在したことが推測されます。養子に出した百姓側の実家が武士階級になった分家の経済的支援を行ったり、親族付き合いを継続していたことは容易に推測されます。 ※ 坂本龍馬は土佐藩ですが、商家である才谷家は郷士である坂本家の経済的支援を行なっていたことなどが参考例になります。 新撰組の例で言えば、有力農民の子弟が道場で剣術を習っていた。 つまり、幕末の段階で 萩藩では、百姓(御家人株を買った勝家の例で言えば、買うほどの有力農民であり、武術訓練などもしていた可能性がある人々)と下士などの武士との一体化が進んでいたのではないかと推測される。少なくとも、会津藩よりは一体化が進んでいた。 この一体化の進行度合いによって、非武家層から志願兵(つまり奇兵隊のような形態)になる”量”と”質”(藩への忠誠度)の違いが生じ、長州藩は会津藩よりも強かったのかもしれない。

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 萩藩では、養子が身分制関係なく行われていたように、一体化が進んでいた、ということで <この一体化の進行度合いによって、非武家層から志願兵(つまり奇兵隊のような形態)になる”量”と”質”(藩への忠誠度)の違いが生じ、長州藩は会津藩よりも強かったのかもしれない。> というわけだったのですね。 萩藩は非武家層が経済的な力を持ってきましたので一体化が進みましたが、会津藩は非武家層が力を持ってこず、支配者(武士階級)は、現状維持のままで良い、一体化を進めなくても良い、となったのでしょうか。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.10

確かに会津藩は百姓・町民を徴募して修験隊・猟師隊などの民兵部隊を組織しました。しかし実戦では士気が上がらず機能しませんでした。それを見て取った会津藩士土屋鉄之助が旧弊依然たる身分差別を残していては戦えないと喝破して、容保に例え農民であっても志願兵を藩兵に組み入れ、士族階級として遇するべきと献策しました。それが認められて編成されたのが敢死隊です。そもそも職業別に部隊が編成されていることもおかしな話です。軍事作戦的に修験者だけの部隊を作る意味がどこにあったのか。それは誰も会津軍、会津兵という共通する意識を持っていなかったからです。彼らが持っていた意識は職業意識・身分意識だけだったのです。だから身分の異なる階層をごちゃまぜにしたような部隊を編成できなかった。修験者なんかと一緒にされてたまるかといった差別意識を持っているようでは、軍隊とはいえません。 軍とは、無理矢理兵士を集めた所で、集めたというだけでは屁のつっぱりにもならないんです。 そこが長州藩と会津藩の決定的な違いでした。 上っ面だけの頭数比べに囚われず、兵士が持っていた決定的な意識の違いに気づいて欲しい。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 なぜ○○隊、●○隊など、複数の隊があるか、が不思議でした。(一番隊やニ番隊であれば納得できますが) <会津軍、会津兵という共通する意識を持っていなかったからです> ですね。 <長州藩と会津藩の決定的な違いでした> ということですね。 単に、兵員数だけでは、掴めないのですね。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.9

会津藩の兵制 http://www.aizue.net/siryou/gunsei.html 旧幕兵を武士とするならば、武士比率43% 長州 http://blogs.dion.ne.jp/kakuhangunjishi/archives/cat_215070-1.html 諸隊 2010@慶応三年 長州藩の経営管理 P135 正規兵 2000 諸隊兵 2000 @慶長元年5月、人員整理後(参照したのは 古川薫 長州奇兵隊 昭和47年 P125)とのこと これで第二次長州征伐を戦い、戊辰戦争中の長州兵力は5000程度という記述を散見します。 http://www.geocities.jp/furi_316/kihei-1.htm 奇兵隊の半数近くは武士(HP作成者自体は疑っていますが) 正規兵=武士階級が追加で兵力にならないとしても、5千人中、2千人(つまり40%は武士階級)であり、諸隊中にかなりの数の武士回収出身者が含まれていたと判断できる。 これらから推測されるのは、総兵力中での武士比率 会津 43%程度 長州 40%強(場合によっては、それ以上) 会津と長州では戊辰戦争における総兵力における武士比率は同程度であると推測されます。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 不勉強でした。 詳細な分析によると、 <会津と長州では戊辰戦争における総兵力における武士比率は同程度であると推測されます。> ですか! 私にとって、奇兵隊・白虎隊などのイメージが強く、状勢を誤っていました。歴史は即断できないですね。

回答No.8

追伸、会津藩が敗北した原因も二つ挙げる、一つは会津盆地に入るには大まかに七つの峠を越えなければならない、東は母成、中山、ごれいびつ、南は三森、勢至堂、西は小出、津川でこれらの地区で薩長土肥軍を迎え撃つには会津軍を筆頭に幕府残党軍、大垣藩兵、桑名藩兵、新撰組で振り分けても一個小隊ではあまりにも兵員が少な過ぎた、(ちなみに北は大峠を越えると米沢藩になるので作戦からは除外)二つ目は各地の庄民、農民が薩長軍に買収された事で特に不測の事態となったのは母成峠決戦での大鳥圭介、斉藤一両隊は思わぬ敗残を喫した!それと広大な土地である南会津での農民による見境の無い追いはぎ行動、元々が幕府直轄領だった南会津は長年にわたる不作続きで生活するのもやっとだった農民は買収されればどちらにも付いた、実際には戊辰戦争で村にやって来た兵を殺して金品を分捕り、その屍骸を喰する事も起きている。

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 8件の回答からみますと、(丸めると)、会津軍も新政府軍も、兵員においても兵器においても、そう大差はないような様子です。(個々の皆様の回答は、どちらかの優劣をはっきり示されておりますが) その割に、会津軍は、粘ったとはいえ、優位に立ったことがないように、見受けられました。 会津軍の敗戦の理由は、(1)兵員の少なさ、(2)住民などの離反、によるものなのですね。

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.7

おおざっぱな一般論なのですが、 「足軽」という言葉がありますね。 戦国時代の足軽は、近代軍の二等兵ではありません。 会社に例えれば、二等兵は正社員の平社員ですが、足軽は非正規労働者。 今日の会社の業務が、正社員だけでなく、非正規労働者にも支えられているように、戦国の戦いも、非正規な足軽や、後の忍者伝説の元ネタとなる素破・乱破も参加していました。 江戸時代になって、足軽は正社員になりました。しかし、大名行列に、人数あわせのために「非正規」の社員を加えるのも常態となっています。その方が経費が浮くので。 つまり、「武士だけで戦う」という発想の方が不自然なのです。。 また、「武士だけで戦う」としても、武士の家に仕える「中間」などがついて行きますから、武士だけではありません。 まとめると、 (1)武士の戦いにも、武士の家に仕える中間がついてくる。 (2)さらに、非正規な兵の参加も普通のことである。 ☆兵農分離とは、農民を戦いに参加させない、という事よりも、確実に正規兵を出してくれる家を確定して「武士」とする、という意味であったようです。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 不謹慎かもしれませんが、にこにこ笑いながら、回答を読ませて頂きました。 いま時の流行り言葉である、正規社員と非正規社員を考えさせて頂きました。 昔を知ることにより、現代を考察することができる、というのは、歴史を学ぶ醍醐味ですね。 武士とは、正規兵を確実に出してくれる、というのを意味している、のですね。 戦いでは、かならずしも正規兵(武士)のみが参加した、というわけではない、のですね。

  • DieMeute
  • ベストアンサー率70% (571/807)
回答No.6

>なぜ、多種な階級から構成された軍隊を作らなかったのですか、あるいは作れなかったのですか? 回答・・・つくりました。 敢死隊というのが編成されており、これは町民、農民に士分に取り立てると約束して兵士を募集し編成されました。 猟師隊というのも編成されており、文字通り猟銃を扱う猟師により編成されました。 奇勝隊というのも編成されており、これは僧侶により編成されました。戦国時代の僧兵みたいなものです。 修験隊というのも編兵されており、これは修験行者、山伏により編成されました。 力士隊というのも編成されており、これも文字通り相撲の力士により編成されました。 会津藩の武士による兵力は約3500人ですが、こうした武士階級以外から募集された兵士は農民だけでも3千人以上で、全体で7500人以上、あるいは8000人以上とも言われます。 つまり会津藩は武士階級以外からの募兵により兵力を通常の3倍以上にしていたわけです。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 不勉強でした。 会津藩の兵力は、武士階級は約3500人、武士階級以外が3000人以上だったのですね。 住んでいる藩を守るため、総力を挙げて戦ったのでしょうね。

回答No.4

あと武器の話を触れてる方がおられたのでそこも触れますが、 会津は藩内でエンピール銃を作る技術を持っていて生産をしていました。これが出来た藩は、確認されている限りでは会津だけです。 また、山本覚馬(八重のお兄さん)はカール・レーマンと接触して最新型のボルトアクション銃『バウムガルテン』を購入しています。八重が使った銃もスペンサー銃という元込7連射銃です。ただ、会津から発見される銃にはいろいろな物が混じっており、弾薬補給がグチャグチャだったと思われます。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 最新の技術すなわち最新の銃を造るという技術を持っていたのですか。 会津にとって、この技術がもっと生かせれば、歴史がもう少し複雑になったかもしれないのですね。

回答No.3

無茶苦茶な事を言わないでください 会津藩は 上士の士中玄武隊・士中朱雀隊・士中青龍隊・士中白虎隊 中士の寄合玄武隊・寄合朱雀隊・寄合青龍隊・寄合白虎隊 下士の足軽玄武隊・足軽朱雀隊・足軽青龍隊・足軽白虎隊 に組織を分けしており、 これ以外に農民兵・僧兵その他約8000名の兵員を整えています。 白虎隊は現在の基準では少年かもしれませんが、当時は15歳で元服して大人になりますので彼らは大人の兵隊です。二本松みたいに元服前の子供を使ったのとは次元が違います。 尚、長州・薩摩・土佐も10代の兵隊がおり、白虎士中二番隊(有名な白虎隊)と衝突した薩摩兵10名の兵隊の指揮官は18歳だったことが解っています。 会津と長州・薩摩の農民隊の違いは、会津は傭兵・徴集兵であったのに対して、長州は士分を与えると称して農民に夢を持たせた兵隊(最後は約束を反故にされるのですが…)、薩摩は民の4割が足軽・郷士といういびつな藩ですので動員が簡単なのです。 会津は終戦時2万梃の鉄砲、大砲50門、小銃弾20万発、砲弾500発以上を持っていました。 攻め方であった新政府軍は僅か500名で会津に突入し、その後の増援でも会津の戦力を超えていません。 量で勝ったのは会津で、質で勝ったのが新政府です。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 不勉強でした。 <農民兵・僧兵その他約8000名の兵員を整えています。> のですか。 当時の考え方は、白虎隊は(他の藩でも同じだが)、元服した大人の兵隊なのですね。 <量で勝ったのは会津で、質で勝ったのが新政府です。> そうすると、量で勝っている会津藩は、兵器の質の面から敗れたのですね。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

長州藩は、明治政府のコンセプトを先取りした藩運営を江戸時代から先駆的に実施していました。というより明治維新の意義は、長州藩のコンセプトを全国的に拡大するといったことだった訳です。 では長州藩が先取りした明治政府のコンセプトとは何か。 ・富国強兵・・・長州藩は下関戦争で4カ国軍に惨敗するとグラバー商会から最新式の軍艦を購入し、軍備増強に努めました。 ・四民平等・・・長州藩は出自に関わらず適材適所に人材を登用する政策がありました。 ・普通教育・・・松下村塾が武士・町人・農民といった身分にかかわらず幅広く人材を育てました。 ・和魂洋才・・・長州藩は下関戦争で4カ国軍に惨敗すると長州ファイブを呼ばれる留学生を全国に先駆けてイギリスに派遣しました。初代総理大臣の伊藤博文は長州ファイブの一人です。 ・殖産興業・・・長州四白といわれる米・紙・塩・はぜ蝋といった多角化経営で経済力をつけました。 これに対して会津藩は藩祖・保科正之の遺訓を守るということだけでした。日新館は什の掟を定めた。 一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ 二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ 三、虚言をいふ事はなりませぬ 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ 六、戸外で物を食べてはなりませぬ 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ ならぬことはならぬものです しかし日新館は藩士の子弟しか入学できない藩校です。会津藩は百姓は米作りだけに専念していろという旧態依然な思想の藩だったのです。 会津藩は戦う前から長州藩に負けていました。先駆的な長州藩が新政府軍の中核になったのに対し、会津藩は時局を読めず、あたら逆賊となってしまった。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 <明治維新の意義は、長州藩のコンセプトを全国的に拡大するといったこと> ですね。 <長州藩は出自に関わらず適材適所に人材を登用する> ということですね。一方、 <会津藩は百姓は米作りだけに専念していろという旧態依然な思想の藩だった> のですね。したがって、 <会津藩は戦う前から長州藩に負けていました> ということになるのですね。

回答No.1

理由は二つある、一つは会津盆地に人が少なかった(農民が殺されては米が作れなくなる)、二つ目は会津武士の威厳に賭けても薩長土肥をなるだけ叩く!(しかし実際は藩内に堅物が多数いたため先を見越しての戦略を立てる事が出来なかった、それと最新の武器が無かった、この事が決定的!な明暗を分けた)、これが最大の理由、ちなみに藩内が一番活況を呈した時期とは幕府残党軍、大垣藩、桑名藩、新撰組残党達が続々と入藩して来た頃だろう、その時流行った唄(今に会津が江戸になる~)

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 1、人が少なかった。 2、威厳をかけて、武士のみで戦おう、 ということですね。 そして、入藩時が一番活況であった、ということですね。

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