幕末の諸藩の尊攘派と佐幕派の抗争

このQ&Aのポイント
  • 幕末の諸藩の尊攘派と佐幕派の抗争は、水戸藩の天狗党と諸生党を含めた家族や親類まで巻き込んで行われ、弾圧された。明治以降も遺恨が残り続けた。
  • 他の藩でも尊攘派と佐幕派の抗争があり、加賀藩や久留米藩、尾張藩などでも犠牲者が出ていた。長州や土佐も同様の抗争を経験した。
  • 特に長州では、長州征伐の講和後、切腹した国司や三家老の子は処罰されていないようである。また、結果的に俗論派は敗れたが、政府の役人に取り立てられた長州士族と疎外された俗論派との間には差があったのかは不明である。
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幕末の諸藩の尊攘派と佐幕派の抗争

水戸藩の天狗党と諸生党の抗争は本人だけでなく、家族、一族、親類までまきこみ争い、弾圧されたそうです。明治以降も遺恨をひきずったとききます。 幕末は他藩でも尊攘派と佐幕派の抗争があり、犠牲者も出ています。 加賀藩、久留米藩、尾張藩・・・  長州や土佐もそうです。  他藩でも一族、親類まで抗争していたのでしょうか。それとも弾圧や処分対象は本人だけだったのでしょうか。    例をあげると、長州も抗争があったようですが、 長州征伐の講和のあと切腹した国司、益田、福原の三家老の子は特に処罰されていないようです。 また、結局俗論派は高杉晋作に敗れましたが、 wikipedia によると俗論派は 「斬首となった保守派は椋梨一人だった。討幕派側の取調べの際に、「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願したためだとされる。」 となっています。維新後、長州士族は政府の役人に取り立てられましたが、俗論派は疎外されたのでしょうか、それとも分け隔てなく任用されたのでしょうか。

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  • ithi
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回答No.1

sumiyoshigawaさん、こんばんわ。 おそらく、明治初期においては、俗論派の人たちは阻害されていたと思います。「国司、益田、福原」などの一部の上級武士を除いてたぶん優遇されていたのは松下村塾党という吉田松陰門下とその周りで恩恵を受けた人たちだけだと思います。俗論党だけではなく、その他の多くの長州藩士がその恩恵にあずかったわけではありません。それどころか武士の様々な特権をはく奪され、不平士族が多く出てきましたから萩の乱で一度ガス抜きが行われた段階でいろいろな人材登用を考えだすようになったと思います。これと同じ意味で西南戦争を考えるといいと思います。

sumiyoshigawa
質問者

お礼

ありがとうございます。 勝ち組の薩長のなかにもさらに勝ち組と負け組がいるんですね。

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