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限られた現実からの出発

私という存在は、限られた現実である そうと知る時、すでに一歩を踏み出している それは理由のない出発である 限られた現実のみが私であると知る時、新しい現実が姿を現す そんな気がしてならない 生きるとは、そうした事の繰り返しであるような気がしてならない 生きるとは、限られた現実からの出発である それは感性が私に与える証明なのかもしれない 現実に対して受け身であるという認識がもたらす、新しい世界へのいざない・・なのだろう 平然と、しかも確実に訪れるかもしれないその時・・・を、あなたはどう迎えようとするのでしょう?

noname#189751
noname#189751

みんなの回答

noname#181644
noname#181644
回答No.6

識別されたものは限られたことでありますが、識別されえなかったものは限られたことではありません。 しかし、限られた現実という表現が、地に足をつけた、、という意味であるならば、この詩文を私は好意的に受け取ります。 その時を私は、静かに明るく、軽快に、踏み出したい、皮のスニーカーを履いて。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。 >その時を私は、静かに明るく、軽快に、踏み出したい、皮のスニーカーを履いて。 お洒落ですね 気分一新というか 万事こだわりなく >静かに明るく、軽快に とてもいい感じですね 明るくていい 新しい時の訪れを明るく迎えようとする、前向きな姿勢はいいと思います。 >限られた現実という表現が、地に足をつけた、、という意味であるならば 地に足をつけた、、 確定には違いないのですが 現実認識の確定の感覚において、あくまで受け身であるといった感覚のように思います 私という身に知らされたこと です 再び知ろうとする働きを排除して、ありのままに残ったもの なんでしょうね >識別されえなかったものは限られたことではありません ということになるんでしょうね >皮のスニーカーを履いて。 自分への愛というものが感じられていいと思いますよ。 新しい自分への祝福なんでしょう。

noname#189751
質問者

補足

その時は 静かな明るさ を感じるようです 感性的な生まれ変わりなんでしょう 過去は眠り、現実が目覚めるといった 新しい朝のようです そこには いい 悪いといった問いかけがない 新しい人生の朝の新鮮さがあります 再び与えられたような静かな自由があります その中で、限られた現実に頷くことができる 過去の自分の姿に向かって微笑むことができる そんな感じがします 前向き、という言葉がありますけど 無理な前向きではなく、自然な前向きといった感じです 限られた現実からの出発とは、自然にもたらされた前向きな姿勢、といってもいいと思います それは 私がそのようにした のではなく 私がそのようになった という事です 私自身の変化を、私が受け入れる時が来た ということかもしれません 平然として、感性が示すものを受け入れる時、新しい現実が開けてくる それは 生きているという不思議さを受け止めること、でもあるように思います 喜怒哀楽を押しやって、新しい世界をありのままに見る時 少しは 生きてきてよかったのか・・という感慨も湧いてくるようです そのようにみれば 限られた現実からの出発とは、人生の肯定、生きてゆくことの肯定でもあると思います 宗教心のある方は、信仰への感謝という形で頷かれるのだと思いますが 無宗教の立場からみれば、ごく自然な人間性によるもの、という見方ができると思います 人それぞれでしょうし、決めつけるつもりはありません 客観的にみれば 人生の節目なんでしょう 悪い節目ではないと思います 生きていれば、必ずそうした節目が訪れる そんな気がします。

回答No.5

 ★(No.4お礼欄) ~~~  どうでしょう  Bさんにもそうした体験はありませんか?  ありましたら、お聞かせ願いたいと思います。  ~~~~~~~~~~~  それでしたら 人生で一回きりの回心のときのことでしょうね。  身が軽く感じるようになりました。心も晴れ晴れしくなりました。あたらしい世界です。  ただし 振り返ってみたとき むしろ――これも言いづらいことですが――それまでにおこなって来た重要なコトについての判断や行動が ことごとくみとめられるというような感覚を持つにいたったのです。  マチガイがなかったということではありません。  選択した方向のマチガイをもふくめて しかるべく――つまりマチガイだったのだけれど ほかに選択肢はなかったというかたちで やむを得ないという意味で しかるべく――道をあゆんで来たのだと感じたのでした。  そういうかたちで 世界とそして自分自身との和解が成った。  そして言わば過去の軌跡が整列した。  中で手ごわかったのは 実質上の初恋をめぐって 相手とのその確執が遠く長く尾を引いたことです。ですが やがて自分の中で結着を見ただけではなく そこに至るまでにも 悔いが残るということではなかったのです。(このいきさつは じつは ここでの質疑応答にすでに明らかにしています。ひょんなことで 公表するようになりました)。  あとは そうですね。  三十歳前後にその回心があったのですが――ですから《心をあらためる改心》ではなく 心をいまいちど回(めぐ)らせると呼びます―― 最初の頃はいまにも日本が変わると思っていたことがありました。  人間(現実)が変わるという命題を得ました。延び延びになりましたが いまでも有効だと思っています。  そんなところでしょうか。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。 >過去の軌跡が整列した やはりそうでしたか。 綴り終えて見るアルバムは・・ >世界とそして自分自身との和解が成った。 こう淡々と言えるところがいい 感性が自己存在の証明書を発行してくれたのだと・・ >やむを得ないという意味で しかるべく――道をあゆんで来たのだと感じたのでした。 それしかなかった というものは それだけがあったという明らかな生きた記しでもあるはずです。 >それでしたら 人生で一回きりの回心のときのことでしょうね。 方向転換ですかね 自らそうなさったのか、いつのまにかそうなってしまったのか なるようになった、という感慨もおありでしょうが ともかく決着がついた、という安堵感がまず先にあったように感じます。 誰でも必ず来るという、現実認識の違い、変化 それは忘れ難いはずです その時の光景も忘れることはないと思います。 すべてが初めて見るような新鮮さをもっているからです。 現実とは こうもリアルなのかと思ってしまう 質感が変わってしまうような感じです それは、現実に打ちのめされるのではなく、生きることの復活みたいなものです。 付け加えて 何かが微笑んでいると思いませんか? それは、真実の反証を行う悪魔でないことは確かです。 その意味は、きっとBさんなら分かっていただけると思います。 また、よろしかったらどうぞ。

回答No.4

 あばうと72さん 方向性が分かんないから(ピンと来ないから) わざとツッコミを入れて あなたの意識している及びしていない狙いや心づもりを引き出そうとしてみます。  ○ (ひととしてワタシなる存在の成り立ち) ~~~      非思考の庭(しんじる。心の明け。直感かつ直観)    ________________    思考の緑野(かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(≒直感・ヒラメキ)    ________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 雲をつかむような話に違いありませんが 《非思考の庭》では 言わば無限ですよ。無根拠です。  そしてたしかにそのことが  ★ ~~~~~  (あ) 私という存在は、限られた現実である  (い) そうと知る時、すでに一歩を踏み出している  (う) それは理由のない出発である  ~~~~~~~  ☆ という実際の実存につながっているのだと見ます。  つまり     あ. 《限られた現実である》けれども みづからの《心の明け》を知っている。      その現実存在(つまり 実存)としてワタシは世界の内にあるそのことにおいて《閉じられていない》。   い. ゆえに《そうと知る時、すでに一歩を踏み出している》。つまり人びとと――社会性という基礎において――関係しあっている。   う. 《それは――無根拠における――理由のない出発である》。出発点が閉じられていないのだ。  ★ 平然と、しかも確実に訪れるかもしれないその時・・・を、あなたはどう迎えようとするのでしょう?  ☆ これは もうそのつどの判断や行為としてつねに一回性のもんだいになると思います。  抽象的に一般的な考え方が その《あたらしい現実の迎え方》としてあるか?  どうでしょう。それは むしろ一歩手前の《いま・ここなるワタシ》つまり《つねなる現在時における〈心の明け(閉じられていないこと)〉》が 問われている。といった答えになるのでしょうか。  (ちょっとカッコウをつけ過ぎましたか)。

noname#189751
質問者

お礼

狙いは単純です。 他の人はどうなのだろう? それを聞きたい、それだけです。 何気ない周囲の現実が、ある時、まったく違って見えてしまう すべては あるようにある いつものように変わりなくあるのだけれども まったく違って見えてしまう それは内面的な何かが終わったという変化からくるのだと思います。 すこし大げさに言えば、生まれ変わりなんでしょうかね いつのまにか別な自分になっているという不思議さ そうした体験を問いかけてみたい気がします。 面白くいえば・・ 人は自分という、小さなタイムマシンに乗っている でも タイムマシンに乗っている事に気付かないでいる そして、いつの間にか 扉が開いて さあ ここがあなたの新しい世界ですよ と 見せてくれる 希望の訪れとは、それからのようです。 希望もなく開いた扉の外の光景は・・ ごく何でもない光景です でも違う 今まで現実だと思っていた現実は、過去という現実になってしまう 過去という現実は、印象という断片として整理されてしまう 印象という感性の復活が果たせる範囲での認識となってしまう 整理された世界から、未整理への世界へと いつの間にか足を踏み出している どうでしょう Bさんにもそうした体験はありませんか? ありましたら、お聞かせ願いたいと思います。

noname#182794
noname#182794
回答No.3

励ましのお言葉をいただき、ありがとうございます。 実はわたくし、就職浪人になってしまいました。 このまま就職が決まらなければ、専門学校に 入りなおそうかとも考えてまして、 どうもこうも、このざまです。

noname#189751
質問者

お礼

>どうもこうも、このざまです。 あまり、自分を見下さないほうがいいですよ ヤケにならないほうがいい 自分の持てる希望に向かって進んでください 私にもありましたね いつか、ヤケになっていた自分が懐かしく思える時が、必ず来ます 静かな一歩を踏み出せる時が来ると思います。 まだ、限られた現実にはなってはいない 青春という、可能性に満ちた現実を精一杯生きてください。

回答No.2

 人の心は面白い。複雑だからか。  他の生物と違って人の心に囲いはない。  人の心は鳥かごの鳥ではないはずだ。  羽ばたけば、制限のない空間を自由に飛び回れる。  もっともその能力を備えていれば、だけど。  川が上流から下流へと流れるように、人の精神はなぜか下流から上流へと流れたがる性癖があるようだ。  川のように流されていれば楽していられるだろうに。  不思議だ。  最も“堕落の人”なんてのもあるけど。  宇宙は広い。それこそ終わりがない。永遠だ。  そんな中に、最初で最後の一瞬のこの「私」。    一瞬故に、貴重な瞬間だと云える。  そう思うと一分一秒たりとも無駄には出来ない。  少なくとも精神性と云う点において、俗世間の事柄に埋没しない世界を持って、川の流れに逆らっていきたいと思う。  そうした生き方をしていれば、目標に辿り着けなくても後悔はしないと思うから。    

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。 >そんな中に、最初で最後の一瞬のこの「私」。 >後悔はしない 力が感じられる言葉です 自分を慈しむというものが感じられますね できれば、そこにおける光景をお話していただければリアルなんですが・・ 自分を愛することは、いい事だと思います。

noname#182794
noname#182794
回答No.1

限られた自分にもたらされるのは、 いつか確実に私が死ぬということ。 そしてそれを、紛らわせるために、 誰かの死として客観的にとらえ、 自分自身を大勢の中の、誰か、 に仕立て上げる。 私が仕事のうえで、この人には 良い条件を付けてあげたいと思っ ても、会社のコスト面には口出し できない。これだけでも私は既に 疎外されている。 まとめると、死を忘れるために 社会人になり、 社会人になったせいで、本当の 自分が死んでいる。 しかし自分の客観的な死など 本来は無い。 それでも死が無くなるわけでも無い。 まさにこの世は空だと言うほかにない。 これがありのままの私です。 疎外され続け、搾取され続け、 自分の死を、あいまいにしたまま 生きていきます。 これが、マルクスの嘆きか、 ハイデガーの現存在か、 あるいは釈迦の呪いだろうか。

noname#189751
質問者

お礼

ありがとうございます。 >限られた自分にもたらされるのは、 いつか確実に私が死ぬということ。 そうですか、一気に死ぬというところまで行きますか でも、それも想定ではないでしょうか 新しい現実としての死ではないように思えます >しかし自分の客観的な死など 本来は無い。 それでも死が無くなるわけでも無い。 >自分の死を、あいまいにしたまま 生きていきます。 あいまい と言われているところが まだ、死というものを現実として捉えていないように感じられます でも、それは誰でも同じだと思います >私が仕事のうえで、この人には 良い条件を付けてあげたいと思っ ても、会社のコスト面には口出し できない。これだけでも私は既に 疎外されている。 疎外されている・・ 一種の苦痛を味わっているのでしょうか それとも 終わりを迎えた「疎外感」を見つめておられるのか 全体的に、かなり自虐的に感じられるのですが それはまた、新しい自分の可能性を捨ててはいないようにもみえます まだ、出発前 と言ったら失礼になりますが・・

noname#189751
質問者

補足

生きるとは、そうした事の繰り返しであるような気がしてならない 生きるとは、限られた現実からの出発である 簡単にいえば、「卒業」みたいなものだと思います 学校に限らず、誰でも、いろいろな事をしては卒業してゆく 卒業証書を持って、出て行くときに あらためて、自分は卒業したのだ、と思うでしょう 年をとっている人は、沢山の卒業証書をもっている 何度も、蛍の光を聞いている いいにつけ、悪いにつけ 人はいろいろな事を卒業してゆく 卒業して振り返れば、すべて懐かしく 前を見れば、新鮮で新しい世界が待っている・・ そういった感じではないでしょうか。

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