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古典伊勢物語

fumkumの回答

  • fumkum
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回答No.2

少し長くなりますが、『伊勢物語』の「東下り」に関する段は、9段以外にもあって、7、8,9,10、11、12、13、14、15段がそれに相当します。この7段から15段までの一連の物語が、「東下り」とされています。さて、その段の冒頭を並べると、微妙に違うことが分かります。 7段=昔、男ありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢・尾張のあはひの海づらを行くに、 8段=昔、男有りけり。京や住み憂かりけむ、あづまの方に行きて住み所もとむとて、-中略-信濃の国浅間の嶽に、 9段=昔、男ありけり。その男身をえうなきものに思ひなし、「京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めに」とて行きけり。-中略-道知れる人もなくてまどひいきけり。 10段=昔、男武蔵の国までまどひありきけり。 11段=昔、男あづまに行きけるに、 12段=昔、男ありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野に率ていくほどに、ぬす人なりければ 14段=昔、男、みちの国にすずろにいきいたりにけり。 訳をすると、 7段=「京にいるのがつらくなって。何となく住みづらくなって」 8段=「京は住みづらかったのだろう」 9段=「自分の身を不要(無用)のものと(意識的に)思い込んで、「京には住むまい。東国の方に住むのに適した国をさがしに行こう」と言っていった」 10段=「武蔵国まで目的もなくあちらこちらと歩き回って行った」 11段=「東国に行った時に」 12段=「ある人の娘を盗んで、連れて行く時に、盗人であったので」 14段=「みちの奥の国へあてもなく出かけて行き、行き着いた」 以上が、東下りの理由と目的について記載されている部分になります。 理由については、「身をえうなきものに思ひなし」・「京にありわびて」・「京や住み憂かりけむ」・「人のむすめをぬすみ」として、京に住みづらいことがあり、身を無用なものに思ったことが東国へ向かった理由であるとしています。古来からこの背景には、伊勢物語の3段から6段までの二条の后(藤原高子=後の清和天皇の女御)との恋と破局があったとされますし、現代でも同様の解釈がなされます。しかし、近年の研究により、昔男とされる在原業平と藤原高子の恋愛及び、在原業平の東下りは史実ではないとされるようになってきています。しかし、史実ではないとしても物語上の展開を考えると、恋の破局により京に居るのがつらくなり、身を無用のものに思って、旅に出たと捉えるのが一般的です。 さて、前置きが長くなりましたが、物語に描かれている昔男・東国像と、現実の在原業平・東国像とは違いがあるわけですが、伊勢物語の背景には、史実と『古今和歌集』などの収録されている在原業平の和歌および詞書、伝説などのより形付られた業平像があって、それが昔男に投影されていると考えるのが一般的です。そのような在原業平像としては次のような事柄が挙げられるといわれています。 二条后・伊勢斎王など数多くの女性との恋。特に二条后との恋と略奪・失敗。父が平城天皇の親王、母が桓武天皇の内親王という血統の高貴さ。薬子の変がなければ天皇に即位した可能性もあった悲運。藤原氏の台頭の陰で圧迫された悲運。藤原氏に圧迫されて身の置き所なく東国に下る。六歌仙の一人としての歌の上手などなど。 さて、話が後先になりましたが、「あづま」の範囲についてですが、「あづま」は「東=吾妻=東国」とも言い換えられます。古い時代はともかく、平安時代に入ってからは、初期には天皇の崩御・譲位などの権力の空白期に東国からの侵入者を防ぐために、関所の閉鎖を命じる固関(こげん)使が出された、越前の愛発関(後、近江の逢坂関)・美濃の不破関・伊勢の鈴鹿関の三関以東、特に美濃・伊勢以東の国々を漠然とあづまとしていたようですが、多くは、遠江と信濃以東の国々をあづまとしていました。それ以外にも、近江の逢坂関以東を指す場合や、足柄・碓氷峠以東の地=現代の関東地方を指してあづまとする例もあります。なお、みちの国=陸奥国については、あづま=東国よりはなお遠くの国という意味ですので、東国には含まれないとされていますが、厳密に区分されていたわけでもなく、あづまの範囲に漠然と含むことは多かったようです(陸奥国が常陸国から分離した経緯もあるのかも知れません)。 伊勢物語の東下りに登場する国は、伊勢・尾張・信濃・三河・駿河・武蔵・下総・陸奥になりますが、東山道に属する信濃・陸奥を除くと、全て東海道に属します(武蔵は771年まで東山道)。伊勢物語が、あづまをどの範囲と考えていたのかは不明ですが、東下りの中で特に注目されるのは武蔵国が他を圧倒して多出している点です。9段は最後に出てくるだけですが、10・11・12・13段は武蔵国の話です。その上、13段は「昔、武蔵なる男(昔、武蔵に住んでいる男)」となっている程です。また、「武蔵の国までまどひありきけり」(10段)との表現もあります。伊勢物語にとってのあづまは、武蔵が中心であったように思います。伊勢から駿河まではその通り道としての位置付けではなかったのではないでしょうか。 さて、伊勢物語の東下りの段(7段~15段)の中から旅の目的と、あづまに関する記述を見ていくと、気になる点がいくつかあります。その第1が、「道知れる人もなくてまどひいきけり」・「武蔵の国までまどひありきけり」・「みちの国にすずろにいきいたりにけり」と書かれていることです。ここに描かれている昔男は、東国への道も知らず、迷いながら下って行ったことが表現されています。東国に関しての知識が皆無だったわけではない(後述)にしても、未知の地に近い印象があります。だからこそ、漠然と理想の地を求めたとか、貴種流離譚であったとされます。カール・ブッセの詩や、ウィキペディアの貴種流離譚の説明にある世界です。 山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。 噫、われひとゝ尋めゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。 山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。 貴種流離譚 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A 次に目を引くのは、歌枕の多出です。信濃の国浅間の嶽、三河の国八橋、駿河の国の宇津の山・富士の山、武蔵の国のみよし野・武蔵野、みちの国の栗原のあわはの松・しのぶ山と、数多く取り上げられ、歌に詠まれています。時代は少し下りますが、一条天皇の時代に藤原の実方が宮中で事件を起こし、「歌枕を見て来い」として、陸奥守に左遷された話があります。この話からも東国は歌枕の地であったようです。 藤原実方 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%96%B9 また、鎌倉期の成立になりますが、「古事談」に東下りの理由として次のような文章があり、歌枕を見に行くことが名目であったとしています。 「業平朝臣盗二条后、将去之間。兄弟(昭宣公=*基経)達。追至奪返之時。切業平本鳥(*髻=もとどり)云々。乃生髪之程。称見歌枕発向関東。」 以上の事からも、東国は歌枕の地であり、物語の内容からも、昔男にも東国の歌枕についての知識があったものと考えられます。 さらに、物語から東国について覗える事柄は次のようなものがあります。 10段=母なむあてなる人に心つけたりける。-中略-さてなむあてなる人を思ひける。このむこがねに、 *高貴な血筋(貴種)への憧れと、婿がねとして評価している人がいたことがわかります。 13段=むさしあぶみ(武蔵鐙) *武蔵の国で作られる鐙の事で、優れた馬具として有名であり、東国が馬に関しては先進的な技術を持っていたことが覗えます。 14段=そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむありけり。 *10段とも重なりますが、京の人は東国では見慣れず、珍しかったこと。素朴・純情な心根を持っていたことが覗えます。 14段=歌さへぞひなびたりけり。 *歌までも田舎ぽかった。=歌以外も田舎ぽいと言うことが言外に表されています。 15段=さがなきえびす心 *教養のない、粗野で、田舎人の荒々しい心、情趣・風流をわきまえない心を持っている。14段の女も、男が歌で「あなたを京に連れていこうとは思っていない」とほのめかしているのに、女は意味を取り違えて、「愛しいと思われている」と思っているように、歌の教養も少ない様が描かれています。 以上のように、伊勢物語に描かれている「あづま」やあづま人は、歌枕の地であり、貴種や京人を尊重する地、素朴・純情な人々の反面、田舎っぽく、粗野で、荒々しく、教養も薄く、情趣・風流をわきまえない人々の住む土地としています。 さらに、浅間の煙や、武蔵野・みよし野などに、荒々しい自然や、広大な手つかずの原野を想像することも可能なように思います。また、12段に盗人の話と、国の守の追捕が出てきます。また、武蔵鐙の話からあづまでの馬使用の発達が覗え、盗人・追捕と関連して、下記の歴史的事実を思わせるものがあります。

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