• 締切済み

姿かたちは日本人,でも「中身」は…

皆さんは,「日本人と同じ外見」をしていて,「価値観」が日本人と異なる人を,どのような存在であると受けとめていますか? わたし自身は,「外国につながる日本人」のひとりです。そういった,特別なバックグラウンドではありますが,名前は日本語のものですし,日本語を話すことができますし,日本の古典の知識もありますし,日本事情をよく理解してますし,日本人と姿かたちがそっくりなこともあって,日本人とのコミュニケーションも,普通にこなすことができます。 しかしながら,過去のことですが,ある日本企業で働いていたときのことですが,「〇〇さん(わたしの名前)って,日本人的だね」と言われたことがあります。その方は,ことあるごとに,わたしにたいして,「これが“日本式”だから」という言葉を加えることがよくありました。差別意識,偏見意識,といった,ネガティヴなものはありませんでした。ただ単に,何かしらの「壁」を感じていたのだと思います。 日本人のなかには,ちょっとした「差異」であっても,それを「障壁」,あるいは「問題」であると受けとめる人々がいます。それが,「外国」,「異民族」に関係するものであると,その「反応」が,少々大げさなものになるときがあると,わたしは考えます。 わたし自身が,なぜ,そのような「対応」を受けるのか,わたしの「バックグラウンド」ですが: 1.外見は,どこにでもいる日本人と同じではありますが,親が外国(台湾)出身ということもあって,「外見は日本人そっくりだけど,中身は“多文化”」です。また,しゃべる日本語も,多くの人々が話す日本語とは,少しだけ「違和感のある日本語(これは,外国出身で,日本語を第二言語として話す親の影響を受けたため)」になっているようで,「とっつきにくい存在」であると思われることがあります。日本人のなかには,同じ姿かたちをしている人間にたいして,「同じ価値観(言語・倫理観・文化)を分かちあっている」ことを「期待」する人が多くいるので,「期待はずれ」に思われてしまうことがあります。「格好は同じだけど,同じ日本語を話すけど,どこかしら,分かちあえないものがありそうだ」と思われてしまうときもあります。 2.滞米・正規留学経験があるので,わたしは,「アメリカの価値観」の影響も受けています。たとえば,女性にたいする「接し方」については,日本人のそれとは異なり,どちらかというと,アメリカ人の,いわゆる「レディー・ファースト」に近いと思います。姿かたちはどこにでもいる日本人とまるっきり同じなのですが,まるで紳士的なヨーロッパ系の人が女性に接するときの「態度」をとっていると思われているため,ほかの多くの日本人にとっては,「同じ格好をしているけれど,どこか異質である」と思われてしまうときがあります。 わたし自身は,「バイカルチャー」であることは,非常にポジティブなことであると受けとめています。「バイカルチャー」であることは,「人間的な魅力」でもあると,そのようにわたしは受けとめています。 「バイカルチャー」とは,理解の難しい概念なのでしょうか? 「バイカルチャー」の人々は,わたしたちが考えるよりも,ずっと多くいると,そのように思うことがあります。

noname#181693
noname#181693

みんなの回答

noname#181117
noname#181117
回答No.6

再々。 最初の回答を変更します。 >「日本人と同じ外見」をしていて,「価値観」が日本人と異なる人を,どのような存在であると受けとめていますか? 垣根が低い人たち。 でも、せっかくよく見渡せるのに、深くは見えない人もいるらしい。 内も外も。 近眼なのかな? >「外国」,「異民族」に関係するものであると,その「反応」が,少々大げさなものになるときがあると,わたしは考えます。 自分に関することがことさら大きな問題に感じるのは、誰でも同じ。 大人になるとは、そのことが少しずつ分かっていくことでもある。 この人は、まだ若そうだ。 >「バイカルチャー」の人々は,わたしたちが考えるよりも,ずっと多くいると,そのように思うことがあります。 そう、ずっと多くいる。 chievecharityさんも、そうなったらいいのに。 せっかくの低い垣根が、ちょっともったいない気がする。 「と考えます」も、連発しすぎると、単なる一方的押しつけと何ら変わらないよ。 その知的な文章能力がもったいない。 誰かがバイカルチャーを拒否しているように感じると言っていたが、うん、全く同感です。 私は村に住んでいるのかもしれないけど、chievecharityさんの村ほどは狭くないようです。

noname#181693
質問者

補足

わたし自身には,忘れられない「記憶」があります。それは,日本教育を受けていたときの頃,ある日本人の子供から,「お前が日本人ならば,日本人の“血”を俺に見せてみろ!」と言われたことでした。血液の色は,誰もが同じ色です。まさか,仮面ノリダーのように,緑色をしているわけはありません。ひとりの台湾系日本人ではありますが,台湾という国であっても,外国は外国,ガイジンはガイジン,そして,ガイジンの子供はガイジン,そういった,「バウンダリー」というものを,わたしは子供ながらにも,感じていました。少し,説明不足だったとおもいますが,それから数十年が経ったいまでも,このことを語ることは,少々勇気を要するものです。 その後,わたしは日本社会における外国出身者の歴史に向きあうようになりましたが,そこで学ぶもののなかには,差別や偏見,さらには,「バウンダリー」というものについてでした。「過去」に眼をむけたとき,わたしは,日本人がいかに,「差異」にたいして「敏感」なのかを,たくさん学びました。 このことは,あくまでも,ひとりのマイノリティの経験であり,そのすべてが,日本社会のすべてではありません。わたし自身も,日本人のことを肯定的に理解していますので,オープンマインディッドな日本人がいることを知っています。しかしながら,いわゆる桐生市での小学生の自死事件のことを考えたとき,いまだに「民族差別」を公然とおこなう日本人がいることに,とても失望したことは,記憶に新しいことです。良識的な,教養のある日本人がいることを,わたしは深く理解しています,それと同時に,心無い日本人の存在によって,良識的な日本人のプリゼンスに悪影響がおよぶことを,わたしはとても懸念しています。

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.5

日本は確かに数十年前に比べれば、たとえばバブル期の1990年ぐらいあたりと比べてもそうとう「バイカルチャー」な国になっていますよ。 しかしそれがどのくらいの頻度なのか、どの程度まで許容できるのか、というのは「人それぞれ」であって、都会に住む人のほうがよりバイカルチャー的であり、地方に住む人のほうが一般的に閉鎖的であるように、それは個人の考え方であって、質問者様の考える「バイカルチャー」に当てはまらない人もいるでしょう。 私は、生粋の日本人ではありますが、元々あまり価値観が日本人的ではなく、子供の頃に海外生活(アメリカ)経験があるためか、今でも日本人の価値観から言えば異端な方である、と自覚しています。さらには企業経営者(零細ですが)という立場でもありますので、日本人の8割がサラリーマンだということを考えれば、もしかしたら質問者様以上にバイカルチャーな立場にいるのかもしれません。 この間も近隣の方とちょっとしたいざこざがありました。 いつも挨拶をして、時々立ち話をするような間柄の方なのですが、ある日、私が会釈した際にサングラスを外さなかったのが気に入らなかったらしく、それ以来挨拶をしてくれなくなりました。私個人の考え方では「立ち止まらない会釈なら、サングラスは外さない」でもマナー違反ではないのですが、その方にとってはものすごく失礼に感じたようです。 あえてアメリカの基準で言えば、外にいる時はよほどのことが無い限り、サングラスを外しませんので、日本人として譲歩しているつもりだったのに、まだまだ足りなかったようです。 で、この件は誰が悪いのでしょうか?私それともその方?? どちらもそれぞれの価値観があるので、これがバイカルチャーなのでしょう。私は特にその方になにも感じませんが(もちろん、謝罪するつもりもありません)、だからといって取り立てて説明する気にもなりません。 質問者様の補足を見ると「私は考えます」が多いんですよね。それって、むしろ質問者様がバイカルチャーを拒否しているように感じるのは私だけでしょうか。 アメリカでの生活経験から言えば、カルチャーが違う場合の摩擦はあって当然、それを闇雲に主張しないのがバイカルチャーである、と思います。 アメリカはそもそも人種の坩堝であり、まともに英語でコミュニケーションもできないような人がたくさん居る中で、必要なことしか主張しない、というバイカルチャーの作法が出来上がっているように感じます。 もちろん人種差別などは声高に撤廃を要求するのがふつうですが、別の方のマシ・オカの例のようにアジア人の俳優組合が「ハリウッドは、アジア人をもっと使え!」と要求してもどうなるものでもないでしょう。 バイカルチャーというからには、主張するところと引くところをわきまえているものだと思います。 その点で、質問者様の主張のあり方は実に日本人らしい、と思います。 なんだか、散文的になってきましたので以下にまとめます。 ・日本人は単一的な民族性や歴史・文化を持っている割にはだいぶバイカルチャーを理解できるようになってきていると思います。 ・バイカルチャー的な考え方を持ち、本当に実践している人は声高に主張しませんので、むしろ社会のバックグラウンドにうずもれているでしょう ・バイカルチャーは、ポジティブで魅力的な考えかたではありますが、それをアイディンティティーのように差別化することは、お勧めできないと思います。 ・日本人同士であっても、それなりの経験がある人は「分かち合えない」ことを前提に会話したり議論したりするものです。そこにはバイカルチャーの発想があります。 そうそう、県民ショーという番組知ってますか。あれを見ると、日本という国の文化がいかに多種多様であるか良く分かりますよ。昔は江戸に集まった人々が国訛りを直すために浄瑠璃本などを読んで、意思の疎通を図ったといいます。今でも関西と関東のうどん汁の色が話題になりますね。言葉ももちろんちょっと違います。 そういうことを踏まえて、日本人の中でも良識と教養のある人は「日本人」とカテゴライズしないで、それぞれのカルチャーがある、と相手を認めた上で理解し合おうと努力していますよ。

noname#181693
質問者

補足

コメントありがとうございます。 コメントしたい点はいくつかありますが,まずは「ケンミンショー」のことですが,わたし自身,あの番組の「意図」は,地域の多様性を紹介することよりも,地域の「異質さ」を何かしらの手法でもって「必要以上に強調」する番組であると,わたしは考えます。たとえば,その地域だけの「食文化」を紹介する「手法」のなかには,「大げさ」な印象を持つものも,いくつかあります。さらには,いわゆるオリエンタリズム的に,特定の地域のスナックなり,クラブの「ママさん」を紹介する場面がありますが,そういう「シーン」にも,地域の多様性を視聴者に理解してもらうことよりも,地域の「異質さ」を過度に強調して,それを「笑いもの」にするロジックがあると,わたしは考えます。「卑屈な考え方」といわれるのかもしれませんが,テレビ番組のこともふくめて,マスコミは「誇大妄想」をやる傾向にありますので,わたしはそのように考えました。 テレビの「誇大妄想」については,ある健康・医療番組が良い例だと,わたしは考えます。ちょっとした歯痛,頭痛,腰痛,お通じがない,などといた,シンプルな症例が,失明,器官の切除なり切断,さらには,死にもつながるという,「大げさな演出」を,延々とやり続けていました。「ケンミンショー」をとりあげたことは,着眼点としては素晴らしいものであると思いますが,「マスコミの本性」について,「ことわり」をいれる必要があると,わたしは考えました。 回答者さんのコメントについては,理解のできるものです。確かに,「バイカルチャー」の人々は,増加傾向にあります。しかしながら,ここでいる「バイカルチャー」とは,「真のバイカルチャー」なのでしょうか? もしも,まったく異質な存在に出会ったとき,「バイカルチャー」としての能力を発揮することができるのでしょうか? たとえば,わたしが学生だった頃,アメリカの学校に通っていましたが,わたしの隣に座っていた,ある耳の不自由なアフリカ系アメリカ人の学生さんが,ある日のこと,ノートテイキングをする人がいなくて困っていました。わたしはすぐに,自分の持っていた黄色いパッドを彼に見せて,まだあまり英語がわからなかった時期ではありましたが,わたしなりに,「必死になって」,ノートテイキングをして,彼がしっかりと勉強できるように,少しだけではありますが「ヘルプ」をしたことがあります。そういった「臨機応変な対応」をとることが,現在の日本社会において,どれだけいるのでしょうか? わたしの考えるところでは,差別意識やら偏見といった,ネガティブな思想を持っていなくても,あまりにも異質な人間を相手にしたとき,とまどってしまう人々が多くいると,わたしは考えます。それは,日本人に落ち度があるということではなく,「バイカルチャー」という環境を知っている人が,あまりいないからです。そういう人々のなかには,積極的に異文化理解にとりくむ人がいる一方で,「わたしは生粋の日本人だから」という,「生粋の日本人」という言葉を,あたかも,いわゆる「インドルジェンス」のようにして扱う人々もいます。 これからの日本社会において,必要なこと,それは,さらに「異文化理解」のための「アクション」が必要だということです。それは,日本社会が遅れているから,ということではなく,「多様性」をポジティブなものとして受けとめられるようにするための,大切なアクションであると,わたしは考えています。

noname#181117
noname#181117
回答No.4

No.2です。再度 「排他的」という言葉の解釈に、ちょっとズレがあるらしい。 まあ、簡単に使うと誤解されやすいから、「良くも」と付け加えたんだけど、さらに逆効果だったみたい。 「ムラ社会」と言えば、もう少しうまく伝わったかな? いや、これも否定的な意を込めて使われることが多いからねえ。 私は語彙が少ないので、ちょっとふさわしい言葉が浮かばなくてね。 >日本人の「排他性」を,あまり「大きなマター」として受けとめていないということであると,考えました。 いえ、全然逆です。 私はあなたより大きく考えているのは確か。 ただ、全く別の観点からだけど。 「排他的」「ムラ社会的」というのは、多くの日本人は否定的にとらえてきたのよ。 あなたと全く同じようにね。 ところが、その意外な側面に、今多くの人が気づき出している。 それがすでに崩れかけて、失いつつあることもね。 ああ、こんなこと言っても理解してもらうのは無理か。 表現するって難しい。 ちょっと残念。 achievecharityさんは、ちょっと自ら壁を大きくしている感じがする。 「バイカルチャー」であるがゆえに、気づきにくい壁を。

noname#181693
質問者

補足

まず,あなたは,おそらくは,「コレクティヴィズム」のことについて言及したいのだと思います。「コレクティヴィズム」というものが存在しているのは,わたしは日系人社会において,それが存在していると考えています。しかしながら,日本社会においては,「コレクティヴィズム」が存在しているかどうかと問われれば,日本人はすでにそれを,あまり大切なものとして受けとめていないと,わたしは考えます。だからこそ,「絆」などというものが,強調されるのだと,わたしは考えます。 日系人社会における「コレクティヴィズム」には,たとえば,「次の世代のために,何かをしよう」という「発想」があります。では,それが日本社会には存在するのでしょうか? もしも,それが存在しない,あるいは,現在を生きる日本人がそれを重要視しないということであれば,それは,いわゆる「内向き」といったものであると,わたしは考えます。 「ムラ」とはどのようなものなのか,「コミュニティ」とはどのようなものなのか,特定の人だけがベネフィットを得るような構造があると,それでこそ「ムラ社会」であるといえると,わたしは考えます。特定の人だけがベネフィットを得る社会ではなく,社会の構成員の,ひとりでも多くの社会の構成員(国籍,出自,民族的バックグラウンドにかかわらず)が,ベネフィットを得る社会であることが,これからの日本社会にとって大切なことであると,わたしは考えます。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.3

>「バイカルチャー」とは,理解の難しい概念なのでしょうか?  そりゃ、そういう文化を知らなければ理解できないでしょう。未開の部族で「首狩り族」という人たちがいますよね。首を狩るなんて聞くと「うわあ、野蛮民族だ」と思うけど、彼らには彼らの伝統と文化があるわけです。彼らのカルチャーを理解せずに「そんなのは野蛮でしょ」と断ずるのは結局のところ「これが日本式だから」といっている人たちと同じことであります。そして、誰であっても多少なりともそういうところはあります。質問者さんもまったく概念が違う価値観に接したら戸惑うと思います。 異質な他者を排除する傾向があるのは、どこの国でも同じです。外国人差別がない国があったら教えていただきたいですし、ハリウッド映画で東洋人の男性がブロンド美女とキスするシーンは絶対に見られません。ドラマ「スーパーナチュラル」で当たり役を得たマシ・オカさんは、他の出演者たちに仕事のオファーが殺到するのに対し自分はたいして仕事のオファーがなく「アメリカの芸能界でアジア人がどう思われているか痛感した」と自らコメントしています。アメリカのショウビズ界でもそうです。 細かいことをいうようですが、句点に「,」を使っていますよね。通常の日本語では「、」を使います。例えば英語で「I have a pen、too.」と書いたら「,」を使えと指摘されますよね。中国語で使う漢字と日本語で使う漢字では書体が違いますが、中国語で書くときに日本の字体を使うのは間違いだし、その逆もしかり。質問者さんは「意味が通じるなら同じことだ」というかもしれないけど、それは自分の価値観を押し付けているという点では日本人の価値観を押し付ける人と同じですよ。 世界的に車は右側通行だからといって日本の道路で車を右側で走らせたらえらいことになるでしょう?日本では昔から「郷に入らば郷に従え」という言葉があります。まあこの言葉にはいい面と悪い面があるけど、これは日本人の持つ共通の価値観でしょうねえ。それが「私の感性と違う」といわれても困っちゃうな。社会を変えるのは大変だけど、自分の価値観を変える方が話が早いとは思いますけどね。

noname#181693
質問者

補足

重箱の隅をつつくようなコメントですね。 ちなみに,「,」を文章で使うケースは,日本語にも存在します。主に,理系の論文などで,「,」が使われます。日本語として適切な表現のあり方のひとつであると,わたしは考えます。 わたし自身,他者と同じ価値観や感性を分かちあう必要はないと考えています。ひとりひとりが違います。しかしながら,違っていても,おたがいに分かちあえるところがあるはずです。それを,対話をとおして見つける,おたがいに評価しあうことこそ,大切なことであると,わたしは考えています。民族的バックグラウンド,国籍,門地,そういった「バックグラウンド」は大切ではありますが,ひとりひとりの「バックグラウンド」を肯定的なものとして受けとめられるようにすることが,日本人の「責務」です。 さらには,あなたは「郷に入らば郷に従え」という言葉を使いましたが,これは「同化の強制」でもあります。本来ならば,「統合」であるべきなのかもしれませんが,日本人は「同化の強制」を選択したことは,非常に残念なことであると,わたしは考えます。

noname#181117
noname#181117
回答No.2

>「日本人と同じ外見」をしていて,「価値観」が日本人と異なる人を,どのような存在であると受けとめていますか? 垣根が低い人たち。 >「外国」,「異民族」に関係するものであると,その「反応」が,少々大げさなものになるときがあると,わたしは考えます。 いや~、私はそうとは全く考えない。 誰でもそうだけど、achievecharityさんも、自分に関係ないことには気づかないだけだ。 「排他的」なのは、良くも悪くも日本人の特徴。 >「バイカルチャー」の人々は,わたしたちが考えるよりも,ずっと多くいると,そのように思うことがあります。 いや~、むしろ増えつつあって、それが自然の流れだと私は思う。 数年前、NHKで放送された番組を思い出しました。 舞台は将来の、すっかり「バイカルチャー」であることが当たり前になった日本。 時代の変化に取り残された「内国人(⇔外国人。造語)」が、大きく社会問題になっていると想定していて、とても印象的でした。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 あなたは「排他的なのは日本人の特徴」であるとコメントされましたが,誰しもが何らかのバイアスを持っているということが「事実」であっても,「日本人は排他的」と論じることに,わたしは「問題」があると考えます。 日本人の排他性については,いわゆる「ムラ社会」というシステムに代表されるものであり,社会問題の引き金にもなることは,周知の事実です。「日本人の排他性」は,良いものではなく,悪いものであると,わたしは考えます。 21世紀を迎えた日本社会において,いまもなお,日本人の「メンタリティ」には,いわゆる「ムラ社会」を前提にする,「排他性」があると,わたしは考えています。 そして,そういった「排他性」は,ついに「行動する保守」の出現によって,それが誰が見てもわかるかたちとなりました。「行動する保守」とは,従来の日本社会における右翼思想・保守思想とは異なり,排他性,排外主義のかたまりです。「行動する保守」がインターネットなどをとおして,日本社会のなかで活動を活発なものにしていることは,さらには,どこにでもいる,「普通の人々」をターゲットにしていることは,日本社会がさらに排他的,排外的になる「可能性」があることの証左であると,わたしは考えます。 バイカルチャーの人々を,「垣根の低い人々」であると評価した一方で,あなたの回答からうかがえることは,あなたはおそらくは,日本人の「排他性」を,あまり「大きなマター」として受けとめていないということであると,考えました。ひとりのマイノリティとして,わたし自身にとっては,これは「大きなマター」です。

noname#201242
noname#201242
回答No.1

バイカルチャーやマルチカルチャーは、日本人でも慣れている人は慣れていますよ。 私は日本生まれで日本育ちの日本人ですが、外国に興味があるし、外国語を勉強したり海外旅行したりしているので、比較的平気なほうです。留学したことは残念ながらありませんが。 仕事で海外に関わる人、配偶者など家族が外国出身の人、友達や知り合いに外国籍の人がいる人などにとっては、見た目、育ち、人種や民族、国籍、バックグランドなどが様々な人は、珍しい存在ではありません。 ああ、そうなんだね、程度の話。 でも、理解しない日本人のほうが多いのかもしれませんね。 日本国内だけ向いて生活しているんだと、圧倒的に日本人とばかり接しますし、日本各地でそれぞれの文化があるとはいえ、アメリカと日本ほどには違わないですしね。 大方の日本人にとっては外国って地理的にも心理的にも離れた存在なんですよ。イギリスも島国だけど、かつては大英帝国でしたし、ロンドンなんか行けばいろんな人種・民族の人がいます。けど、日本だと東京ですらそうでもないでしょう。 だから環境的に仕方ない面はあると思います。 繰り返しますが、慣れている人にとっては、質問者さんのバックグラウンドは、少数派とはいえ、「特別」というほどではありません。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「特別ではない」,そのように受けとめられる人が,少しでも増えてくだされば良いと,わたしは思います。

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    いまだに、日本社会においては、外国に「つながり」をもつ日本人にたいする偏見や誤解というものが、根強く残っているのとされますが、外国に「つながり」をもつ日本人は、ほんとうの意味において、日本人なのでしょうか? 彼ら彼女らは、日本社会の真の構成員として、認められていますか? 先日、外国に「つながり」をもつ日本人の芸能人にかんする記事が発表されました。これは、インターネットをとおして閲覧することもできるものでした。 記事にたいするコメントにおいて、このようなものがありました。 ・[外国に「つながり」をもつ日本人の芸能人の]父が外人で母が日本人 → 外国に「つながり」をもつ日本人には、外国出身の父親をもつ人々も多いですが、外国出身の母親をもつ人々も多いです。 ・フィリピン人だけ父が日本人 → 父親が日本人で、母親が外国出身のカップルの場合、中国大陸出身、台湾出身、タイ出身など、アジア出身の女性が多いことを、知っているのでしょうか? 父親が日本人で、母親が外国出身という組みあわせは、フィリピンだけではありません。 →韓国人のハーフなんかは当たり前のように日本人のフリして(ママ) ハーフは差別語ですが、あえて使いました。外国に「つながり」をもつ人々も、日本国籍保持者であり、日本人です。外国に「つながり」があることを理由に、一方的に、「ガイジン」扱いしていいものなのでしょうか? ちなみに、わたしも、外国に「つながり」をもつ日本人であり、日本国籍を保持し、日本のパスポートももっています。はたして、わたしは「本物の」日本人なのでしょうか?

  • 至急です!大学受験の自己推薦書

    至急なんです!30日午前中までに大学の公募推薦受験の自己推薦書を仕上げなければなりません。外国語学部国際文化交流学科を受けます。国語系の方など、添削してください!よろしくお願いします>< 私は異文化や他言語を学ぶことに興味がありま す。中学3年生のオーストラリア研修ではホームステイをしました。その時に、母語ではない言語で会話することにそれまで感じたことのなかった楽しさを感じ、自分の意見をはっきりと主張することが求められることなどの国民性の違いを肌で感じたことが異文化や他言語に興味を持つ大きなきっかけとなりました。 その後もタイや韓国を旅行して、街の様子や言語、食事や作法、そしてタイでは人々の楽観的な物事の捉え方など、日本とは違うということを体感していっそう視野が広げることができました。特に韓国には叔父の会社の工場があり、現地の工場の人に直接韓国について教えてもらうことができました。その中で特に印象に残ったのは言語でした。韓国語は日本語と文法が同じで、発音と意味が日本語とまったく同じ単語も多くあるそうです。平仮名や片仮名、漢字を用いて表記する日本語と、ハングル文字のみで表記する韓国語に共通点があることに私はとても驚き、似ているようで違うところがとても興味深く思えました。そしてこのことが第二外国語として韓国語を学びたいと思うきっかけにもなりました。 このような経験から、より多くの国の人々と交流して、より多くの国の文化を学びたいと思うと同時に。自分が生まれ育った日本の素晴らしい文化を改めてきちんと学び、世界に伝えたいと思いました。その思いを叶えるために、英語を学び、しっかりと身につけ、発信する力を養いたいと思っています。 そして将来はその力を活かして、国際間の映画の売買に携わるバイヤーになりたいと考えています。なぜなら、映画は映像の中にそれぞれの国の文化や価値観が凝縮されていると感じます。その映画を、それまで知らなかったことを知ることができたり、新しい捉え方や考え方を培うことのできるツールとして世界中で共有されるようになってほしいと思い、そのための架け橋になれる仕事がしたいからです。 このような私の希望には、徹底的に英語を学ぶことができ、第二外国語として韓国語にも取り組むことができ、そして海外の文化だけでなく日本の文化も学ぶことができる○○大学の外国語学部国際文化交流学科が非常に合っていると思うので、志望し、推薦します。

  • 日本を語る「立場」,「資格」

    日本社会のマジョリティである,いわゆる「純血の日本人とされる人々」にとって,日本を語る「立場」,「資格」にある人々とは,どのような人々を指すのでしょうか? ***** 学生時代,わたしは,ある日本人(いわゆる「純血の日本人とされる人」)から,「あなたのような人が,日本のことについて語るのはやめてほしい」ということを,言われました。わたし自身は,台湾系日本人です。外国に「つながり」をもつという立場で,日本に住み,日本教育を受けた経験があります。そのようなバックグラウンドをとおして,わたしなりの「日本人との経験」や「日本社会での経験」を主張したところ,この人からは,「みずからのイジメの体験などについて語ったり,日本社会についてネガティヴなことを主張するときがあったので,まるで反日的だ」と言われました。この人にとっては,わたし自身のようなバックグラウンドをもつ「準日本人とされる日本人」が,日本について語ることに,納得がいかなかったのでしょう。 外国の人々,あるいは,外国に「つながり」をもつ日本人が,日本のことについて語るにあたり,何かしらの「条件」があるのでしょうか? たとえば,みずからのネガティヴな経験を語ってはならない,などの「ルール」があるのでしょうか? わたしのような立場の「準日本人とされる日本人」は,日本について語るときには,「美談」をちりばめ,まるで「息を吐くようにして」,「ウソ」,「でっちあげ」をつくらねばならないのでしょうか? たとえば,外国に「つながり」をもつ立場の日本人は,みずからのイジメ体験を,「封印」しなければならないのでしょうか?

  • 多様化した日本社会におけるコミュニケーションとは?

    「多様化」した日本社会における,コミュニケーションの「あり方」 1990年代より,日本社会は急速な多様化の時代に突入しました。 労働力の確保として来日した外国出身者,日本人配偶者として来日した外国出身者,さらには,彼ら彼女らの子供たちである,外国につながる子供たち,また,難民として受けいれた人々など,日本社会にはさまざまな「バックグラウンド」をもつ人々がいます。 さらには,それまでに日本社会のなかにおいて可視化されなかった「多様性」についても,しだいに理解がされるようになりました。たとえば,同和地区出身者,同和地区につながりをもつ人々,アイヌ,沖縄出身者,沖縄につながりをもつ人々,障碍者,ホームレス,ハンセン病患者,エイズ患者,おたく,ニートなど,「内なる多様性」が再評価されるようになりました。 日本社会は「単一民族の社会」ではなく,「同質性の社会」でもなく,そして,「均質性の社会」ではありません。ひとりひとりが,「違っている」こと,さらには,「違っている」ひとりひとりが,「“WA”になって踊ること」のできる<社会>こそ,これからの日本社会において必要とされている,目指すべき社会像であると,わたしは考えます。 「多様化」した日本社会においては,そのコミュニケーションの「あり方」が,たびたび問われています。ひとりひとりの「多様性」が「尊重」されることの重要さが強調される一方で,日本社会における<多様性>とは,「上っ面だけの<多様性>であり,社会の構成員にたいしては,“同化が強制”される」ことも指摘されています。(たとえば,テッサ・モリス‐スズキらによる日本批判。) 皆さんにとって,「多様化」した日本社会における,コミュニケーションの「あり方」とは,どのようなものでしょうか? わたし自身は,ひとりの「外国につながる日本人」という立場から,「ホンネ」と「タテマエ」に頼らない<コミュニケーション>の「可能性」を問うことが,いまの日本社会にとって必要であると考えます。

  • ★韓国と日本の違いの起源を知りたい★

    韓国人と日本人は外見は似てても、違う点は多くあるのは自明ですが、同じ姿かたちでありながらも、どうして文化、風習に差異が見られたのかその起源について詳しい方、もしくはそれが説明されているサイトがあるようでしたら教えてください☆