文構造における存在基盤について
長年にわたって英語指導(読解・文法・作文)に携わってきた者です。ところが、学校文法はいわゆる伝統文法と呼ばれるもので、その正当性の根拠や論理的整合性において矛盾や曖昧さを様々に含むものです。それでも、そうした枠組みに依拠した指導がこれまで(恐らく今後も)続けられてきたのは、主に指導の簡便さによるものだと思われます。実践的観点から言うと、指導において論理的整合性はそれほど要求されません。生徒が実際的な知識をおおざっぱに身につければそれでよいと考えられてきたと思うのですが、高校段階の英語指導という観点から見れば、私もそれでよいと考えます。
ただ、伝統文法に対する根拠づけが可能だとしたら、それがどのような形になるのか考えてみたいと思います。それを今回実践しますが、分析結果に対してご意見を頂けたらと思います。
根拠をどこに求めるかということですが、伝統文法の発想は自然科学の発想と軌を一にしています。ということは、ニュートン物理学の発想が根本にあるということです。すなわち私としては、時間及び空間的な制約がいかに言語対象に適用されるかを見てみようと思います。言いかえると、伝統文法の根拠づけを伝統文法の内部から行おうというわけです。すなわち、三次元空間と時間という認知形式において伝統文法を照らし出してゆくわけですが、学校文法において基礎的な学習事項とされている文構造(語・句・節の働きの総体をその定義としておきます)について多少なりとも統一的な尺度でもって分析できれば、それでよしとしようと思います。
なお、語の分析においては中核的な要素に焦点を当て、周縁的な要素は分析対象から外すことにします。なぜなら、長い間の言語的発展のあいだに基の原義が消滅したり変化したり、あるいは他の品詞として使用されるようになったりもしているからです。また、Water is a clear pure liquid. といったようなカテゴリー表現は分析対象としません。カテゴリーは三次元空間と時間という認知形式の外にあるものだからです。ただし、I drank water. というふうにカテゴリーの部分、すなわち実体を表す場合は分析対象とします。
分析にあたっては、文中で使われる主要な語・句・節にどのような空間性・時間性が見られるかを分析することになりますが、その際に、空間性・時間性を直接的に発見しようとするだけでなく、空間メタファーも活用します。要するに、文中の語・句・節がそれなりの空間性・時間性を持つことを示すことで、存在論的基礎を示そうとするわけです。
ただし、その際に説明が込み入ったものだったり、重層的にメタファーを使うことは避けようと思います。恐らく、間投詞以外はすべての品詞が空間性・時間性を持つものと予想されますが、その説明はできるだけシンプルなものでなければ意味がないと思うのです。複雑な説明だと不自然なこじつけとしか受け取られません。
さて、文というものが成り立つためには、主語と動詞がなければなりません。一般に<モノ>を表すものと<動き(変化や持続も含む)>を表すものとで、この世の主たる出来事や状況が言い表されるわけですから、これは当然のことです。<モノ>と<動き>が組み合わさることで文が生まれる、すなわち世界に対する叙述が生まれるわけです。
ここで、文中に主語と動詞が存在することは一体何を意味するのかを存在論的に考えてみます。主語はもちろん名詞です。名詞は文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、形や姿を現すものとして空間的制約が与えられます。その制約の存在を示すのが限定詞です。実体であっても空間的な制約が存在しない場合は無冠詞で使われます。つまり、空間において一定の位置を占めるわけですが、これが名詞が文中で使われることの存在論的な意味です。
同様に、動詞の場合も文中で使用されない時はただの概念ですが、文中で実体として使われる時は、過去・現在・未来を表すものとして時間的な制約が与えられます。その制約の存在を示すのが時制です。実体であっても時間的な制約が存在しない(時間を持たない)場合は原形で使われます。つまり、時間(または空間)において一定の位置を占めるということですが、これが動詞が文中で使われることの存在論的な意味です。
名詞と動詞が存在論的基盤を持つということは、必ず空間と時間の両方において一定の位置を占めることを示しますが、両者の性質上、空間と時間のどちらかにウェートが置かれます。今後は名詞は空間的性質を、動詞は時間的性質を持つものとして話を進めます。こうした観点からすると、品詞分類においては名詞と動詞が上位に分類され、それ以外の品詞が下位に分類されてもいいと考えます。
形容詞の分析に移ります。限定用法であれ叙述用法であれ、形容詞が表すものを属性だと定義して、その属性に空間性や時間性があるかを考えてみます。形容詞の有り様からして、名詞とのからみで見ていかなければなりません。よって空間性のみを見ることにします。
例えば、He is tall. / He is a tall man. においてtallは段階を持つ形容詞です。各段階の差異は空間性を示します。また、比較級・最上級の存在も空間性を示します。上の2文の状況を図示しただけでも空間性が示されます。
supremeといったような段階を持たない形容詞の場合、段階を持たなくても度合いを持ちます。supremeが内包する度合いを数直線上に表した時、supremeという語は数直線上の最右翼に位置します。空間的に位置を占めているわけです。度合いという考え方はbusyのような一時的な性質を表すものにも適用できるし、redのような恒常的性質のものにも適用できます。
又、red applesはapplesという外延全体のうちの一定部分に言及したものです。このように数量的限定を名詞に与えるという意味においても空間性を表します。dirty waterも同様。
以上、形容詞が空間的性質を持つことを見ました。
次に、副詞を動詞との関わり(それが中核的な関わりです)で見ていきますが、場所や時や頻度や数量を表すものはそれ自体空間性や時間性を持つと言えます。又、程度や様態や確実性を表すものは形容詞の場合と同じく度合いのレベルとして空間性が見て取れます。
ただし、yes, noなどの肯定・否定を表す場合や、文副詞のように話者による評価や態度を表す場合は空間性や時間性の発見は困難です。やろうと思えばできるかも知れません。例えば、yesという副詞の場合、yesとnoを二項対立的な要素集合ととらえることによって空間性を見て取ることができます。ただし、空間メタファーを利用したアクロバティックな強引なものです。説得力を持つことはないと思います。よって、周縁的な要素として処理するのが適当だと思われます。すべてがきちんと説明されなければならないわけではないと考えます。
前置詞については、そもそも名詞との絡みでしか考察することができませんから、空間的性質があるのは自明のことです。例えばin the parkが形容詞用法であろうと副詞用法であろうと、「中」を表すことに違いはありません。また、The book is still in print. におけるように補語として使われた場合でも、刊行されている状態の範囲内にあるわけですから、やはり「中」を表します。
ただし、「中」を表すとする判断はin / the / parkというふうに要素に分解することに意味を認めた場合の話です。話は変わりますが、because he had a cold that day という節においてbecauseを一つの単独の品詞として分析対象とすることに意味がありません。節全体を分析対象にするのでなければ有意な分析は行えません。そのことは前置詞句にも当てはまるのと思います。
だとすると、in the parkは形容詞用法の場合は空間的基盤を持ち、副詞用法の場合は時間的又は空間的基盤を持つと言えます。The book is still in print. においては、現在の状況が示されていることは明らかです。
これは形容詞句の分析の一例ですが、その他の形容詞句においても何らかの形で分析が可能だと予想されます。
代名詞は空間的性質を持つ名詞の代理表現ですから、言わずもがなです。
接続詞はどうかと言うと、これは語と語を、及び文と文をつなぐものなので、それ自体は空間的・時間的性質とは無関係と考えるべきです。だとすると、名詞と動詞を核とする品詞の集まりにおける周縁的なものと位置させるのがよいと考えます。そこで、分析にあたっては接続詞を含む節単位で考えるしかないと考えます。同じことは関係詞節や疑問詞節にも言えます。
重文や複文を構成する文は<モノ>と<動き>が組み合わさったものです。すなわち、空間的性質と時間的性質の両方を備えたものです。それに、接続詞・関係詞・疑問詞が付加された時、両性質が消滅することはありません。
間投詞は対話の相手との直接的なやりとり(相づちや気持ちの表現)を文中に押し込んだもので、そもそも文の構成要素になりません。他の品詞との連携もありません。当然、時間的・空間的性質も持ちません。
以上です。ご意見をお待ちしております。
お礼
引き続き回答ありがとうございます. なるほど. 波の例えは非常にわかり易かったです. 粒子が粒子をはじき出すイメージではダメなのですね. ありがとうございました.