• ベストアンサー

ひとは 分かりあえないか?

阿加井 凛悟(@neutral)の回答

回答No.9

こんばんわ、ぶらじゅろーぬさん。 ご返事ありがとう。 またまたしゃべりっぱなしになるかもですが しかもタテホコになるかもですが、 とりあえずしゃべりますわ。 >《分かり合っていない一部分》を残しておいてよいのだと。 :あ、はい、そもそも 分かるか分からないかも分かりません。 なぜなら他人は自分ではないからです。 再びこの言葉を出しますが、 「宇宙のみなしご」である人間、と人間、 の、あいだに、謎がなくなる、 つまりピタっと感性が一致する、 ということはあり得ないと思うからです。 それですから、 分からないことは、分からないこととして、 「保留」したままにしておかないと、 「次の生活」ができないことがある、 と思うのです。   ___________ >前もって日頃からコミュニケーションを図るということも大切 :あ、はい、ここが上のとはタテホコなんですが、 どれだけ(いつなら)押していいのか、 どれだけ(いつなら)聴いてもらえそうか、 どれだけ流していいのか、 どれだけ逃げていいのか、 押したり聴いたり流したりした結果、 どれだけお互いうまくいくのか、 というのが分かるためには、 日ごろから、 相手をそこそこ分かっている必要がありそうです。 ___________ 以下、またまたお恥ずかしながら、 ケンカの後なんかに思うことを、 そのまんましゃべります。 ___________ まづ、 「自己チューになろうぜ~!」。 あ、自己チューって言葉、嫌い? 自己チューは「悪いこと」だと思う? ああそう、 それなら言葉を変えますわ、 「自分大好き人間になろうぜ」。 だって「自分大好き人間」 ぢゃないと、 自分を大切にできないし、 自分を大切にできないと、 自分を磨こうとも思えないし、 自分の「意見(知識ではありません)」 を持つこともできないし、 それを発信することもできないし、 「他の自己」つまり 「他人」を大切に思い、 尊重することもできないし、 「他の自己」つまり 「他人」の「意見」を 聴くこともできません。 おいらは 「夢があれば何でも叶う」 とは思わないけれど、 自分を大切に思う、からこそ、 自分にとっての、最高の自分、 になろうとすることが できるんぢゃないかな、 と思います。 他人と比べてどうの、 ぢゃなくて、 自分にとっての、 最高の自分、です。 人それぞれ違うと思います。 繰り返すけれど、 自分を大切にできて初めて、 「他の自分」つまり「他人」 を大切に思うことができる、 のぢゃないかな。 「本当の自己チュー」 が分かって初めて 「他人の自己チュー」 も分かろうとする ことができるんぢゃないかな。 もう一度言いますわ、 自己チューになろうぜ。 ___________ 取るに足りない者であるのに 自分は相当な者である と考える人がいるなら、 その人は自分の思いを 欺いているのです。 むしろ各人は 自分の業がどんなものかを 吟味すべきです。 そうすれば、 他の人と比べてではなく、 ただ自分自身に関して 歓喜する理由を持つ ことになるでしょう。 人はおのおの 自分の荷を負うのです。 (中略) 何であれ、 人は自分のまいているもの、 それをまた 刈り取ることになるのです。 (ガラテヤ人への手紙6章) しゃべりっぱなしになるかもですが、 でわでわ。                                                                     

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。この質問での二度目のご投稿です。ご回答をありがとうございます。   ☆☆ ひとは 分かり合えないか  この問い方は よくなかったですね。いまさらですが。  舌足らずでした。  つまり 一般に 人間どうしが分かり合えるか? とか 他者を理解しうるか? といった主題にもなっていると今頃気がつきました。  そうではなくて これは 対話においてという前提があります。言いかえると むしろ意見や考え方が互いに――違っていても――理解できるか? というところから出発しようということでした。  でも考えようによっては けっきょくにおいて《人と人とが理解し合えるか》の問題になると言えばなる。もののようです。  さて そういう初めの意図からすれば  ★ ~~~~~   >《分かり合っていない一部分》を残しておいてよいのだと。  :あ、はい、そもそも  分かるか分からないかも分かりません。  なぜなら他人は自分ではないからです。  ・・・・  ~~~~~~~~  ☆ というのは すでに人間の全体についての相互理解を問うたときの答えであるようです。  つまり こういうことでしょう。   ○ 他者を理解したと思ったら それは 他者の内なるおのれの性格や考えのことだ。つまり 自己理解の範囲で他者について理解したに過ぎない。  といった命題をめぐる主題であるようです。  次の日頃の――または 対話の内容についてよりも対話を絶やさないというその姿勢としての――実践が重要だという点では 一致したようです。  ★ ~~~~~   >前もって日頃からコミュニケーションを図るということも大切  :あ、はい、ここが上のとはタテホコなんですが、  どれだけ(いつなら)押していいのか、  どれだけ(いつなら)聴いてもらえそうか、  どれだけ流していいのか、  どれだけ逃げていいのか、  押したり聴いたり流したりした結果、  どれだけお互いうまくいくのか、  というのが分かるためには、  日ごろから、  相手をそこそこ分かっている必要がありそうです。  ~~~~~~~  ちなみに タテホコという言い方は 初めてお目にかかりました。ホコタテとしては聞いたことがあります。  ★ ~~~~~~~~  だって「自分大好き人間」  ぢゃないと、  自分を大切にできないし、  自分を大切にできないと、  自分を磨こうとも思えないし、  自分の「意見(知識ではありません)」  を持つこともできないし、  それを発信することもできないし、  「他の自己」つまり  「他人」を大切に思い、  尊重することもできないし、  「他の自己」つまり  「他人」の「意見」を  聴くこともできません。  ~~~~~~~  ☆ これはですね。一部のブディストたちに聞かせたい命題ですね。  とかくいうことには 自我をなくそう 利己を捨て去って宇宙と一体になろうなんて言う主張をいまだに聞きます。そうぢゃあないってえの。  自己・自分・わたしに還り そこに立つこと。なぜなら すでにその自己は 清浄心(仏性)として成り立っていると想定されるから。  ついでで言ってしまいました。  ▲ ~~~~~  取るに足りない者であるのに  自分は相当な者である  と考える人がいるなら、  その人は自分の思いを  欺いているのです。  ~~~~~~~  ☆ これは 思うにですが 地位や身分やその権限や肩書きに〔も〕人はあたまを下げますから その《相当な者である》という中身を 混同しがちなんでしょうね。  クリスマスツリーは飾りのほうに目が行きますからね。  そして わたしたちも 秩序が保たれるという事由においては むしろ世間のナラワシにしたがってよいし したがうべきなんでしょう。  少し《分かり合う》ということについて 焦点がぼやけてしまったかも知れませんが もう少し質問はひらいています。

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