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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《永劫回帰》なる阿呆な考えについて)

永劫回帰についての批判とは?

NemurinekoNyaの回答

回答No.8

こんばんはです。 ☆☆☆☆☆☆ ディオニュオス⇔アポロンの対立路線から、「アポロンといえばプラトンだな」と思い、プラトンを調べてみたところ、ありました、ありました、ニーチェの永劫回帰説を読み解く思想が。古代ギリシアには「時間は円環である」という考え方あったようです。 天球の運動が時間であり、「時間は『一種の円』(kyklos tis)であるとまで考えていた。だからこそ彼らの間には、「人事の動きは円環をなしている」という「慣習的な言い方」も生まれたのである(Aristoteles, Physica 223b)。   斎藤忍随著 プラトン 岩波新書 さらに、Wikipediaの時間に関する項目の円観的時間観には、おもしろい記述がありました。 ────── 円環的時間観 [編集] 時間は円環状であり、同じ歴史が繰り返されるという考え。 ユダヤ教、古ゲルマンの宗教なども含めて、現在の宗教にまで広く見られる。 この円環的な時間はニーチェの永劫回帰思想にも見られる。「回帰の環(Ring)」と表現されている。 アンリ・ポワンカレにより証明されたポアンカレの回帰定理が、上記のニーチェの主張におけるような厳密な時間の繰り返しを示したと解釈する人もいる[38]。 ────── http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93 で、ポアンカレの回帰定理 ────── 回帰定理が孤立系の現象の厳密な繰り返しを示したと解釈する人もいる[6]。だがこの解釈には2つの意味での誤解がある。第一に、力学系は初期状態の近傍に戻るだけであり、初期状態そのものに戻るとは限らない。第二に、近傍に戻る時刻(時点)の分布は特別な場合を除けば不規則であり、一定の周期は持たない[4]。ポアンカレが示したように多体問題の解の軌道はカオスになることが多く、その場合は運動が周期的繰り返しにはならないのである。 ────── http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%81%AE%E5%9B%9E%E5%B8%B0%E5%AE%9A%E7%90%86 ニーチェがポアンカレの回帰定理を知っていたはずがなく、彼が古代ギリシアなどの文献学の研究者であったことなどから考えると、古代ギリシアの円環時間観がその源泉でしょうね。そう考えるのが自然だと思います。 ☆☆☆☆☆☆ さらに、斎藤忍随のプラトンには興味深い記述があったので、御紹介します。 ────── キリスト教を批判したニーチェは主張した。「キリスト教は世俗化したプラトニズムである』。ニーチェから見ると超越的な神の国と、地上の国もしくは現実の世界とを二つの世界として対立させた上で神の支配を認めるキリスト教は、つまりは世俗向き、民衆向きのやさしくしたプラトニズムになるのだが、そのキリスト教を彼は攻撃するのであるのだから、攻撃の矛先はもとのプラトニズムに当然波及する。 現実の世界はいつも不完全である。そこで、その中に生き、その中に存在する苦しみに耐えかねて、この世界の彼岸に、あるいはこの世界の背後に、完全な世界を夢見る妄想に憑かれた人間が出てきた。「背後世界」(Hinterwelt)を夢見る「背後世界的人間」(Hinterwelter)は、その世界の妄想に悦楽をおぼえ、それを実在化し、現実の世界を逆に非実在化したのである(Nietzsche, also sprach Zarathustra, Von den Winderhilt)。 キリスト教を、従ってプラトニズムをこのように解釈したニーチェは、当然のことながら「プラトニズムの逆転」の必要を強調して、意欲する生身の人間、その人間の立つ「大地」の意味の回復を叫び、プラトンの世界にも弱い人間、あるいは人間としての自覚や意識の希薄な人間が案出した「ヒンターウェルト」の烙印を押して退けた。 ────── だとすると、「ツァラトゥストラはこう語った」は、プラトンが書いた《ソクラテスの対話篇》へのの挑戦状であり、またそのパロディーということになるんですかね。 そして、アポロン・プラトンvsディオニュソス・ニーチェの対立の構図が浮かんでくのではと(笑い)。 また、ニーチェの《神の死亡宣言》は、アポロン=ロゴス的な神に対して下したものであると考えることも可能なのかもしれません。つまり、ニーチェは無神論者ではなく、ディオニュソスなる神を信じていた。ディオニュソスの象徴はブドウの蔦であり、ブドウの蔦は生命の象徴であって、ディオニュソスは生命そのもの。大地・ガイアと呼んでもいい。また、ディオニュソスは混沌・カオスと言うよりも、《狂気》の神。ディオニュソス自身、ヘラーによって狂わされた経験があるうえ、彼に従う女性たちは狂乱女・マイナディス。ニーチェは、この狂気に人間の生の衝動、強い生への意志を見出した。。。なんてね。 単なる思いつきで~す。学問的、資料的な裏付けはまったくありません。 これはどうでもいいことなのですけれども、 ローマ帝国内での初期キリスト教では、イエスの姿は、ディオニュソスの姿で表現されたらしいですね。母親がどちらも人間の女であり、死と再生(復活)を司るからなんですかね。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  でもアポローンも その出自は あの明晰なるギリシャにとって異邦人であった。母親のレート-は アナトリヤ出身。双子の姉のアルテミスは エジプトかどこかの出。アポローンは 生まれた間もなく 琥珀の道を北へ向かったとも言います。凍河エーリダノスの北の国へ。そのあと 苦労して デルポイの神殿を奪い取った(?)ような。 ~~~~~~ アポロンの出自については不明なことが多すぎますが、アルテミスは間違いなくバビロニアの地母神であるイシュタルですね。あるいは、カナンの女神でバールの妹(or姉)のアナト。アナトは、処女神(?)で残虐な殺戮者の一面も持つので、アルテミスにピッタリと符合します。もっとも、アナトはイシュタルのカナン地域の呼び名なので、イシュタルですわね~。 アルテミス、森や産婆さんの女神だけではなく、娼婦の女神でもあるんですよ。これなんかは、古代中近東で広く見られる《聖婚儀式》や《神聖娼婦》の名残りなんじゃないですかね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 円環的時間  ☆ これは 次の条件を満たしません。  ○ (永劫回帰の内容)~~~  ▲(あ) (ヰキぺ) 同じものの永劫回帰(Ewige Wiederkunft des Gleichen)  ▲(い) 経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。  ~~~~~~~~~~  ● (ニーチェのクリスチアニズム観)~~~~  ニーチェから見ると超越的な神の国と、地上の国もしくは現実の世界とを二つの世界として対立させた上で神の支配を認めるキリスト教は、つまりは世俗向き、民衆向きのやさしくしたプラトニズムになるのだが  ~~~~~~~~~~  ☆ こんなあほらしい解釈は 成り立ちません。《神の国と地上の国とは――前者が絶対であるからには――互いに隔たっていますが しかも神の国=すなわち《非経験の場》が 経験世界を覆い包むことにより 互いに――むしろ激しく――からみ合い入り組んでいる》という見方が提出されています。  ◆ (神の国と地上の国) ~~~~~~~~  世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 〔それとして〕自律している。ただ 神の国の市民(キリスト者)にとっては まさに この世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。  〔これは〕人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 〔わたしたちが巡礼の旅路を行くその〕世界( saeculum )というものを    《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国   ( Civitas Terrena )とのあいだの 非武装中立地帯( no man's    land )として》  見るのではなく    《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難   く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見   通しえた時のみであるという そのような現実の中に 位置する或る   時間帯( temporal life )として》  見るというかれの理解から 発しているものである。  ・Robert A. MARKUS: 《 Saeculum :History and Society in the Theology of St Augustine 》1989;  宮谷宣史・土井健司訳『アウグスティヌス神学における歴史と社会』  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いわば無住処涅槃です。  ★ ディオニュソスなる神  ☆ これは 人間の性格か何かを神格化したに過ぎないと見ます。つまりは 狂喜乱舞するというのかどうか知りませんがそのような経験事象を《非経験の場》である神の分身に見立てた。だけのことだと見ます。

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