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「永劫回帰」について教えてください

【永劫回帰】ニーチェの根本思想。あらゆる存在は意味も目標もなく,永劫に繰り返されるが,この円環運動をあえて生きる決意をする者は生の絶対的肯定に転じることになる。永遠回帰。 と辞書にあります。 「円環運動をあえて生きる決意をする者は生の絶対的肯定に転じることになる。」 とはどういう思想なのでしょうか? 円環運動=人生ということはわかりますが、「生の絶対的肯定に転じることになる」ということはどういうことを示し、またそれがなぜ「あえて生きる決意をする者」が前提になるのかがわかりません。「あえて」と強調されているところにポイントがあるように思うのですが…。 「永劫回帰」については心理学のある概念と関連があり、今非常に気になっておりますが、当方哲学はもとよりニーチェの思想については学問的に無知ですので、より具体的、より入門的にわかりやすく伝えてください。

  • frau
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みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9667/12015)
回答No.4

「補足コメント」をありがとうございました。 >引用の数でたくさん学ばれていることがわかります。 ⇒質問者さまこそ、深く思索なさっておられるという印象を受けました。 以下、新たに提示なさった疑問について私なりに考えてみました。 >輪廻転生や死を否定しているのですから、現世に生きることは一度きりであり、そこで『享受し、愛し、楽しむ。』ことは享楽主義に陥ることですよね。 >「あえて生きる決意をする者」が前提 にはならないと思うのですが… ⇒確かに似たところはありますね。 しかし、永劫回帰には、「あらゆる存在は意味も目標もなく,永劫に繰り返される」というような「人生の空しさ」に正面から対峙する姿勢があるように思います。享楽主義、またはキュレニスムやディレッタンティズムのように、諦念や惰性を抱くのでなく、その空しさを正面から受け止め、苦悩し、格闘するところが、「あえて生きる決意をする」意気込みの表われではないでしょうか。ニーチェのペシミズムやニヒリズムも、この哲学的スタンスというか心的態度に(少なくともその一部は)起因するのかも知れません。 一般に、何らかの空しさを受け止めて、これを苦悩し、これと格闘する者は、内面にある種の「生きる決意」を秘めているように思われます。「青年であってペシミストでないことは不可能であるといってよい。そもそも、充実した人生は深い悩みなしにはありえない」というのを聞いたことがあります。 ニーチェ自身も、“どれほど深く悩み得るかということが、ほとんど人間の位階を決定する”(善悪の彼岸)、と言っています。人生を空と見て「無を悟る」のが仏教思想なら、人生に空を感じて、これを受け止めた上で、これに抗い、探求するのが永劫回帰の思想である、というような関係を見ることもできそうな気がします。 さらにつけ加えれば、このような苦悩を乗り越えたところに、真の「現実を肯定してこれを享受し、愛し、楽しむ」境地が生まれるのではないでしょうか。ニーチェの『たのしい知識』では、“《人生は認識の一手段だ》―この原則を心に持てば、ひとはたのしく生き、そして、たのしく笑うことができる”と言っています。“人間は、遊戯する場合にのみ完全に人間である”(シラー)そうですし、“人間は「ホモ・ルーデンス」(遊戯人)であるときにこそ、もっとも人間らしい”、などとも言われます。 >ジンメルの「個々の瞬間の君の行為がことごとく永劫に回帰するかのように行為せよ」。これは、「今に生きよ」ということですかね? ⇒まさにそのとおりだと思います。 「一瞬が永遠なのだ」(ピコ・デラ・ミランドール)、「一日を一生涯として生きる」(中山ミキ)、「白露も夢もこの世もまぼろしもたとへて言えば久かりけり」(和泉式部)、「昨日はまだない、明日はまだない、しかし、今日は確実に君のものだ」(アラビアの諺)…。 これらはすべて、「今に生きよ」の類似的発想ですね。そしてまた、ニーチェの永劫回帰とも共通する認識・願い・意志である、と言えるのではないでしょうか。 >「正反合」(止揚)を繰り返して上昇(人としてのバージョンアップ)をめざすのですから、それは人生の修練です。 >「回帰」つまり「反復」ですから同じ行為を「永劫に」回帰させるということは進歩ではないということになります。 ⇒確かに、「永劫回帰」と「進歩」とは、一見矛盾しているように見えますね。 こう考えたらいかがでしょう。「形式的に永劫回帰」することで、「内実が進歩」する、と。つまり、スパイラルを描いて、元に戻ったときには、既存の内実が「止揚」されて、「人としてバージョンアップ」する、というわけです。 ニーチェ特有のニヒリズムを考える際、問題の重点は、「現代の頽落を上昇に転換する基本的原理」を模索することである、といわれるのを聞いたことがあります。 またまた、(質問者さまの表現を含め)引用が多くなりましたが、どうぞ悪しからず。 以上、再伸まで。

回答No.3

君の言うこれ > 「人の魂の永続性」 まあいい線だ。 私の研究していることと照らし合わせると、絶対という言葉に時間概念を加味して永遠という言葉を理解しようとした痕跡であろう。 そういう視点からの個人的研究の手前味噌が下記だ。 絶対とは不変の性質がありますか http://okwave.jp/qa/q9178449.html これはまあ私なりに東洋から西洋を見た感想だが、このような脆弱性がありうる西洋の絶対の概念に哲学的に挑戦した痕跡が永劫回帰であろう。 永遠という結論に挑戦する過程だ。 輪廻信仰の風土で生きた釈迦は永遠を無常という絶望的響きのある言葉で表現していて東洋が有利ではないね。 万物流転を無常と解釈にしたら自然科学的だったりとかあるね。わかりやすくなるけれど。 哲学というのはブチキレて訳の分かんないことをまくしたてるくらいがちょうどよくてね。 ニーチェはその点で挑戦的な取り組みがほほえましい。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9667/12015)
回答No.2

以下のとおりお答えします。(多分に主観的ですが、どうぞ悪しからず。) A.謎多き名言(?) 確かに、分かりにくいですね。『哲学事典』(平凡社、第9版、昭和53年)によると、“(永劫回帰は)一見、超人思想、権力意志説と矛盾するようにみえるので、この解釈には諸説がある”そうです(p.150)。また、秋山英夫著『思想するニーチェ』(人文書院、昭和50年)には、“ニーチェの非合理主義は「永劫回帰」においてその頂点に達する。「およそ、ものを考えるほどの人なら、それ(永劫回帰)が間違っていることは、今日もはや誰も疑ってはいない」と、ホルトゥーゼンが率直にぶちまけているように、それは矛盾そのものの教説であり、ディレンマの産物である。”と述べられています。ということは、「永劫回帰」とは何かについて定見はないということであり、まして評価が定まっているわけではない、と言えるでしょう。 B.私の個人的な解釈で回答を試みます。 >「生の絶対的肯定に転じることになる」ということはどういうこと ⇒ただ息をするだけでも、生きてはいますが、「生の肯定」にはならない、ということでしょうか。「生の絶対的肯定」とは、例えば、 (1)死後の世界、あの世があるなどと考えずに「この世」を積極的に生きる。 (2)「現実」を肯定してこれを享受し、愛し、楽しむ。 (3)自然や美に憧憬を抱き、「芸術する」。 などが考えられます。 >なぜ「あえて生きる決意をする者」が前提になるのか ⇒「物理的存在」から「精神的存在」になるためではないでしょうか。 (1)ただ存在するのでなく、「哲学する生」を生きる。 (2)自己存在の意味を模索し、自分なりに生きる上での目標を設定する。 (3)つねに今の自分を脱皮(メタモルフォーゼ)し、高みを望み、より上級の審理を求める。 少なくとも、こういうことを意識化することが必要、ということでしょう。 C.「永劫回帰」の意味(→ニーチェの提言、または教訓と考えられること) (1)ひと皮むけるごとに、あるいは、「正反合」を繰り返すごとに、自己の新しい生に回帰する。→つねに上昇志向せよ。 (2)上掲『哲学事典』の同じページに、“ジンメルは「個々の瞬間の君の行為がことごとく永劫に回帰するかのように行為せよ」いう倫理的規制原理としての意義を与え”ている。→そういう倫理観を持て。 (3)上掲『思想するニーチェ』で、“これ(永劫回帰)は、一回かぎりの人生であるという自明のことを逆説的に言っただけであり、簡単にいえば「この人生―それが君の永遠なのだ!」ということであり、ツァラトゥストラ的にいえば、「これが人生だったのか? よし! もう一度!」ということなのである”(p.190)。→「来世がある、今度生まれてくるときはもっと幸せになれる…」などは、「生きていない」者の、泣き言にも近い慰めに過ぎない。 結論:「永劫回帰」というとき、それがパラドックスであるにしろないにしろ、ニーチェは徹底的な現実肯定主義で、その中で人間として自分の生を生きよと言っている、と解釈できます。「人間は人間に生まれるのではない、人間になるのだ。今、この瞬間を生きよ。夢でなく現実を生きよ。そして、人間になれ。」と言っている、と私は考えました。

frau
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 引用の数でたくさん学ばれていることがわかります。ですが、ご回答者さまの解説のほうがわかりやすいです(^^♪ Aの方では「超人思想」や「権力意志説」「非合理主義」がわからない限り読み進められません(;^_^A 「生の絶対的肯定」について考えました。 輪廻転生や死を否定しているのですから、現世に生きることは一度きりであり、そこで『享受し、愛し、楽しむ。』ことは享楽主義に陥ることですよね。としたら >「あえて生きる決意をする者」が前提 にはならないと思うのですが… 「正反合」(止揚)を繰り返して上昇(人としてのバージョンアップ)をめざすのですから、それは人生の修練です。 ジンメルの「個々の瞬間の君の行為がことごとく永劫に回帰するかのように行為せよ」。これは、「今に生きよ」ということですかね?(読み進めていきましたらニーチェが「今、この瞬間を生きよ。」と言われてますからたぶん合ってますね) 「回帰」つまり「反復」ですから同じ行為を「永劫に」回帰させるということは進歩ではないということになります。 蛇足ですが 「人間は人間に生まれるのではない、人間になるのだ。」 とあったのを見て少し驚きました。 「女は女に生まれるのではない、女になるのだ。」というヴォーヴォワールの名言はここからきているのですか?

回答No.1

もともとの輪廻転生という宗教観を西洋的合理性で分析したものともいえ、関連に関して資料が残っていなくても、似たような考え方だ。 神について考えるのが西洋の哲学で、 自己について考えるのが東洋の哲学だ。 ニーチェは東洋的なんだろう。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 東洋の輪廻転生の考え方をニーチェも受け入れているということなのですね。 それが神のなせる業と考えるのが西洋、自己に帰結するというのが東洋思想という宗教的な障壁となるものがありますが、輪廻転生という共通項を思想の素材とするということは、やはりそれが真実であるものとして考えるに値するということなのでしょう。つまり「人の魂の永続性」ということについては、宗教や人種問わず普遍的なテーマということだと思います。

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