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【哲学思想・構造主義】今の主流は何主義ですか?

【哲学思想・構造主義】今の主流は何主義ですか? 古代ギリシャのプラトン(イデア)→ニーチェ(ニヒリズム=虚無主義)→サルトル(実存主義)→構造主義→? 今は構造主義の時代? もう構造主義は古い? 構造主義ってどういう思想なのか簡単に分かりやすく教えてください。 今の主流主流思想も教えてください。 どういう思想の流れですか? 思想の歴史の流れも簡単に分かりやすく教えてください。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

”構造主義ってどういう思想なのか簡単に分かりやすく教えてください。”      ↑ 人間は自分の自由な意思でこの社会を築いている と思っているが、それは間違いだ。 人間社会というのは、構造的に決まっているのだ という思想です。 だから、欧州でも未開の原住民でも、その社会の 基本的構造は同じである、という考えです。 ”もう構造主義は古い?”    ↑ 古いかどうかは解りませんが、これでは哲学から 人間が消えてしまう、かつての、全知全能の神が 総てを決めている、という時代に逆戻りしてしまう、 とする批判があり ポスト構造主義が提唱されています。 ”今の主流主流思想も教えてください。”     ↑ これも又難しい問題ですね。 私見になりますが、構造主義が現れて、科学との 境が曖昧になり、哲学の存在意義が薄れてきた、 と思っています。 社会を総合的に研究しようとする学問に、哲学 は吸収されるのではないでしょうか。 事実、ノーベル経済学賞は、経済学というよりも 総合社会学に対して与えられる賞になりつつ あります。 ”思想の歴史の流れも簡単に分かりやすく教えてください。”      ↑ ソクラテスが無実の罪で死刑になったのを目にした プラトンは、人は間違えることを実感しました。 そして、真理を発見すれば間違えなくなるだろう ということで、真理発見の為の哲学をやり出します。 このギリシア哲学は、その後キリスト教と融合して 神が創造した真理の発見が哲学だ、という流れになります。 時代が経つと、小利口になった人間は神から距離を置く ようになります。 こうして実存主義に到ります。 神は死んだのだから、人間は神に頼らず、自分の 意思で主体的に生きねばならぬ。 しかし、科学が進歩し、人間は主体的に生きているつもり だが、本当は決められた道を歩いているだけではないのか、 という疑問が提唱され、構造主義が登場し、 さらに、哲学すること、そのこと自体を問題にする 哲学になります。 フッサールの現象学や、言語哲学などはその代表です。 更に、フーコーのように、真理の探究を哲学の外に 求める人も出て来ました。 これに対して、アメリカンプラグマティズムは、 真理など何の役に立つ、悪い人間が真人間になる、 そうした現実にこそ価値があるのだ、と主張する ようになっています。 将来ですが、真理探究は科学に侵略されつつあります ので、今後は人生の指針として、東洋哲学と融合 の方向に向かうのでは、と考えています。

sonicmaster
質問者

お礼

みなさん回答ありがとうございます

その他の回答 (4)

noname#260418
noname#260418
回答No.5

哲学はいつだって崇高なんだ。

回答No.4

日々の暮しに追われて、今や誰も思想や哲学の事を考えない。 あえて言うなら「拝金主義」。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

構造主義は、ソシュール言語学、そのラングの言語学と、ヤコブソン・トルベッコイの構造音韻論に基づきます。 ソシュールは、それまでの歴史言語学、つまり各国の音韻の歴史的変遷を研究する言語学から、各国の言語体系を横断する一般的構造を研究する「ラング」の言語学を唱え、言語学に革命を起こしたと言われます。 私たちは言語というと、物があって、それに一つ一つ名前を付けてゆき、そうした言葉を集めたものと考えていますが、それをソシュールは否定したのです。 言語は音声と概念の組み合わせからなります。 それをソシュールは音声を「シニフィアン」、概念を「シニフィエ」と言っています。 そして「シニフィアン」はそれ単独で体系をなしており、また「シニフィエ」も同じように独立の体系をなしていると言います。 音声・音韻「シニフィアン」は他の音声・音韻との「差異」から成り立っています。 同じように概念「シニフィエ」も他の概念との「差異」から成り立っています。 たまたま一つの音声と一つの概念が「擦り合わされ」て、たとえば音声「ネコ」と概念「猫」が結び付けられて、言葉というものが出来上がりますが、別に音声「ネコ」を概念「猫」に結びつける必然性はありません、それを「タコ」と言ってもいいし、「サル」と言ってもいい。 たまたま恣意的に「ネコ」と「猫」を結びつけたのに過ぎない。 でも、最初はたまたま偶然結びつけたものでも、反復して習慣になると必然的に見えてくる。そうして私たちは「猫」を見て、それを「ネコ」と呼んでいます。 つまり、猫がいて、それを「ネコ」と名付けて、呼んだものではないということです。 極論すると、音声「ヤマ」が先行して、その結果として概念「ヤマ」がある、ということ。 ソシュールは言います、「シニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的である」と。 さらに、「言語はネガティヴの差異の体系である」「語と語との間には示差的な価値しかない」と。 この場合の「ネガティヴ」という意味は私たちは「差異」を意識できない、それは無意識だということです。 構造も、それと同じで、意識できないし、目に見えないし、だげど私たちはその構造に基づき、言葉をしゃべっています。 その体系をなしている「シニフィアン」を、のちにヤコブソンは「構造」と言いました。 言語は「音素の二項対立からなる体系である」と。 言語の根底にあるものが音素、その音素は二項対立からなっていて、その組み合わせから言語は出来上がっているという。 つまり、対象は何ら関係ないので、山があって、それを「ヤマ」と呼ぶのではないのです。 このように構造というのは言語によって成り立っていますので、当然、言語が無くなれば、構造も消滅します。 その点、マルクス主義のいう社会構造とは異なります。 また、建築などで使う構造とも違います。 そのヤコブソンの構造音韻論を、のちにヤコブソンの亡命先のニューヨークで講演を聞いたレヴィー・ストロースがそれを人類学に適用して「構造人類学」を唱えたことから、構造主義が始まりました。 それまで近代哲学は人間には自我があり、主体があり、それによって主体的に世界を作り上げているのだと言いましたが、それを構造主義は否定したのです。 なぜって、音素と音素の二項対立は、自我とか主体の根底にあって、むしろ自我とか主体を作り上げているものだからです。 構造主義は歴史を否定しました。 そもそもソシュールの言語学は言語を歴史から、時間から研究する歴史言語学を否定して、言語を空間から、その一般構造を研究する「ラング」の言語学を唱えたものですから、歴史を否定するのは当然です。 言語は私たちが普段しゃべっている言葉「パロール」とその空間構造「ラング」からなります。だから「パロール」は各国によって違います。 日本語もあれば、フランス語・ドイツ語もあります。 でも、それが指し示す概念には共通性があります。 中には、その概念といえども、「シニフィエ」の差異をどのように「切り分ける」かによって、同じ虹でも、国によって7色というところもあり、2色というところもありますが、でもそれは例外、たいてい概念は共通しています。 だからこそ、外国文学を日本語に翻訳できるのです。 でも、その構造主義の主張に疑問を持つ人が現れるようになりました。 歴史の見直しです。 フーコーは「言葉と物」という本で、言説の秩序、あるいは「考古学」と言ってます。 たしかにソシュールのいうように言語は体系をなしているけれど、その起源は歴史的であり、歴史的に変遷する、という。 人と人との関係、そしてその人の生きている社会をどのように考えるかには一定の秩序がある。それを構造と呼んでもいいけれども、むしろその決定要素は歴史の方にある、と。 こうして60~70年代になると構造主義の歴史否定は、それに続く哲学者などから批判を受けるようになり、「パロール」の見直しが唱えられるようになっていった、ということです。

  • koosaka
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回答No.1

今の時代の流行思想を追いかけて、いったいどうするんですか? そうやって日本人は西欧思想を追いかけて、十分消化しないうちに、次の流行を追い、結局何も身に付かない。 むかし、サルトルが流行ったときは大学のキャンパスに行くと、女子学生が、「ねえ、ねえ、サルトル読んだ? まだ読んでいないの、時代に取り残されるわよ」といって、周りの女子学生を上から目線で睥睨し、まるでファッションの話をしているようでした。 吉本隆明の「共同幻想論」が流行ったときは誰もが、これ見よがしにその本をぶら下げて、みんなに見せびらかし、いかにも自分は時代の最先端を行っていることを誇示したものでした。 だから、明治以来、日本に本当の哲学者と言ったら、戦前の京都学派の西田幾多郎と田辺元、出隆、和辻哲郎、九鬼周造、波多野精一、三木清くらいで、戦後に哲学者と言えるのはせいぜい大森荘蔵くらい。あとは誰もいない。 哲学の研究者・解説者はごまんといるが、哲学者なんていない。 そうやってみんな西欧の思想を追いかけて、消化するのが精いっぱい。 もうそういうことは私はやめました。 自分の頭で考えて、同じようなことを考えている哲学者がいたら、一応参考にする、でも基本は哲学というのは自分でやるもので、他人から教わるものではない。 まず、哲学の古典を徹底的にやる、少なくとも10年間はそれに没頭する、そしてその哲学者と対話を重ねる。 それ以外に哲学をやる方法はありません。 本を読むことは、あくまで参考です。 基本は自分で考えること。 もっとも、そんなことを言うと、いったい何を考えたらいいか、わかりませーん、という声が聞こえてきそうだけど。 いったい、思想や哲学って、あなたにとってファッションなんですか? 最新流行の哲学・思想を知らないと時代に取り残されるような焦りを感じるんですか? 私は周りに誰もいないから、人に自慢するために哲学をしようとしても、できません。 誰も聞いてくれる人なんていないのだから。 私は自分が若いときに体験した謎の解明を求めて、何十年も、同じ穴を掘り続けています。 飽きることはありません。 どういう体験かというと、たしか18歳の時ですが、ある哲学者の本を読んでいて、駅のホームに降りた時、突然、目の前が真っ白になり、閃光がピカッと眩しいくらいにキラメキ、世界がそれまでとはまったく一変しました。 世界がこれまで見たこともない見知らぬ世界に映じました。 ここは、いったいどこだ!と。そしてこの世界をのぞきこんでいるのは誰だ!と。 これが私の哲学の原点、原体験です。 その謎を解明するために、何十年という歳月を費やしましたが、依然として回答が得られません。 古代ギリシャから、「なぜ、あるのではなく、無いのではないのか?」という問題が問われてきましたが、私の体験した謎はそれとよく似ています。 私は今でも、家の窓から外の景色を眺めるときに、世界はなぜ存在しているのか、という驚きに襲われます。 そして同時に、その景色を眺めている、何ものかがいることを感じ、それが誰だか分からなくて、自問自答します。 私の眼の裏に何ものかがいて、それが目を通して外の世界を眺めているけど、その眺めている奴は誰なのか?と。 たいていの人はそれを「私」というけれど、私って誰? 私なんて存在しないのではないか? つまり、何ものか無名のものが外を見ている、それではないか? そして外の世界を眺めているというが、外の世界なんて存在しないのではないか? たいていの人は世界が存在するという。 でも、私はそうは思えない。夢を見ているのではないか、と思う。 「世界はカラクリ人形である」ということを言った人がいます。 誰かが、私をこの世界が存在すると思わせているのではないか,そして実際は世界なんて存在しないのかもしれない。 そういうことを私は四六時中考えています。 時代の流行思想なんて関係ありません。 そんなことを問題にしている哲学者はほとんどいません。 だけど、この問題を解決しないと死ぬに死ねません。 それを私は「場所論」と言っています。 私たちの住んでいる世界はいったいどういう場所なのか? という意味です。 そのために、私はアリストテレスの場所論を読みます。 また、ベルグソンに「アリストテレスの場所論」という論文があります。 最近、日本の西田幾多郎の「無の場所」というのに興味を持っています。 西田は、この私たちの住んでいる世界は「無の場所」だという。 つまり中心がない、中心は空白、空っぽ。 ああ、私と同じことを考えている哲学者がいたんだなあ、びっくりだ、うれしい! そういうことを考えていたら、流行思想なんてどうでもいいです。

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