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哲学は「克服」されるのか?

私は大学の哲学科で主に実存主義哲学を勉強しているのですが、以前ポストモダンを中心に勉強している友人に、「実存主義って構造主義によって克服されたんじゃないの? そんなの勉強してどうなるの? というか近代以前の哲学って結局全部言葉遊びでしょ?」と言われました。 そのときは、「理性でもって行動する主体性を持った『人間』が構造主義によって解体されたとしても、人格を持った責任主体としての人間は依然残るのだから、キルケゴールやサルトルを勉強することが全くの無意味になった訳ではない云々」といったような教科書的な返答をしたのですが、自分でも少し心もとない返し方だったなぁと思います。 そこでみなさんに質問です。 1、そもそも哲学は歴史の中で「克服」されるものなのか? 2、それを踏まえた上で、実存主義だけでなく、プラトンやカントなども含めた古典を「現代」において勉強する意義はあるのか? また、あるとしたらどのような形でしょうか? よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Partre
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回答No.1

まず、克服されるという考え方がよくわかりません。 例えばバークリ、今ではバークリ流の観念論などと言うと 悪口以外のなにものでもありませんが、 だから「バークリは批判された。まったく古び去った」と いうのは果たして正当かというと、私にはそうは思えません。 というのも、偉大な哲学者がなぜ偉大かというと、 問いに対して答えを提出したからではなく、 今まで問われる必要がないと思われていたところに 問いを発見したということ、そしてそれを徹底した議論で 推し進めたということにあると思うからです。 なるほどバークリの結論は、今のわれわれにとって 素直に受け入れるのは難しい。 しかしバークリが偉大なのは存在するとはいかなることかについて ひとつの問いを提出したからです。 われわれはもはや存在について議論する時、バークリを参照し、 彼のどこがなぜ間違っていたかを常に検討せざるをえない。、 その意味で彼は、常に乗り越えるべき問いを提出したという点で 乗り越え不可能な一地平となったと言ってよい。 そして哲学というのは、誤解を招きかねない表現になりますが、 永遠の問いを問い続ける学問ではないかと思っています。 私はサルトルから哲学に入ったのでとくにそう思うのですが、 仮に科学によって世界のあらゆる問いが解決されたとしても、 私の実存、すなわち私が偶然にも世界の中に遺棄されており、 自由に自分を創っていけなければならないという事実は残る。 哲学はそういった永遠の問いにかかわる。 そして古典は永遠の問いに対決した書であるとすれば、 なぜ現代だから読まなくてもよいことになるのか。 だから、われわれは古典を読まなければならない。 われわれの問いの原点に戻るという意味での古典であると思います。 そもそも哲学に対して克服するという語を使用するのは いわゆるカテゴリーミステイクに近いのではないかと思います。 哲学とは克服したりされたりするようなものではない。 さらにいえば、古典を言葉遊びというような人は、 果たしてどの程度古典を読んだのか疑問です。 私も古典に関しては読んだといえるほどの蓄積はないのですが、 それでもその精緻な議論、言葉に対する徹底性には本当に驚きますし、 自分の対決する問題に対してできる限り明晰に語ろうという意思を感じます。 そして古典のなかには現代に通じる問題設定がある、これも確かです。 実際のところ、どこがどう言葉遊びなのか、言葉遊びということで 厳密に何を言いたいのかはっきりさせてみればよいと思います。 私には克服だとか言葉遊びという事を軽率にも言ってのけること以上の 言葉遊びはないようにも感じられます。 私は最高学府で体系的に哲学を学んだことがなく、 趣味で細々とやっているだけですので、自分の哲学観が専門的に 哲学を学んでいる人にどのように映るかわかりませんが、 私なりに回答すると以上のようになります。

indias
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます。 >永遠の問いに問い続ける学問 そうですよねぇ、そこなんですよね。 >仮に科学によって世界のあらゆる問いが解決されたとしても、 私の実存、すなわち私が偶然にも世界の中に遺棄されており、 自由に自分を創っていけなければならないという事実は残る。 私も非常によくわかります。 結局そういう考えを「実感」としてどこまで持てるかが ポイントなのかも知れません。 古典に関しては非常に納得です!

その他の回答 (5)

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.6

ポストモダンを中心に勉強しているご友人、思想をファッションや流行のように追いかけて、「古い価値観は壊された、そんなものに価値はない」とでもおっしゃりたいのでしょうか。 ポストモダンがたとえ現在の最先端であるとしても、将来的にはやはり(彼の言うところの)克服されることになるでしょう。将来壊れることになる思想を学んでいる人が、流行病・進歩病に陥っていることに気付かないでいるさまは、気の毒です。 まさしく、「克服」という表現自体が、言葉遊びなのであって、自分の言っていることを除外して他者を批判するのはいただけない。 思想史を進歩的に捉えるのはそれこそヘーゲルあたりがはじめたと思うのですが、ご友人はその轍を無批判に踏んでいるじゃないですか。ヘーゲルに裾をつかまえられているわけです。それで最先端気取り。はたから見て滑稽に見えますけどね。 ということで、1は否です。 実存主義はindiasさんほど詳しくありませんし、構造主義もそこまで学んでいるわけではありませんが、その教科書的な返答には、やはり問題があったかもしれません。 「人格を持った責任主体としての人間」というのは、社会の枠組みの中で責任を負わせられ主体にさせられている人間、という観点からすると、決して人間に備わる純粋なものとは言えないのではないかな、と思います。 ポストモダンって主体が不在で責任の所在も確定しないような感覚の中にありますから、その返答でご友人が納得するかどうか・・・ 2は、意義はあるかと言われれば、ないとも言えるし、これがそうだと思えばあることになってしまう。「無にして無限」という回答しかできない質問ですね。あるとしたらどのような形か、と言われても、変幻自在になると思います。

indias
質問者

お礼

結局のところ私の質問は、 「近代以前の哲学を否定するポストモダンかぶれにいかに対応するか?」 ということかも知れません。 ヘーゲルの二の足を踏んでいるというのは、正しくそうですね。 ポストモダンが必死になって攻撃したのがヘーゲルなのに、これは本当に滑稽と言うしかありません。 「人格を持った責任主体としての人間」というのは、nabayoshさんが指摘する通り「社会や他者に呼応して」というのが付きまして、私としてはレヴィナスのような考えが頭にありました。 ご回答ありがとうございました。

  • Directio
  • ベストアンサー率13% (8/58)
回答No.5

1、逆に克服されたといえる根拠を聞きたいですね。 2、プラトンやカントを知らなくても哲学はできるとは思います。しかしそこに「学問的に」という前提がつけば話は別です。古典を理解していないことは致命傷になります。  質問者さんはキルケゴールやサルトルの名を挙げているので倫理に関心があるのだと思いますが、例えば近代以降現れたロールズの正義論もハーバーマスの討議倫理も土台は近代以前のカント倫理です。  ちなみに分析哲学者のパトナムは数学的にはプラトン主義であり、哲学的にはカントの立場に近いことを自認しています。(一見より近代的?な)分析哲学者の中にもプラトン主義者やカント主義者は沢山いますよ。   

indias
質問者

お礼

「○○の現代バージョン」というのはよくありますよね。 「元ネタ」を理解しているかいないのでかは碓かに大きな違いがあります。 ご回答ありがとうございました。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.4

その「克服」なるコトバを御友人がネガティブな気分を込めて発言なさったのだとしたらポストモダンをお勉強なさってるというお立場の割に些か軽率でいらっしゃるかなぁという感じしますけれど。。。 実存主義と構造主義。私よく知りませんけど切り口の問題でもあるんでしょうか?? A女はB男が好き~。何故か。 この国の女性一般には男性に対して、このようであるが望ましいというカクカクシカジカの歴史的変遷を経てきた基本的社会通念が存し、A女が所属するカクカクシカジカの社会的階層の視点においてB男には、その望ましい条件がカクカクシカジカ幾つか備わっていると見做され、またA女の生育歴から鑑みて精神分析的観点からも云々。 A女:「だって彼アタマいいでしょアタシと違って一流大学出てイイ会社に勤めてるしぃカオもまーまー許せるしぃアタシってアタマ悪いから大学もアホ大だし仕事ツマンナイからさぁ、なるべく早く辞めちゃってさケッコンしたいの結婚!うちのオトウサン安月給でママはいつも文句言ってたしアタシずぇったいビンボー厭なのっ!なんたって経済力のある人がいいんだもん!ま、容姿の点はアタシも威張れたもんじゃないって分かってるからぁその点は、ある程度、妥協しなくっちゃネ云々。 歯が痛い男:「うあーイタイイタイ痛い。きのう彼女にフられて帰りに喫茶店でヤケ食いした特大パフェのせいだな。いや、帰ってからまた板チョコ全部、寝しなに食っちまったうえ歯を磨かないで、そのまま寝ちゃったせいか。あぁあクソ、ハート以上に歯が痛むわ。ダブルショック。歯医者だ歯医者、会社休んじゃうもんね」 歯医者:ああ~こりゃヒドイですよ~甘いもの食べて痛くなった?そりゃそうでしょう歯髄が侵されちゃってますよ~。普段から歯磨きはキチンとしてくださいね~磨きかた大事ですよプラークを確実に除去するためにはですね云々。 ずいぶん変な例えを挙げてしまったかもしれませんが御質問を拝見して、このような情景が思い浮かびました。。。 1も2も一緒くたに答えさせていただきます。 ここでは「克服」という単語に何らの感情的なイメージをまとわせないという立場をとりまして 歴史上「克服」されてきたものは哲学に限りませんし、哲学も、また「克服」の歴史を免れることはなかったということでしょう。ただ、これも哲学に限ったことではありませんけれど、出発点は常に同じ源からであるということは確かだと思います。 その親を、はるか凌ぐ優秀な子、強運の子であっても、子は親無しに生まれませんもの。その意味でも、決して子は親を越えられないという言われかたがあります。親があって子、現代は古典があって現代です。 私は大学に御縁がありませんでしたので詳しくは知りませんが大学の哲学科では主に哲学史を中心にやると伺ったことがあります。だからタイクツなんだよ、という意見もあるそうですけど、哲学史を学ぶメリットとしては、まず、これまでの人類史上で、どのような思考方法や思想が編みだされてきているかということを一覧することができますね。そこで、自分ひとり考えてきたことの或るまとまりが、もうすでに大昔のエライ先生が御考え済みだったと知ってガックリということもあるかしれませんが、また他方、こんな鋭い観点があったか!思いつきもしなかった、と感心することもあるわけですね。 だいたい、相手を本当に論破できるとしたら取りも直さず相手をよく研究或いは洞察して学んでいるはずなんでレヴィ・ストロースだってサルトルがいなければ、やっつける対象もなかったようなもんでしょう。自分が踏み越えてきたものを「自分に踏み越えられたヤツ~」と見下すのは正当な態度と言えるでしょうか?しかも「構造主義」って貴方の御友人の発案でもなんでもないわけで(笑) だから私は、貴方は別に間違ってるわけでもなんでもないと思います。ガンバレ負けちゃダメ!(笑) まぁパソコンなんかの来歴や仕組みは知らなくてもブラックボックスはブラックボックスとして個人の必要範囲で使用することはできるわけですけど、そのブラックボックスをブラックボックスのままにしないということが専門に研究するということじゃないのでしょうか?そういうお勉強を自分で選択してやっていけるということが私には羨ましいことです。 どんな所で、どんな人が、どのように手をかけ、どうやってとれた素材で、それを、どんなふうにさばいて調理して、どのスパイスが加えられ、どういった栄養があって我が身を養うのか、、、そんなこと一切お構いなしに「マズそうじゃん」と遠ざけたり「あ、これオイシー☆」ってパクつくのは誰でもやれることです。 「誰のお陰で、いまがある」 「むかしのひとはエラかった」 ホントそうだと思います。 結局、すべては次の新しい扉へと進んでいくための鍵、その使い方を学び、そしてまた戻ってみる必要があれば、そうすることもできる。 あっ『温故知新』って、ひと言で済むコトバがあったか。。。 やっぱし「むかしのひとはエラかった」。

indias
質問者

お礼

「克服」って言葉が面倒ですよね。 サルトルあってのレヴィ・ストロースですし。 ブラックボックスのくだりは非常に納得です。 楽しいご回答ありがとうございました。

  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.3

こんばんは。。  学士様にモノが言える程の者ではないのですけど・・・ご質問者さんがお考えになっておられる程に難しい事柄ではないと感じたもので。  どんな物事にもあてはまることかと思いますが、何事にも「流れ」というものがあるかと思うわけです。  歴史もそうですが、とくに思想や哲学というものは「後のものほど良くなる」とは必ずしも限らないわけですけど、それでも個人的には「順を追って流れを把握する」という作業は、けっして無駄だとは思いません。そして、今では当たり前にできる、そして当たり前に為されてきたと思われがちな、きちんと「順を追って流れを把握する」という作業は、実際は近代以降の研究の成果であるという点も忘れてはならないと思います。(個人的には構造主義やポストモダンというものは、その成果だと思いますし・・・いちいちにはよく知らないけど。)  探求する方々の「視座」の違いで、まぁ「克服」という見方もあるのかなと思いますが、そういうモノの見方では、ポストモダンもまたいずれ新しい思想によって克服されていくということになるわけでしょう?  「近代以前の哲学」が「言葉遊び」だと断じられるのも、結局は近代以前の哲学をその人なりに把握した結果の結論でしょうし、是非はともかく、それはその人が古典から構造主義までを見通した上での見解ということになるでしょう。  もしも万一、そのご学友が受け売りだけでモノを言っているのであれば、その点は突っ込んでも良いと思います。(一般人には許されても、学士には許されない事柄が「受け売りではいけない」ということだと思います。結局は他者の見解を受け入れるにしても、自身が触れて自身が受け入れるという作業を怠るべきではありません。)  ご学友が十分に考察された上で発言されたのなら、それはそれで一つの見解として尊重すべきかと思いますが。  限られた寿命の中で非効率な情報更新を重ねて行くヒトという生き物は、結局のところいちいちに一から流れを把握し直し、その上で考えるという作業が不可欠なのだと思います。(それが如何にも不毛な作業だと思えたとしても。)  畢竟、余程の天才でもない限り、その遅々とした積み重ねの上に「学問」は成り立つのだと思いますし・・・  学ぶことは手間ヒマのかかることだと思いますが、昨今は情報伝達技術の発達でリアルタイムな情報積み重ねの場を共有できるわけですから、結構な世の中だなと思います。  古典を学ぶ意義としては「基礎」「土台」としてだと思います。家の基礎と同じく、見えない、目立たない部分ですが、耐震構造の土台に家を建てるか、砂上に楼閣を建てるかは後から効いてくると思います。  それに学ぶことができるという環境にあることは幸せなことですよ。学生時代が遠くなりつつある自分にはそう思えます。愚痴っぽい話しですみませんが・・・  哲学とは異なる分野ですが、マキャベリ(マキアヴェッリ)は時折読みます。現在でも十分に通用すると思いますね。  くどくどと失礼しました。では。

indias
質問者

お礼

「受け売り」はいかんですよね。 「基礎」「土台」というのは非常に納得です。 「哲学は全てプラトンの注釈である」という言われ方もあるぐらいですし。 ご回答ありがとうございました。 あと、真剣に勉強してみようと思いました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.2

過去の偉人たちが何を言ったのかを勉強することが哲学なんでしょうか。

indias
質問者

補足

いわゆる「哲学史」が全く「哲学的」でないことは私もわかります。 大事なのは自分の頭で考えることですから。 ただ、その際に「過去の偉人たち」が言ったことを通して 「考える」のは非常に有効であると思っています。 今回の質問は、そうした哲学の仕方に対して、 「哲学史」的な観点から批判された場合、どうすればいいのか、 ということです。 私の説明が至らなかったかもしれません。申し訳ございません。

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