- 締切済み
感性能力の試行の頂点
偶然ではないとするならば それが生まれる条件とは何でしょうか? ジャンルを問いません。
- みんなの回答 (21)
- 専門家の回答
みんなの回答
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
お礼、ありがとうございます。 解釈は、自分の中にあるものを観るだけですから。 ですから、上手く言葉に変える知性が未熟もあり、上手く伝わったか分かりません。 >直観が一種の感覚でもあるというような感じです。 ご自分で言っておられるように、私も現象だと思います。 現象は生じるもの、生じたものを受け取るのは感性です。 感性がどのように受け取っているか、それは深く自分を見つめられるようになれば分かると思います。 それは、本人以外は分かりません。 ご本人が分かろうとしてあげなければ、誰も分かることができません。 何事も誰しも自分が決めることであり、やるもやらなぬも誰に言われようと 最終は自分で決めたことしかやりません。 知るは変わるチャンスであり、選ぶも選ばぬも自分次第がご自分の人生です。 直観が起きることを知りたいのだろうと、回答を見て思いました。 直観が起きる条件ならそろったんですがね。 >創造行為という意志による試行において、感性への働きかけを「条件」としました。 ただ感性は感じ取るだけの能力ですから「なにがしかの刺激」が条件なのですが その先の答えは、自分で見つけた方がいいでしょう。 悟性が十分に働かない状態では思惟ができないので、人は答えを見ても答えに見えず 真実があっても真実に見えず信じないものなのです。 物事を真っ直ぐ観れるのは、悟性が十分に必要なのです。 ですから自身で求める時に、いつか見えてくるでしょう。 >Kanto-iさんもそうした感慨をお持ちではないでしょうか。 勿論ですとも。 昨夜のまとめと、その先を追ってレポート用紙2枚になりました。 今の私が分かる所までで止まってますが(笑) 今回、私的に良かったと思うのは、三大批判を読みなおそうと思ったことです。 以前読んだ時は、分かることばかりで途中から斜め読みになってしまいました。 思索とは、同じことを何度も繰り返して検証を深めることで、より深くを知り より深みのある人間になっていくことを分かっていたはずが抜けていたなと知りえました。 足元を見落としていた感じですね。 より深くを検証しカントが届かなかった所まで、私は行きたいと思います。 今回、私が気がついたことも、もっと深めて検証して一般化できたとき 縁があれば、どこかで目にすると思います。 そうなれるよう、頑張っていく所存です。 もし、カントの言葉で平常心の話しが出ている所が記憶にあれば どの本だったかだけでも教えていただけると助かります。 構造と仕組みがしりたいのですが、カント自身もあまり平常心を持てなかった人のようなので あるかどうかさえ不明です。 検索で見つけられなかったので、後は本を探すだけですが。 しかし、本当に今回のやり取りはいい体験でした。 ありがとうございました。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
こちらからの質問で申し訳ないですが、about72さんが持ってある純粋理性批判の 出版社と訳者を教えていただけると助かります。 よろしくお願いします。
お礼
増谷文雄著 「根本仏教と大乗仏教」 佼成出版社 〃 「釈尊のさとり」 講談社学術文庫 この中に出てくるごくわずかなカントだけです。 上座部と大乗の接点の解釈をカントに求めています。 また、悟りそのものの解釈をカントに求めています。 私におけるカントは、それだけで十分でした。
- DMIM
- ベストアンサー率17% (10/56)
回答番号8と6に投稿したDMIMです。 回答番号8より最新の回答とお礼の全てを見てはいませんけど、この段階で、改めて、確認したいと思いました。 俺が既に投稿した内容に対して、質問者であるabout72さんが「残念ながら分かりません。」と言ったり触れなかったりした部分である、 > 知性の予測能力や帰納能力などの非高性能性や線形性と、感性などの非線形性の、相互作用を(知性が)自覚や認識や理解や予測や帰納できている状態が、「創造における頂点を生む条件」であるかも知れません。 > でも、俺は、知性がとても影響しているだろうと思っていて、感性を理解した知性が感性をより豊かにしていって、その豊かになった感性を知性がまた理解していって、という相互作用が大切だろうと思っています。 そのことを「感性の制御についての問題」について言うと、自分の感性の、入出力の規則性や、推測した内部状態を、理解していくことが、感性を制御することの方法や内容や条件だと思います。 や、さらには > まずは、たぶん、生物性の中の残酷性(との比較)が関わっていそうです。 > 回答は、単純に、快楽を得たり、興味が在ることをより知ったり、しようとしているだけでしょう、ということです。 について、改めて、結局、どう思ったでしょうか?
お礼
すいませんでした。 文章が複雑で理解できない感じがしました。 > でも、俺は、知性がとても影響しているだろうと思っていて、感性を理解した知性が感性をより豊かにしていって、その豊かになった感性を知性がまた理解していって、という相互作用が大切だろうと思っています。 このへんは分かります。 分かるのですが、実際の創造行為における立場にしてみればですが なぜ出ない? 出てこない? なぜ浮かばない? といった集中感覚における極限のもの、内容を知りたかったのです。 今になってからと言っては失礼ですが、 感性の性質が条件である、という結論に至ったところからお話します。 > 知性の予測能力や帰納能力などの非高性能性や線形性と、感性などの非線形性の、相互作用を(知性が)自覚や認識や理解や予測や帰納できている状態が、「創造における頂点を生む条件」であるかも知れません。 感性の性質や働きが非線形性であるかどうかですが 対象と感性の把握の内容が一致しなければ非線形性なのでしょう。 しかし、直観の集中的な働きにおいて 直観的な智慧が対象そのものになってしまう場合もあるようです。 無分別智とも般若智ともいわれています。 そうしたところから一慨に非線形性と言い切れないように思います。 >相互作用 これは確かにあると思います。 ただし今回明らかにした点は、悟性が感性に与える条件に絞ってみました。 そうしたところから明言はできませんが 条件を与えている間は創造は行われない、と言いましたが そのことを、悟性が感性に優位性を与えている、という解釈もできると思います。 条件の潜在化も仮定できるとすれば やはり、感性の働きが先にあってこそ創造を成しうるといった感じもします。 また、感性が悟性に与えるものとは、情報という思考の素材のみであり、条件といったものは存在しないようです。 つまり感性は悟性に無条件で情報を与えているということになります。 このような相互作用の実体については、まだまだという感じがします。 でも確かにあることは事実でしょうし、それが創造において不可欠であることも確かだと思います。 その不可欠さを条件といっていいのかどうかは、まだ決められないところです。 > まずは、たぶん、生物性の中の残酷性(との比較)が関わっていそうです。 これは人間の創造行為が自然の破壊を招くといったことのようです。 他の生命を損ねても、人の創造は尊いという愚かさを言っているようです。 まあ見方によるのでしょう。 生物学的な見方からすれば、至極当然という見方もあるでしょうし 環境学的な見方からすれば、愚かだという見方もあると思います。 でも不思議な感じがしますね。 人間という存在の不思議さです。 内容はいずれにしろ、常に新たな創造を行う知性が人間に備わっているという 不思議さです。 このことを宇宙がどうのこうのと論じるところまではいっていませんが・・・ > 回答は、単純に、快楽を得たり、興味が在ることをより知ったり、しようとしているだけでしょう、ということです。 この場合、創造への意欲を示しているようです。 それは条件を生むのでしょうが、条件そのものではないと思います。 芸術における条件を示した一例をあげてみます。 岡本太郎からですが 「芸術は美しくあってはならない、きれいであってはならない」 というものですが、どうでしょう。 解釈もいろいろでしょうが 常に否定をつづけるという、新しいものを求めつづけてゆくという条件のようにもみえます。 そうした条件を自分に課した、課しつづけた生きざまこそ芸術であったようにも思えます。 そこには、創造とは常に新しいものでなければならない、 といったフロンティア精神があるように思います。 一般的なレベルにおける創造とは、やはりかけ離れていたというか凄さがあったように感じます。 そうした眼で彼の作品を見てみると どの作品も彼にとって頂点ではなかったのかと思います。 太陽の塔は誰にでも分かる頂点でしょう。 以上です。 ありがとうございました。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
連投で、申し訳ないですがこの前のを書いてて >概念が感性化されたとき直観を生み、それは知性化されることに至るから。 が書いてる途中で、私の中でさえてるなと思った部分なのですが 質問の最初の意味合いに立ち戻ると、直感で創り出すってのは ここが知りたかったのでしょうか? 概念から知性化までに至って、それがその後言葉として表現されます。 では悟性がどこに出てくるかですよね。 >感性なしにはいかなる対象もわれわれに与えられず、悟性なしにはいかなる対象も思惟せられぬであろう。 ここで言う感性は、感覚をすべてまとめて感性としているのでは。 感覚が無ければ(感じなければ)いかなる対象もわれわれに与えられず、となります。 悟性は、「悟」つまりは吾心(わがこころ)であり 私の心から生じる能力ですね。 悟りって、哲学的・思想的に言葉としてよく出ますが 私の心を知ることが「悟り」ですね。 自分を知り、そこから生じる悟性がなければいかなる対象も思惟されぬであろう。 つまりは、自分の心をよく知ることがなければ思惟はできません、ってことです。 >悟性は何ものをも直観することはできず、感能は何ものをも思惟することはできない。 自分の心が分かったからと言って、そこから直観は生まれないし 感能つまりは、感じたからと言って思惟はできませんよ。 悟りを開いても、直観はできません。 感じても、考えに及ばず。 これは、多くの宗教家と名乗っている人達がビビってしまいそうな真実ですね(^^; ということで、答えが出ましたでしょうか? これで、意志と悟性が別物だと証明が成りたつということで、私に私が拍手です。 ついでに、悟りの正体もばらしちゃいましたね。 つまりは、難しそうに思えても意外と単純にできるってことですね。 カントの和訳(注釈かな?)を、私がやったらとんでもない状態になりそうです。 今はとても、そんな時間無いですがね。 で、答えは出たと言うことで、お疲れさまでした。 楽しかったです。
お礼
>質問の最初の意味合いに立ち戻ると、直感で創り出すってのは ここが知りたかったのでしょうか? 答えを絞るならば、質問の言葉も絞るべきであったと反省させられます。 質問の真意をもっと明瞭にすべきであったようです。 その点につきお詫びいたします。 感性能力の試行 とは、悟性(意志)が感性に働きかけて行うことです。 頂点とは、そのことによって生じる創造の結果的頂点です。 創造行為という意志による試行において、感性への働きかけを「条件」としました。 その条件についての一応の結論は 「観測」 「検索」 「照合」というものでした。 感性のもつ性質以外の条件は有り得ない、与えられないというものでした。 しかし、これらは条件の枠組を示したものであり、条件の具体的な内容ではありません。 感性の性質を示したものであると同時に、条件の性質を示したものでもあります。 それでも私はこの結論に一応の満足を感じています。 なぜかというと、「感性的把握の前提なるもの」を明らかにできたように思うからです。 それは試行の前提であり、創造の前提でもあります。 悟性についての解釈はまだ時間がかかりそうです。 また、条件の具体的内容についても同様です。 感性という複合的なものへの働きかけの全容とは、あまりにも広く深いものであるように思います。 そのすべてを知ることは出来ないと思いますが、 概要だけでも十分であり、後は体験に委ねてもよいという気持ちもあります。 すべてを論理的に精査できたとしても、それで終わりではない感じもします。 Kanto-iさんもそうした感慨をお持ちではないでしょうか。 幾度もアドバイスをいただきありがとうございました。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
No.13からです。 私の考えです。 意志・意思などは、意を持っていますから自己の方向性が存在しますよね。 悟性や感性は能力ですから、意に影響を与えると思われます。 >それ故に、概念を感性化することと、直観を知性化することとは、ともに同じく必要である。 概念の感性化 概念を感性的に捉えられる状態で、感性的表現までできればなおGOOD (No.11で私がそんな発言をした理由です。感覚的に捉えられるということだと思います。) 直観を知性化 直観を知性的に捉えられる。つまりは知識と照合して裏付けたり組み立てたりできることに繋がる。 論理的に考えたりすることにも繋がりますね。 ついでに 内容なき思考は空虚である 知識や知恵、つまりは知性化されない思考は空虚 例として「どうしよう」を考えても何も生まれない。空っぽのままグルグルしてる。 「どうするか」は、知識などの内容が必要。 概念なき直観は盲目である 概念を有しない直観は、何も理解してないもの。だから盲目。 概念が感性化されたとき直観を生み、それは知性化されることに至るから。 そこまで行くと、理論が完成できますね。 カントに興味があるなら、カントと同じになるくらい自分を深めれば 純粋理性批判は、自己の内部を観るだけで分かりますよ。 中の状態が、まるまる書いてあるだけですから。 それこそ概念の感性化で、感覚として捉えることができます。 結構やってみると面白いですよ。
お礼
さまざまな解釈をありがとうございます。 まだ私も勉強中なので、すべては推測における答えを出しつつあるところです。 お答えの中の >概念が感性化されたとき直観を生み、それは知性化されることに至るから というところが少し気になりました。 それは私の実体験によるものです。 直観における現象ですが 直観的把握、というような生やさしい言葉では表せないもの もっとストレートで、打たれる、という言い方が妥当なものに出くわしたことが幾度かあります。 いわゆる強烈な閃きの類です。 感情を呼び起こしたものもあれば、まったくそうではないものもありました。 完全に受動態である直観に何かが直接伝わったのです。 直観における現象とは生まれるものであっても、直観そのものとは生まれることもなく、何かによって生まれることもない、ものであるように思います。 直観は他の感覚に関わっていながらも、それ自体が単独の働きを有する性質があると思います。 直観が一種の感覚でもあるというような感じです。 このへんは理屈ではなく、体験によるものです。 ただしその具体的な内容は口外しずらく、無理に語りたくはありません。 また、或いは、そういったことは私だけではなく誰にでもあるのかもしれませんね。 直観の働きの不思議さは尽きることがない感じがします。 >カントに興味があるなら、カントと同じになるくらい自分を深めれば 純粋理性批判は、自己の内部を観るだけで分かりますよ。 中の状態が、まるまる書いてあるだけですから。 これはまったくその通りでしょう。 できるかどうかは別ですが・・・
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
真善美と察智 如来の一大心霊体なる宇宙には真善美あり。之を四智に配せば、眞は圓智、善は理性智、美は感覚智なり。然るに其の真善美をしてよく真善美たる真価を顕すものは察智なり。 察智は大圓智の光明によって宇宙眞象を照し是に依て万物の眞と非眞とを察して眞たるを知る。察智は理性に照して善と非善とを判断す。感覚によりて差別の万象を照し、察智は啻(ただ)に直感に止まらず実在より遊離したる美的假象として存す。 感覚には実感即ち客観の物象の実在を実感したるのみにあらず、之を受けて意識の内容として、儼然たる理想的実在を有す。 察智は智性なり。美的は感性なり。察智には感覚より受けたるものについて、之を考察すると共に、其作用の結果として、意識中に現れたる写象にして、智性に伴う。之を美的假象と云う。 また感覚は知覚の材料たるのみにあらずして、感情の資料なり。否な感覚それ自身は知覚よりは寧ろ感性なり。そこで外界より美的感覚に刺激せられて感覚が之を直観するに止まらずして、之を察智の内容に於いて、理想的実在として感ずる時に於いて、始めて美的假象となる。故に妙観察智には知力的のみに偏狭なるに非ず。 妙観察智は主観よりは観念と理性の大海をそなえ、客観よりは感性知性の感覚を受容して意識内容に於いて考察し感味す。感覚は客観の物的実在の理想に表象して、微妙不可思議なる美的假象となる。美的假象は其を惹起したる実在より遊離し、又其を知覚する所の意識作用よりも遊離す。現物を見たる其の客観実在より優遊するのみにあらず、更に自己の精神自我そのものをも意識作用より遊離す。 美的假象は宗教に於いて神秘の妙境に至って最甚深なり。例せば念仏三昧を修する行者あり。始めに一の丹采よりなれる金色の形象を縁じて、之に思想観察して憶念すること最も深刻なり。終に聾盲痴人の如くにして三昧に入る時は、実在より遊離して、自己の理想に、如来の表象は儼然として現前す。神秘の幽玄に入りぬれば、自己其の表象と冥合一致し、其時我其者より遊離し、己を忘却し去るに至る。 阿弥陀仏止心遠西仁空禅乃脱果多留聲曾凉志幾とは蓋し此意ならん。 ☆ 「無邊光」から一部を写してみました。 私は、この文章を理解しているわけではありませんが、aboutさんの問いに関係するのではないかと思いました。
お礼
ありがとうございます。 山崎弁栄聖者の残された御文ですね。 恥ずかしながら知りませんでした。 浄土系の方でありながら、その書かれた内容は密教の大日如来の世界を思わせるものです。 法身における展開を示しているもの、曼荼羅的な内容を現実に照らしあわせて説いているような気がします。 相に即して無相に入り、無相に即して無限の有相に展開してゆく といった密教特有の面が、独自の表現で説かれている感じがします。 ここには、信仰における「本尊」の問題が根底にあるような気がします。 浄土系の信仰で得たものの本質は何であったのか? その答えを密教にまで求めていったのでしょう。 しかし、潅頂という密教の正門までは入り切れなかった 阿弥陀仏の信仰を基に、密教の解釈を試みたようにみえます。 むろんそれは誤りとはいえず、素晴らしいものです。 その多様な表現は密教の曼荼羅のようでもあります 山崎弁明という人が描いた曼荼羅です。 これも一人の人間が辿りついた、宗教的な一つの頂点を示しているような感じがします。 この凝縮された隙間のない多様な表現、文章は 山崎氏独特のものなのでしょう。 ですが、少し一方交通の感があるようです もう少し分かりやすくというか、入ってゆける隙間が欲しいと思います。 総じて見れば、信仰における「本尊」というものの授かり方の違いが 法身と信仰仏の在り方の整理のつけ方の違いに顕われてくる、といったように感じられます。 仏教の信仰に立ち入った者ならば、誰しもいつかは直面しなければならない問題だと思われます。 山崎氏の御文は、人に説くものというよりは、自身の信仰の密教的解釈 また、密教に対する一信仰からの解釈を綴ったものであったようにみえます。 その内容の是非はともかく 一人の人間の感性能力の試行の凄さというものでしょうか まざまざと見せられる感じがします。 雑感となってしまいましたが 一人の人間における創造の頂点を、残されたものとして見る時 素晴らしいものであるという見方と、 頂点を残して人はいずれ去る、という一種の虚しさがあるように思います。 そこから、今という時を振り返れば 今の自分に与えられている感性の貴重さがあるように思います。 感性だけではなく、それが置かれているこの世界もです。 感性能力の試行の頂点、とは、人が生きた証なのでしょう。 頂点という証を残さずに去っていったようにみえても 人それぞれ、誰にでも頂点はあったのではないでしょうか そんなふうに思います。 さて、私の頂点はどうなんでしょうね? それは簡単かもしれませんね 私がこの世を去ってから人に決めていただければいい事ですから 見える形での創造の頂点とは人が決めるものです 見えない頂点とは・・・ これぐらいにしておきます。 ありがとうございました。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
「これは、「これ」か?」というのが、認識の常なのだとか。 ♪「トンボのメガネは水色眼鏡、青いお空を飛んだから、飛んだから」
お礼
ありがとうございます。 >「これは、「これ」か?」というのが、認識の常なのだとか。 正鵠を得ているような感じもしますね。 もう実存そのものといった感じです。 つまり感性的認識だけでいいというもの あれこれ推し量る必要はない、というものです。 感性の鋭ささえあれば十分であるという考えは 当然その裏付けとして、推し量る働きの鋭さを示しているようです。 つまり、両方の回転が早いということです。 そ-ゆう感じに私は取ってしまいます。 (素直ではないですかね) >♪「トンボのメガネは水色眼鏡、青いお空を飛んだから、飛んだから」 心が澄んでいれば何でも見えますか・・・
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
感性能力の試行の頂点 なぜ人間は完璧を求め、目指すのか。 不思議だ。 人間が不完全だから? 普通は“肉(精神的意味を持たせた)”の満足を以て良しとしますが、それでは飽き足らない人々が精神的充足を求めます。 そうした人々は肉的充足、肉的幸福を犠牲にしてまでも精神の充足、幸福を求めます。 その中の一部の人たちは、ひときわ優れた能力を発揮して物事を開発し、また芸術を開拓しています。 こうした活動はどこから生まれるのでしょう。 美、に於いても万人が認める「美」を作り出します。 なぜ目指すのが「美」になるのか。あるいはaboutさんが使う「頂点」を目指すのか、不思議です。 それには人間の精神の働きの“意志・感情・理性”が「頂点」を目指すように“作られている”から? 大河の流れのように。川は上流から下流へ。精神の大河は下流から上流へ。 という事は我々は下流の生き物。 生命は下流から上流へ流れる精神の大河。 その中で人間は突出し、そしてその人間の中でも飛びぬけてすぐれた人が先頭に立ち、「美」を作り出し「頂点」を目指す。 馬車のように、先頭に馬を配置し後ろには二輪車を。そうすればよく前に進む。 aboutさんは「感性」に、なぜ「頂点」を目指そうとする働きがあるのかを、解明しようとしているんだと思います。 そうだとすれば、宗教的世界に回答があるように思うのですが。 「無邊光」に求めてみてはどうでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 NO.9の答えにていただいた「性質」という言葉から、おかげさまで少し進みました。 その内容をNO.9の補足欄に書きましたのでお読みください。 創造のジャンルを宗教に求めていくとどうなるのでしょうね。 >「無邊光」 ですか いろいろとヒントをありがとうございます。 こちらも考えていきたいと思います。 少し進んだので、一休みしたい気持ちもあります。 少し時間をいただきたいと思います。 なお、宗教を結果的なところから少し言わせていただければ 創造の頂点は、感性の頂点のあとにやってくる という考えからすれば 仏教における頂点とは・・・ですが ブッダにおいては 悟りという感性の頂点の後における、創造の頂点とは 初転法輪あたりという感じがします。 仏教が初めてこの世に出た時です。 大乗では・・・ 般若体験を経て説かれた、空の思想、あたりでしょうか あまり自信はありませんが・・・ ともかく、そんなふうに見てゆくと面白いと思います。 芸術に関しても、やはり頂点と思えるものが沢山あります。 そちらはまたお話したいと思います。 ありがとうございました。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
連続失礼します。 そう殊勝に出られると、無碍にできないのですよ。 >やはり見つからないのでしょうか? 見つかるか見つからないかではなく「見つける」 ここであなたの意志が働く訳です。 >単純なところまで絞りこもうとすることが間違っているのでしょうか 間違ってるかどうかは、やってみないと分からない。 それが事実です。 事実を事実として受け止めることも大切です。 意志は、字を見て分かるように「いをもってこころざす」です。 い【意】 1 心に思うこと。気持ち。考え。意見。「遺憾の―を表す」 2 言葉や行為が表している内容。意味。わけ。「読書百遍―おのずから通ず」 3 《(梵)manasの訳》仏語。あれこれと思いめぐらす心の働き。思量。「心、―、識」 こころ‐ざし【志】 1 (ア)ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。「―を遂げる」「事、―と異なる」「―を同じくする」「青雲の―を抱く」 (イ)心の持ち方。信念。志操。「―を高く保つ」 2 相手のためを思う気持ち。厚意。「―を無にする」「お―はありがたいが、辞退します」 3 (ア)謝意や好意などを表すために贈る金品。「ほんの―ですが、御笑納ください」 (イ)香典返しや法事の引き出物、僧への布施の包みの表に書く語。→寸志4 心を集中すること。注意。 「―はいたしけれど、…上の衣(きぬ)の肩を張り破りてけり」〈伊勢・四一〉 5 相手を慕う気持ち。愛情。 「一夜のほど、朝(あした)の間も恋しくおぼつかなく、いとどしき御―のまさるを」〈源・若菜上〉 6 死者の追善供養。 「未来の因果を悲しみて、多くの―を尽くして」〈曽我・二〉 上記のそういった意味が重なるので、下記の い‐し【意志】 1 あることを行いたい、または行いたくないという考え。意向。「参加する―がある」「こちらの―が通じる」 2 目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働き。知識・感情に対立するものと考えられ、合わせて「知情意」という。「―を貫く」「―強固」 3 哲学で、個人あるいは集団の行動を意識的に決定する能力。広義には、欲望も含まれる。倫理学的には、道徳的判断の主体あるいは原因となるものをいい、衝動と対立する。 つまりは悟性なくしても意志は持ちえるということです。 悟性 悟性(ごせい)とは英語のUnderstanding、ドイツ語のVerstandに対する西周による訳語である。日本においては本来禅の用語であった。英和辞典や独和辞典を参照しても分かるように、この語はもともと「知性」や「理解力」などと同意義であるが、西洋哲学においては様々な哲学者がそれぞれの定義の下で用いる。ただ「知性」「理性」「感性」などとくらべて一般認知度が高い言葉とはいえず。悟性という言葉が、それが対応する外国語を邦訳する際に適切な言葉であるかどうかの問題がある。 一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性である。 だと言うことを見ても、悟性と意志は同じではない訳です。 ウィキとかから引っ張ってきてますが、それもまたすべてが正解かどうかは自分で確認して行くしか 最終的な方法はないと私は考えて調べていってます。 ですから、ご自分の意志を持ち貫くなら見つかる可能性はあるのではないでしょうか。 事実を事実と確認しながら進めていって、導き出し途中で気がついた誤りは訂正しながら進む。 新たにロジックが見つかったら、再構築しなおすぐらいの覚悟が必要だと思います。 私は、別の視点からですが人というものを追及しています。 自分の見つけたいものを探している訳ですが、自分が探したい回答を他者に求めるなら 時間がかかると思います。 あなたの質問の答えは、すべての人に共通して有るものを探されています。 つまりは、あなたの中に答えがある訳です。 ご自分を追及して行けば、何がしかの答えが見つかると言うことです。 >単純なところまで絞りこもうとすることが間違っているのでしょうか 私個人としては、間違ってるとは思いません。 私がやっていることも、ある意味同じことをやっています。 ただ、人間は複雑でそれは影響しあう所が多大にあり 一見しただけでは、理解できないものがあります。 それを検証しながら単純化は可能だと信じて進めていってます。 about72さんは、センスがいいのでやり続ければ見つかるかもしれないと思っています。 about72さんが知りたい答えは、私が探している物の一部かもしれませんが まだ、最後まで行ってないので私も今は答えは持っていません。 志があれば、いつか見つかることと思います。 ご自分で検討されて、また質問がありましたら分かる範囲では答えたいと思います。 まずは、ご自分で熟考され頑張ってみて下さい。 応援してます。
お礼
ご丁寧にありがとうございます。 この凡クラ頭というか石頭を振りしぼらなければならない感じです。 経過報告というか、ちょっと進みましたのでお知らせします。 NO.9の補足欄において書きましたのでお読みください。 お気づきになった点がありましたらお願いします。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
No.11です。 相違があっても別にかまいません。 悟性は得ようとする意志があり、その為の行動をすれば高まると思います。 感性も同じです。 悟性も感性も、その生き方や体験からの行動をそのためだという 意志を持たずにやった場合でも、ある程度は得ているので それなりに磨かれます。 あえて磨こうと言う意志の元、高める行為をやり続ければどちらも磨かれていきます。 感性も悟性も知性も、能力として備わっている場合に○性とつきます。 知性も生き方や体験から、ある程度を得ますが意志を持って磨けば高まります。 もっと分かりやすく言うと、赤ん坊を隔離して生きていく最低限において育てれば(人と接しないとして) 感性や悟性や知性など、能力としてあるものは磨かれず能力さえ有してないようにしか見えません。 それでも、その子は意志はあります。食べる意志や寝る意志ですけどね。 食べることや寝ることは、それも必要な能力として備わっていますから。 使える状況の能力しか使わないで生きていれば、その能力が意志に反映するだけです。 一度自分で組み立てて、それが違うようだと認めることは誰しも困難です。 しかし、数学と同じでどこかで違いが出れば、答えは見つからないものと思われます。 私があえて書いたのは、あなたの本来の目的が探しだすことにあるだろうと思ったからです。 それでもあなたはあなたが信じたように選ぶことですから、今のままで探されてもいいと思っています。 Q&Aは、助け合いの場ですが、自分の思いでばっさり「あなたは間違ってます」で通されるなら 見つけたいものも見つからないだろうと思っただけです。 では失礼します。
お礼
ご忠告ありがとうございます。 やはり見つからないのでしょうか? 単純なところまで絞りこもうとすることが間違っているのでしょうか この、ひねくれ者の疑問を解いてくれる人は現れないのでしょうか >相違があっても別にかまいません。 悟性は得ようとする意志があり、その為の行動をすれば高まると思います。 感性も同じです。 だとすれば 悟性と意志の相違を明らかにするところから出直しのようです。 そのへんをご説明していただければ助かります。 よろしくお願いします。
お礼
ありがとうございました。 私にとっても有益なものになりました。 もう、語ることもあまりないような気もしますが おまけ、というか附録みたいなものを少しだけつけます。 >直観が一種の感覚でもあるというような感じです。 この延長にある実際というものですが 手に意志がある・・・と思ったことはありませんか もちろん、手に意志などあるわけがありません しかし、そう思ってしまう、感じてしまう実際というものがあります 私においてのそうした体験は20代の頃にあったことです よく言いますが、手が勝手に動く、という言葉があります 手を動かす作業において、極限に近いところまで動かしつづけていくと そんな感じになってきます また、対象を知るのは自分ではなく、手である、といった感じになってきます 手が意志を持ち、対象をとらえるのです 手や指は第2の眼である、という言葉もあります。 感性的な働きの集中は一感覚の範囲を超えてしまうようです また、こうした段階になると不思議な現象さえ起きてしまうようです 手でとらえている対象が、対象ではなく、手の延長の一部と感じられてきます 手で扱うさまざまな道具や、その先にあるものまでもが、手になってしまいます そうした現象を錯覚である、ということは簡単でしょう でも体験したものには錯覚ではないようです こうした現象は多くの人が体験していることだと思います そこにあるのは 感覚には、常に直観の働きが付いている、ということだと思います どの感覚にも直観の働きが宿っている、のだと思います 直観は意志をもたないが、手に意志があるように思えてしまうのは直観の働きによるのだと思います 集中的な動作の連続において、意志の働きを待たずに的確に反応できるのは直観によるのだと思います そこには、観測、検索、照合といった瞬時に対応する働きがあるのではないでしょうか 手に持つものや、対象までもが手の延長であるように感じる、といったことにも直観の働きがあるのだと思います ピアニストの言葉で 一日中ピアノを弾きつづけて、やっとそのピアノが鳴り出した というのもあります 直観がピアノを捉えきって自由に動かせるようになったのでしょう などなどですが >直観が起きることを・・・ 上記のことも参考にしてください 直観とは指先にも起きるのだと そろそろ締めたいと思います。 ありがとうございました。