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弁証法

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.3

直接には回答にはなってませんが、参考になるようでしたらどうぞ 公理から演繹される論理系において 公理が問題とされる場合があります。新しい公理が必要とされる場合です。反公理を立てて 公理と反公理の納得性を検討していきます。その整理の中から一つの新公理が生まれます。これが一つの弁証法による解決と思っています。 しかし、公理から新公理への導入経緯は非論理的であり 一つの解決(他にも解はある)である ということは十分に理解しておく必要があると思います。 例えば 唯物論的弁証法による 資本主義から共産主義に至る方法などです。論理的に発展していくものなら 共産国家群がなぜ資本主義国家に変貌していくのか 論理的には説明できないのです。 別例では ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学が展開されていますが、それはユークリッド幾何学が低位にあるのではなく 単に公理が異なれば演繹される構造は 相当に異なってきます ということを示しているだけです。 以上失礼しました。

Somethingfunny
質問者

お礼

よく理解できなかったので、ズレているかもしれませんが、公理、反公理、新公理とは、弁証法の正、反、合のことでしょうか。 「公理から新公理への導入経緯は非論理的であり」というのは、正と合の関係をいうのでしょうか。 いずれにしても、貴重なご意見、ありがとうございました

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