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ビザンティン美術で、イコノクラスムがなぜ起きたかと

その影響を教えてください

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  • nacht246
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回答No.1

>ビザンティン美術で、イコノクラスムがなぜ起きたか 8世紀にビザンツ帝国でイコノクラスム(聖像破壊運動) 起きた背景 おもに外政的な理由、内政的な理由があると言われている。 ビザンツ帝国ヘラクレイオス朝(610~711)最後の皇帝 ユスティニアノス二世は二度目の反乱によって殺され、 ビザンツ帝国は内紛とアラブの攻撃が激しくなる。 イサウリア朝(シリア朝、717~802)は、このような状況 のもとで、北シリア出身のレオン3世が皇帝に即位し、 始められるのである。 彼はアラブのコンスタンティノープル包囲を退け、帝国の危機 を救うことになるのだが、その際、北シリア出身である彼は、 イスラム軍に対して東部の国境を守っていた東部の住民の 忠誠を確保しなければならなかったのだが、その帝国東部 では、オリエント世界に弘布していたユダヤ教やイスラム教の 偶像否定論の影響をうけた聖像禁止派が基盤を持っていた ので、皇帝は東部の住民に配慮し聖像禁止の立場をとらざる を得なくなった。 これが外政的な理由の一つ。 もう一つ、内政的な理由の一つとしては、 このころ帝国内で大いに発展した修道院が帝国の徴税権、 徴兵権をむしばんでいたため、(帝国維持のためには 「軍管区制」を進める事が必要不可欠だった) 修道院から土地、財産を没収する狙いがあったといわれている。 それだけでなく、修道僧の徴兵、修道僧と尼僧の結婚までもが 帝国によって強制され、修道院の反発を招いた。 こうして、皇帝が神学の問題にまで立ち入ってまで指導権を 発揮するという、いわゆる皇帝教皇主義を取ることによって、 皇帝に教皇を密接に協力させる事により、帝国の維持、 統一を成し遂げようとしたのである。 こうしてまずレオン三世によってまず726年、聖像(イコン)の 崇拝が禁止され、つづくコンスタンティノス五世のもとでは 聖像そのものの禁止、さらにその破壊へと発展し 各地で聖像の破壊が行われる事になる。 >その影響 この聖像破壊運動の圧迫をうけ、一部の修道僧や聖像製作者が イタリアに移住し、ビザンツ美術の西方への伝播に一役かった といわれている。 (一応回答を述べてみましたが、もしかしたら歴史の カテゴリーで改めて質問をしたほうがいいかもしれません)

dosukoitanutanu
質問者

お礼

わかりやすい回答、ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • nacht246
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回答No.2

A.No1です。申し訳ありません。 誤 >皇帝に教皇を密接に協力させる事により、 正  皇帝に教会を密接に協力させる事により、 に訂正します。 ビザンツ帝国においてローマ教皇に対応するのは コンスタンティノープル総主教でしたね。 尚、A.No1での >その影響 で 歴史的に重要なのはもちろん東西教会の分離の伏線であって、 事実、ローマ教皇はこの後カール・マルテルに接触を試みる ことになるのですが、ここは美術のカテゴリーですので、 その点についてはあえて述べるのを避けました。

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