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松岡洋介

私が中高時代の歴史授業によると確か、松岡洋介という人は外相として 日ソ中立条約、国際連盟脱退(本人は不本意)、日独伊三国軍事同盟 でどちらかといえば失敗・悪役イメージでした。 最近ですが近衛内閣時代(1941.)の「 松岡構想 」を読むと特に対米観( 感覚 )はかえってすぐれていたように思えるのですが、 現代の日本史では松岡( 構想 )はどのように評価されているのでしょうか? あいかわらず松岡は教科書上・失敗役のイメージなのでしょうか

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回答No.1

 去年日本の近代史を高校でやりましたが、 その時の私の印象では「怒って国連抜けちゃったひと」だったような・・。その時の印象としては「どうしようもないオジサン」だったかな?他の人もだいたいそういう印象をもっているようです。  教科書や先生が「松岡はダメ」と言ってるわけではなくて、教科書に書いてあることだけ読んだらとんでもない奴だ、と誰でも思ってしまうような気がします。日本、韓国併合とかいろいろしてたし。あそこで退いてたら日本も清みたいになっちゃったのかなあ、とか今では思いますが。

torauma
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やっぱり、あいかわらずなのですね。 >あそこで退いてたら日本も清みたいになっちゃったのかなあ どうみても連盟脱退より三国同盟が問題で、昭和15年9月、日独伊三国同盟審議のための御前会議、「今や米国の対日感情は極端に悪化していて、僅かな機嫌取りくらいでは回復するものではない。ただ我々の毅然たる態度だけが戦争を避けしめうるであろう。」との主張 ここが、ハズレたと思われているのではないかなあ.. 、 ..対米強硬姿勢。

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