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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》)

ハ格とガ格のはたらきについての探究

このQ&Aのポイント
  • 日本語の基本構文であるAハBガCについての探究。
  • AハBガC構文は始原的な自己表出を含みながら、意味連関も示している。
  • 和文は非線形の構文であり、線形のSVO文型も内蔵している。

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  • ok9608
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回答No.8

言語学については まったくの素人です。ここでの このような質問と答えは 大変勉強になり お礼申し上げます。以下感想です。 少し調査をしましたところ 主語省略の日本語について  三上章、金谷武洋の流れをくむ 岡智之先生が 主語省略ではなく 主語不必要の立場から ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1169/1/18804314_57_08.pdf で 日本語について述べておられます。日本語は 空間について述べていくかたちになっており それは 主語を必要としない 主題についての文となる という説明のようです。別の説明では 主題は述語論理に対応し、主語は主語論理に対応しています。述語論理は 言葉以前のイメージ的同一性を重視する論理であって、より基底的、より根底的、無意識的である と説明されてます。 Bragelonneさんの聖なる甘えに通じるのではないか と思います。ただし言語学会では まだ少数派のようです。 以下は私の推測です。 人類は自然環境(空間)の中の群れる生き物として発展してきたと思うのです。どのような環境にあって生きて行くことができるかが重要であって言葉もそれを反映して来たのではないか と思うのです。だから人類発祥以来 述語論理(主題)の言葉が続いてきているとおもうのです。ところが 何らかの理由で 群れから 飛び出す人類もいたわけです。 彼ら(個)は 群れ人類よりは 厳しい自然環境、人間環境に対して 立ち向かわざるをえなかったのではないか、と思います。生きて行く上で 個の役割が重要であって 言葉としては個反映して 主語論理になって来たのではないか とおもうのです。主語論理は 英仏独語が突出しているようですが これらが最初の純粋な主語論理語としますと 述語論理から分岐した時点は 以外と人類史のなかの今に近い過去かもしれません。数多くの言語の歴史的、考古学的、民族史的 なつながりが明らかになれば おもしろいと思います 以上失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 おうけい9608さん こんにちは。いつも読んでいただきありがとうございます。  ハ格・ガ格構文にかんしては 三上章の『象は鼻が長い』のあとには議論がなかったと思っていました。(空白の期間がわたしにはありましたが)。今回は    ○ 岡, 智之:「主語」はない,「場所」はある : 場所的存在論による日本語主語論への一提案  なる論考をおしえていただきありがとうございました。細々とながら 欧米文法の見直しが問い求められていると思いました。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづは   ★ (むすびのことば) ~~~  主語論理は 英仏独語が突出しているようですが これらが最初の純粋な主語論理語としますと 述語論理から分岐した時点は 以外と人類史のなかの今に近い過去かもしれません。数多くの言語の歴史的、考古学的、民族史的 なつながりが明らかになれば おもしろいと思います  ~~~~~~~~   ☆ に同感です。広範囲にわたる研究があらたにすすめられていくことを今から思っています。  ★ ~~~  ・・・ところが 何らかの理由で 群れから 飛び出す人類もいたわけです。 彼ら(個)は 群れ人類よりは 厳しい自然環境、人間環境に対して 立ち向かわざるをえなかったのではないか、と思います。生きて行く上で 個の役割が重要であって 言葉としては個反映して 主語論理になって来たのではないか とおもうのです。  ~~~~~  ☆ 環境ないし場(あるいは 時空間)につつまれる状態から飛び出して行く人びとも 人類の中には いた。そしてその場合には 主題を一つづつポンポンと提示してゆっくりと話し合うというよりは その主題ごとの意味内容を直線的にすべて串刺しにしてすでに初めから表明するという言語表現のかたちを持ったようです。  《極北の詩人》か《密林の聖者》かとたとえてみましたが いま現代の世界の情況としては むしろ あいまいでユックリな主題提示の方式のほうが 《限界情況にある詩人》かはたまた《周縁に追いやられた聖者》かと見まがう状態になっているかも分かりません。つまり 後者は たとえばわれわれ日本人の――言語類型の視点から見た――情況です。  自然や第二の自然としての社会やの環境や場 これに 自分のほうからも包(くる)まって行くかのように浸(つ)かっている《甘え》の情況は グローバリズムなる流行に合わないということのようです。  主語(あるいはむしろ主体)論理 これが 世界をくまなく突っ走っているようです。  これに 待った! をかけたいというような質問でもありました。      *  岡智之論文は そのようないとなみが続けられていることに意義があると思います。正直に申して そう理解しました。  (1) 《主語》なる概念をきちんと把握していません。と申し上げねばなりません。  《主格語》と《主題語》の意味を持たせているようですが どちらつかずのまま議論しています。  言いかえると 文における主格(つまり 論述の述格と意味連絡する主格)とそして話し手が提示する主題(つまり意味連関をまだ話者は決めずに言い出す主題)とは そもそも文の構造における位置づけが違っています。  主題提示をそれとしてはっきりおこなう日本文や韓国文では これらの主(S)・述(V)・対(O)の格関係は それがどのように成り立つかについて 二の次の関心事です。したがって 後者の意味連絡は 文が表わされたそのあと二次的に決まる。しかもそれは 別の筋道として成り立つ。  よって この(α)構文による文は 主題提示層と線形論理層との二層構造になると考えられます。これを措いて 話はすすまないと考えます。  (2) 日本文などが重視する《述語論理》は 《場》が優先されると言いますが 表現としてはそういうかたちが 欧米文の《主語論理》の文型においても成り立つと見なければなりません。  ( e-Greek ): Ἐν  ἀρχῇ  ἦν  ὁ  λόγος            ( En  arkhe  en  ho logos )  ( e-English ):In the beginning was the Word  ( e-Japanese ): はじめに ことばがあった。(ヨハネ福音1:1)  このように《はじめに》は 《場ないし時空間》です。それが優先される表現も じゅうぶんあり得ます。  (3) あるいは 次の文例です。    ( f-Hebrew )בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃       ( be-resit bara elohim et-ha-samaim w-et-ha-arets. )  ( f-E. ): In the beginning God created the heaven and the earth.  ( f-Jp. ): はじめに神は 天と地をつくった。  この場合を見ても 《神(S)-つくる(V)-天地(O)》という線形論理が優勢ですが そうではない要素も たとえばやはり《はじめに》という場の提示において見られなくない。その時空間にひとは そのまま包まれると言っているのみであるかとさえ受け取れます。神がどうで何をしたという問題ではなく いまこの世界に位置するわたしは その世界にあるという自同律を表わしただけであるように受け取れます。  そのあと 主語論理(もしくは 主体論理)が神なら神がとして・あるいは人間なら人間がとしてもっぱら独立するかのように表現されるようになった。こう見られます。  言いかえると 言語じたいの罪ではなく 理性やその論理思考を突出させその行為主体としての人間を推し出して来たことの問題であるだけかも知れません。  (4) すなわち 《主体論理の優先》と《場の情況の優先》とは 必ずしも構文や文型の問題から生まれたという見方に限定するのは 早計かと思われます。  ( g-Jp. ):おほきみは神にしませば 赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ (万葉4260)  ( h-Jp. ):おほきみは神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ (同・4621)  これなどは 人間が自然環境をも開拓し開発する姿がうたわれています。まさに《主体論理》が前面に出されています。という例証も可能かと思うからです。  ( f-Jp. ): はじめに神は 天と地をつくった。  と変わらないのではないでしょうか?  (5) よって次のように二層構造を取り出して分析する必要を なおまだ 感じます。どうでしょうか?    ☆☆(No.2補足欄) ~~~~  (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる非線形構文     ( c ) 私ハ お前ガ 好きだ。   (α‐1= 狭義のα): 一次として 主題提示の層    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)   (α‐2⇒ ω): 二次として 線形論理の層    《 (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》文型    ( c-1 ) A love(s) B.(我ガお前ヲ好く)。    ( c-2 ) B love(s) A.(我ヲお前ガ好く)・     ~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 ▲ 岡, 智之:「主語」はない,「場所」はある : 場所的存在論による日本語主語論への一提案  ☆ について 論評します。  ▲ (《主語論理》と《述語論理》  pp.103-104 ) ~~~  (ω′)「主語論理」とは,  個々の主体または客体(存在者)から出発し,そうした主体または客体がおかれている所在=場所=述語をその主語に属する性質として論じる論理である。  (ω′‐1) たとえば,    ( i ) 「太陽は輝く」  という文では,太陽という主語が輝くという性質を有すると考える。  太陽という主語がまずあって,この主語に包摂されるものとして輝くという性質を述定するのである。  これは,先に述べた尾上の主語論の前提になっている論理である。  これに対し,  (α′) 「述語論理」は,  所在=場所=述語から出発し,その場所において包み込まれる主体や客体(存在者)について論じる論理である。  (α′‐1) 例えば,「輝く」という所在=場所から出発し,輝くものが包摂するものを同一のものとして論じるのである。  (ω′‐2) 主語論理からすれば,女性と太陽は,主語,主体としては明らかに異なるものである。しかし,  (α′‐2) 輝くという述語的同一性のもとで見るならば,女性も太陽も輝くものであり,「太陽は輝く」,「女性は(男性にとって)輝く」故に,「女性は太陽である」という結論を導く。  (α′‐3) 述語論理は,言語以前のイメージ的同一性を重視する論理である。  (α′‐4) また,述語論理は主語論理よりも基底的,根底的な論理であり,意識を形成するのが 主に主語論理であるとすれば,無意識を形成しているのは主に述語論理なのである。  ~~~~~~~~~  批判を展開します。  (1) 日本語が もし述語論理〔=(α′)〕に従う構文をつくるのならば    ( i ) 「太陽は輝く」  という主語論理〔=(ω′)〕の表現形式がどうして出来るのか? これについて 説明しなければならない。  欧文の翻訳形としてのみ現われるのであろうか?  (2) 次の文例は   ▲ 所在=場所=述語から出発し,その場所において包み込まれる主体や客体(存在者)について論じる   ☆ ものと見られる。これは 反証となる。   ( j-Jp. ) 明日、このしるしが起こる( Exod.8:19 )   ( j-Hbr )  לְמָחָר יִהְיֶה הָאֹת הַזֶּֽה         le-mahar yihweh   ha-ot hazeh         (to-morrow it-will-be the-sign this. )   ( j-E. ) to morrow shall this sign be.(Ex.8:23 )   ( j-Chinese ) 明天 必有 這神蹟。           (明日 必有 此のしるし)  すなわち《とき》としての《所在=場所=述語》が 取り立てて表わされていると考えられる。むろん この種の例はいくらでもあるはずだ。  (3) ちなみに 前項の文例をさらに ほかの言語で見てみよう。   ( j-French ) Ce signe  sera   pour demain.           ( this sign shall-be for tomorrow. )   ( j-German ) morgen soll das Zeichen geschehen.           ( tomorrow shall the sign appear. )   ( j-Russian ) Завтра будет сие знамение.           ( zabtra budet sie znamenie )           ( tomorrow shall-be this sign. )  ここでは わづかにフランス語文例が 《主語論理》のかたちを採っている。  (4) 述語論理(α′)ゆえに   ▲ (α′‐2) 輝くという述語的同一性のもとで見るならば,女性も太陽も輝くものであり,「太陽は輝く」,「女性は(男性にとって)輝く」故に,「女性は太陽である」という結論を導く。  ☆ と言っても そんなタトエは 主語論理の言語でもいくらでもあると言わねばならない。   ◆(旧約聖書・雅歌 2章) ~~~  2章 1節(女がみづからをたとえる) わたしはシャロンのばら、野のゆり。     I [am] the rose of Sharon, [and] the lily of the valleys.  2章 2節(男が女をたとえる)  おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。      As the lily among thorns, so [is] my love among the daughters.  2章 3節(女→男)  若者たちの中にいるわたしの恋しい人は 森の中に立つりんごの木。わたしはその木陰を慕って座り 甘い実を口にふくみました。  ・・・  2章 9節(女→男)  恋しい人はかもしかのよう 若い雄鹿のようです。ごらんなさい、もう家の外に立って 窓からうかがい 格子の外からのぞいています。  ・・・  ~~~~~~~  ☆ 主語論理というのは 主体意識のつよい表現形式であって そのような主知主義的な側面の問題であるのではないか? 近代人の理性にかかわるような。  それは 構文や文型との直接の対応を持つものではないと見られます。日本文などの(α)構文においても見られると言わねばならない。  また 述語論理は (α)構文にかなりなじむ表現形式だと見られるけれども 主格語を推し出す(ω)文型においても じゅうぶん用いられると見なければならない。  また (α)構文の日本文でも 主体意識を推し出した主語論理の表現はあり得ますから。  ○ 『おほきみは神にしませば 赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ』→    =おほきみハ おほきみガ 神にしませば 赤駒の・・・。    こう表現していると――現代から見て―― 捉えられます。  こう考えます。 

その他の回答 (13)

  • codotjtp
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回答No.15

私にとっての場合には、既存の回答のどれかがFavoritAnwserです。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしには 分かりません。

  • codotjtp
  • ベストアンサー率26% (40/149)
回答No.13

『自敬表現』と『謙譲表現』との歴史的な関係性が…。

bragelonne
質問者

お礼

 どうなんですか?

  • codotjtp
  • ベストアンサー率26% (40/149)
回答No.12

『自敬表現( http://s.ameblo.jp/aiaia18/entry-10396980495.html )』への深い理解は、 東洋文化圏の伝統の学習の為に、非常に重要です。 最近の韓流時代劇の吹き替えの場合にも、 当然乍ら、其処へ『自敬表現』が盛り込まれています。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですかねぇ。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.11

No..8です。いろいろ説明頂きありがとうございます。以下 素人の感想です。 述語論理日本語のなかで、意味的に主語論理を展開している場合がみられるという例題で『おほきみは神にしませば 赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ』『おほきみは神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ』をしめされてます。その通りとおもいます。しかし、主語を明確にして『神にしませばおおきみは(が)・・・・あと同じ』としなかったのです。これは7C、8Cにおいても 述語論理優先であっても主語論理は展開されるということだとおもうのです。現在に繋がっているように思います。ご指摘のように主語論理を含んでいるとも言えるし 2重構造ともいえる とおもいました。 その逆の例で『In the beginning was the Word』を示されています。英語においても 過去述語論理的表現は根強く あったということではないでしょうか。 よくわからないのは 世界全ての言葉は基本的に 主語論理と述語論理の2つ で十分に説明されるのでしょうか。第3の理論 あるいは まったく新しいみかた は現われないのでしょうか。何かあるような気がしますが。

bragelonne
質問者

お礼

 おうけい9608さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 主語論理と述語論理の2つ  ☆ この規定にそのままでは拠れないと思っていますが  ★ 第3の理論 あるいは まったく新しいみかた は現われないのでしょうか。  ☆ について知るところを記してみます。      *  ○ (能格言語のもんだい) ~~~~   1. 世界の言語の中には 能格( ergative )構文という文法を持つものがある。カフカース諸語やバスク語などである。  2. この構文は あたかも AハBガC構文とSVO文型との中間に位置するかのごとくである。  3. 能格構文の例を日本文と英文を交えて説明します。   ( g-Jp. ) 英語( A )は 彼( B )が 話せる( C )。   ( g-E. ) He speaks English. ( SVO 文型)    * 日常生活で話しているという意味で 《話せる》を表わしました。  この文を 能格構文では あたかも次のようなかたちで言い表わします。   ( g-能格言語):   ・能格文のイメージ:《英語ハ  彼ガ  he-speaks-it.》   ・線形論理層  :  O     S    S´‐V‐O´   ・  〃     : 対格    主格  〈主-述格-賓〉   ・主題提示層  : 中立格   能格  論述格〔法活用あり〕   ・  〃    : ≒Aハ   ≒Bガ  C´=〈S´‐V‐O´〉  4. すなわちそこでは 中心第一主題格(Aハ)を 《絶対格ないし中立格》として保ち 関係第二主題格(Bガ)を 《関係格ないし能格(ergative)》として (α)構文にとって一つの変種のもとに形成している。  5. ただしまた 論述C の成り立ちが違って来ている。  論述部として《用言述格X法活用》――日本語でC:《話せる》――という一般的なあり方に従うことは言うまでもなく当てはまるのだが そのほかに変化が生じている。  6. すでにその論述部の用言(動詞)C一個のうちに 主 S‐賓 O‐述 V の三項から成る格関係を表示する形態を採るようになっている。  7. したがって文全体としては 分析した場合には この《S-V-O》連関が重複するかたちを呈している。  8. これは――つまり述格(V)のほかの主格(S)・賓格(対格)(O)にかんしては―― 代名詞(代名接辞:S´・O´)を用いて表わしている。  この意味での用言の法活用形態は それ自身の内に S´‐V‐O´の形式と構文とを形成しているということになる。  9. もっとも そうは言っても 英文にしても この《C:S´‐V‐O´》の形式に近いものを持っている。   ( g‐E. ) He speaks English.  の文例で見るなら    ○ 述格用言《 speaks 》は 実際には《 he / she / it speaks 》という主(S′)‐述(V)の格関係の部分をもともと同じく形成している。  つまり 述格用言が 《S´‐V》という部分的な構文を宿している。賓格(対格)の要素=代名接辞O´はそこに ない。だけである。  10. だからあらためて 能格構文は印象風にこうである。  ・能格文の描像:《英語ハ 彼ガ  he-speaks-it.》  11. 能格構文が 日本文と同じように 主題提示の層をも保っているという根拠は 中立格(≒ハ格)が 自動詞文(述格用言が自動詞)においては 主格(主語)に立つことにある。《雨ハ降る》のたぐい。⇒《雨ハ 〔雨ガ〕 降る。》。あたかも この日本文のAハなる中心主題格と同じようにである。  12. 能格構文の第一主題格の中立格は 日本文のAハという第一主題格と同じように 意味連関を捉える分析において Aガという主格(主語)にもなれば Aヲという対格(賓格・目的格)にもなるという意味である。  13. 英文は 推測としては 能格構文のうちの論述部( C =〈 S´‐V‐O´ 〉形式)が 単独分立し 文の全体へと進出し そこで独立した文型と成っている。このように考えられまいか。  14. つまり日本文や能格構文が 主題提示と論理分析の二つの層を保っているのに対して 英文は 論理分析層ないし線形論理層の一本に絞って合理化したような形態である。  15. このような独特の構文を持って 能格言語は 日本文(AハBガC)と英文(S‐V‐O)との中間に――しかし決してあいまいにという意味ではなく あたかも折衷方式としてながらきちんと定まったかたちとして――位置しているように思われる。  ~~~~~~~~~~  ○ (バスク文の能格文例) ~~~  16. 文例( h-Jp. ): 人間ハ誰ガ造ッタカ / 人間ハ誰ニヨッテ造ラレタカ?  日本語構文: Aハ      Bガ  C  バスク構文: A-φ(ゼロ)  B-k  C  ( h-Bsq ): Gizon-a-φ  nor-k  egin-a   da ?  ・訳例1: 人-ソノ-φ   誰-ガ   造ル-ソノ ソレハ~ダ  ・訳例2: 〃-〃-φ    誰-ニヨリ  造ラレタ-モノ 〃  ・分析: (人)-定冠詞-中立格 (誰)-能格 (egin)-定冠詞-《S’-V》  17.  この能格形( nor-k )には 可能性として三通りの解釈が考えられる。   (あ) 他動主格(誰ガ)   (い) (あ)の主格形に対応する自動文としてのあり方(誰ニヨリ)   (う) 属格(誰ノ〔-造リ〕)   あたかも これら三つの分析例にまたがるかのようである。  18. その前提で 語句どおりに仮りに解してみれば  ( g-Bsq ):人間( Gizon )トイウモノ( -a ) ソレハ( -φ=ハ格  および da の一部)→ →(あ) 誰ガ( nor-k )造ル( egin-a )ナリヤ( da の一部)?  →(い) 誰ニヨリ( nor-k )造ラレシ( egin- )モノ( -a )ナリヤ( da の一部)?  →(う) 誰ガ(=誰ノ)( nor-k )造リ( egin-a )ナリヤ( da の一部)?  19. egin- は 作ルを意味する用言で 原形(語幹)である。あるいは不定法活用形である。  これが 原形として 受動相をも帯び得る。いわゆる過去分詞としての相認識となる。  そのことに呼応して 上の三通りの解釈形式が この能格構文に現われるかに見える。  仮りに英文で対応させるなら  ( g-Bsq ): egin -a  da  ・語の英訳: make-the  it-is  ・〃   : made-the it-is  ⇒・解釈例   (あ) it-is 〔who-〕make (《who-make》という一種の体言扱い)   (い) it-is  made   (う) it-is  the make(或いは whose-make )  20.能格構文はこのように S-V-O 文型にぴったりあてはめるものではないばかりでなく AハBガC 構文にも必ずしもすっきり対応しないとすれば その揺れやあいまいさは 両極(英文と日本文)からながめた場合なのであって 能格言語じたいにとっては きわめて明確なそれ自身の文法に則っているということなのだと考えられる。そう見なければならないと思われる。  ~~~~~~~~~~~~~  取りとめのないままですが まづはご紹介とします。

bragelonne
質問者

補足

 閉めるにあたって ひとこと申し上げます。  いつもお相手をしてくださって ありがとうございます。  大筋では 文の構造を 世界の諸言語について基本的な類型としては捉えたと思っているのですが なにぶん資料も関連主題も広範囲にわたります。まだまだ しっかりとした理論へと仕上げていかねばなりません。  能格言語についても もう時間を割いてていねいに勉強することがなくなっていますし あるいは やはり英文と日本文との比較対照においても 英語のネイティヴ・スピーカーの意見が欠かせないと思われたりしますし なかなか今は足踏み状態であるかと思います。  専門の研究者たちも これからさらに 研究を発展させて行くものと期待しています。《主語論理と述語論理》という準拠枠を築くに到ったということ 生意気なことを言えば よくもわるくも この段階に来たと思います。  さらに問い求めをつづけますとお伝えして 今回のこの質問は閉じようと思います。  ありがとうございました。 

  • codotjtp
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回答No.10

自敬・謙譲表現を盛り込める言語の価値『は』、…。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてになります。  そうですね。  ★ 自敬・謙譲表現を盛り込める言語の価値『は』、…。  ☆ ハ格やあるいはガ格を用いて 主題を次から次へと提示していく方式は 《自敬》および《謙譲》をそこに表現として盛り込める ということでしょうか?  まづ  ★ 謙譲表現  ☆ これは どの言語でもへりくだる人間がいる限り それとしての表現が表わされると思いますが どうでしょう?  ★ 自敬  ☆ ですか? 自己自身に敬意を表すること あるいは 自己自身を尊敬する えぇ つまり自尊心の表現 といったことでしょうか?  どうなんでしょう? それも 謙譲と同じくそう表現したい人間がいれば 言葉として表わされ得るとは思います。  そうすると 問題は これら自敬や謙譲の表現が ハ格やガ格による構文にもっぱら表わされるものであるのか? になりましょうか。  ううーん。何ともよく分からないですね。  ひとつ思ったことは ハ格などの主題提示による方式つまり(α)構文を日常使っている場合には いい意味でもわるい意味でも アソビやゆとりがその物腰に出て来るのではないか。  コミュニケーションにおいて 角を立てないといった口調に通じる。というようには 感じますが どうでしょう。

  • codotjtp
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回答No.9

「彼にとっては、望ましいのが『鰻』なのでしょうね。」 という解釈が妥当では御座いませんでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  これについて  ★ 「彼にとっては、望ましいのが『鰻』なのでしょうね。」という解釈  ☆ をするということでしょうか?  ★ 望ましい  ☆ という表現についてもう少し細かくその意味内容が知りたいと思いますが 要するに この《ぼく》は いま食堂にいて注文をするところです。要するに 《うなぎが食べたい》と言っているのだと思いますが それ以外の解釈があるといったご回答でしょうか?    次にもご回答をいただいていますので そちらへ移ります。

回答No.7

どうもです。 ☆☆☆ 僕のおこなった動詞を中心とした《木》を構文解析とbragelonneさんの構文解析は、同じものだと思います。 僕はただ数学の知識を使って、図にしただけですから。 英語について、ちょっと試してみたのですけれども、tree《二分木》は、SVO型の構文解析に、結構、使えますよ。(SVOO文型は、二分木では原理的に不可能です。三分木にすれば可能なはずです) 関係代名詞を含む、 The dog which attacked a cat eats a sausage (that) I made. なんかも機械的に二分木で構文解析できますし、その二分木をもとにコンピュータで元の英文を完全に復元できます(プログラムは作っていませんが、僕でも簡単に作れるはずです。関係代名詞が目的格の場合、ちょっとズルが必要ですけれども....省略すれば、その部分はSV文型になります)。 He says a cat kills a mouse. 名詞節を含む場合も大丈夫(thatがあると不具合が!!)。 形容詞が名詞を修飾する場合は、形容詞を名詞にくっつければ問題なし。 問題は、(動詞を修飾する)副詞と、副詞句、副詞節です。あと、to不定詞。 これを含む場合は、もっと複雑な仕組みが必要のようです。 だからかな、英語では、副詞と副詞句の位置の自由度が大きいの.... ☆☆☆  8. つまりラテン文では SVO 文型という(ω)形式の原子核はまだ完全には形成されていないと考えられます。つまり 英文では――ラテン文における語の活用語尾( Paul-us ; Petr-um の -us や -um )を落としてしまっていて―― 語順を変えると 意味も変わります。 動詞の活用だけでなく、冠詞、形容詞、名詞の性と格変化の数の多さが、印欧語の祖語の語順の自由度を保っていたのでしょうね。英語は、冠詞と形容詞の格変化、名詞の性を完全に捨てた。代名詞以外、名詞の格変化もない。それで、語順が重要になった。あるいは、語順がしっかりと固定されたから、それらを捨てられたのか、そのあたりは、鶏が先か、卵が先かの話になるのでしょうね。 ☆☆☆ ☆ ということであれば それは 自己表現に際して   (1) 内面における発想の段階での先行のことを言うのか? それとも   (2) 文として表現する段階での先行・後行を言うのか? あるいは   (3) すでに成立している文をあとから分析するときに(1)の場合を――話し手とは別の人間が――考えてみるということなのか?  あくまで、構文的なものです。なので(2)の意味です。 ☆☆☆ 前回の積み残した問題です。 ☆ 用言の《うるはし》が先か それとも体言の《やまと》がか? この問題ついて、考えてみました。 《わたしは、うなぎが食べたい》 これはどう考えても、《うなぎ》が先に頭に浮かびますよね。 《うなぎ》→《食べたい》→《わたし》 の順番で連想しますよ。 頭の中で連想するのは、用言が他動詞を含む場合、 述部{《名詞》→《他動詞》}→《主部》 になるみたいです。もっとも、目的語にあたる物が一つしかない場合、選択の余地がないので、頭に真っ先に浮かぶのは《食べる》になるのでしょうけれど。それは、《欠けた目的語名詞》φとおくことにする。 ということで、述部に名詞と他動詞がある場合は、《名詞》→《他動詞》の順でいいのではないでしょうか。 問題は、《うるはし》と《やまと》ですよ。 《花が美(うつく)し》 人間が認識するのは、《美しき花》ですよね。日本人が概念的思考を行うとき時、当然、日本語で考えるわけですから、《美し》が先行するはずです。その後、《花》が頭に浮かぶことに。 なので、 《美し》 が先なのではと。これは、《美しき花》を見たときに、何か一言ぽつりと無意識に口にするのが 《美し》 であるのと合致します。 英語でもそうですよね。目に入るのは《a beautiful flower》。ぽつりと一言つぶやくとしたら、やはり 《beautiful》 でしょう。 これから類推するに、 《うるはし》 が先になるのではないでしょうか。 形容詞は感情表出そのものなので、おそらく、洋の東西を問わず、頭の中では、形容詞が名詞に先行するのではないでしょうか。 ひょっとしたら、これが名詞を修飾する場合の形容詞の語順とも関係しているのではと、そのようなことも考えております。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  僕のおこなった動詞を中心とした《木》を構文解析とbragelonneさんの構文解析は、同じものだと思います。  僕はただ数学の知識を使って、図にしただけですから。  ~~~~  ☆ コンピューター言語でしたか。わたしは 勉強していません。それに 例の生成文法が 文についてツリー状の分析を示したことに ひとつにはそれは当たり前であり ひとつにはそれは日本文には当てはまらないと思ったこととで 失望し もう省みなくなりました。  でも 英文は コンピューター言語にとってつごうがよいのでしょうね。  ▲ (ヰキぺ:構文木) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E6%96%87%E6%9C%A8  文例:今日は 晴れました。  これについて 主語と述語から成るという分析です。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにも いまのわたしとしては 戸惑います。  ○ 今日ハ 〔天気ガ〕 晴れた。: Aハ Bガ C。  だと見るし 基本的にこう見なければならないと考えるからです。《今日ハ》も《天気ガ》も 自由電子であり 量子でさえあるかと思うからです。  ★ ~~~  問題は、(動詞を修飾する)副詞と、副詞句、副詞節です。あと、to不定詞。  これを含む場合は、もっと複雑な仕組みが必要のようです。  だからかな、英語では、副詞と副詞句の位置の自由度が大きいの....  ~~~~~  ☆ ですから 語句が文においてその位置づけや意味連関に対して自由度を保つ構文(α)とほとんど完全にその自由度をなくした文型(ω)との両極〔およびその中間〕を そのどちらも重要であると見なくてはならないと思います。     *  ★ ~~~  ・・・英語は、冠詞と形容詞の格変化、名詞の性を完全に捨てた。代名詞以外、名詞の格変化もない。それで、語順が重要になった。あるいは、語順がしっかりと固定されたから、それらを捨てられたのか、そのあたりは、鶏が先か、卵が先かの話になるのでしょうね。  ~~~~~  ☆ じつは すでにちらっと触れていますが 漢文は定まった語順〔だけ〕で成り立っている言語だと見ます。  もともと 体言の性・数・格も持たず 用言の時制や人称変化や法判断は それをやはり持たないと言ってもよいほど ただそれを担うほかの語をあてがって行くのみだと見られます。つまり  始原的な主題の羅列方式: T1・・・T2・・・T3・・・Tn  から始めて むろん Tn = P という論述の決定を俟ってですが あとは 言語習慣としての語順がさだまったかたちになって それとして構文ないし文型を確立したものと思われます。  自由電子のごとき各主題を並べ立てて行って 語順が決まったから   ・我 愛 你(=汝)。   ・I love you.  というような極北の SVO なる(ω)文型と奇しくも一致したというかたちだと見ます。我も愛も你も それぞれ自由電子であることを保ってさえいるかも分かりません。ただ 語順によってそれら全体が 意味連関を示す原子核と成ってもいる。のだと。  あるいは《愛》という語は 体言であるのかあるいは体言にかかわる動きやさまを示すための用言であるのか つねに分からない自由度を持つ――基本的にそうである――と見られます。言わば(α)構文から(ω)文型までのさまざまな構文ないし文型を ひとつの言語として 採りうるきわめて特異な成り立ちだと思われます。  中国文が コンピューター言語にとって どう扱われているのか 分かりませんが それと合わせて 英文の特異さについても あらためて認識して行く必要があるのではないかと考えます。  ネイティヴ・スピーカーからのご回答があるといいですね。   *  ★ ~~~   ☆ 用言の《うるはし》が先か それとも体言の《やまと》がか?  ・・・  ということで、述部に名詞と他動詞がある場合は、《名詞》→《他動詞》の順でいいのではないでしょうか。  問題は、《うるはし》と《やまと》ですよ。  ~~~~  ☆ これにつきましては まだわたしは どちらもあり得るという見方でいますが――というよりは この先行・後行の違いについて それほど問題点が何であるかをまだ捉えていないと言うべきかと思います が―― 次のご見解については 少し自分の見方を持ちました。  ★ ~~~  《花が美(うつく)し》  人間が認識するのは、《美しき花》ですよね。日本人が概念的思考を行うとき時、当然、日本語で考えるわけですから、《美し》が先行するはずです。その後、《花》が頭に浮かぶことに。  なので、  《美し》  が先なのではと。  ~~~~  ☆ すなわち この場合というのは 語とそのイメージとを分けて考えると 分かりやすいのではないか。 すなわち 《美し》が《花》という語に おそらく先行するのであるが しかもそのとき《花》のイメージのほうとしては すでに おそらく同時に 思い浮かんでいるのではないかと。  何だかずるい解を見つけたような感じですが あり得るのではないかと。  ★ 形容詞は感情表出そのものなので、おそらく、洋の東西を問わず、頭の中では、形容詞が名詞に先行するのではないでしょうか。  ☆ ですから  ○ 形容詞が 語としての名詞に先行するというとき その名詞の持つイメージとしては すでに形容詞とともに同時に先行している。のではないか。  と。  ★ ひょっとしたら、これが名詞を修飾する場合の形容詞の語順とも関係しているのではと、そのようなことも考えております。  ☆ これは いまのところわたしには 分かりません。決められません。  なぜなら 修飾する場合の形容詞の語順は 名詞に先行する場合も後行する場合も どちらも おそらく互いに有意であるかたちで 世界の諸言語には見られると思うからです。  ▲(ヰキぺ:語順) ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%9E%E9%A0%86  ・句の語順  《先行型》:修飾語 + 被修飾語: 形容詞 + 名詞、副詞 + 動詞など。SOV 型に多い。    《後行型》:被修飾語 + 修飾語: 名詞 + 形容詞、動詞 + 副詞など。VSO 型に多く、SVO 型にも比較的多い。  ~~~~~~~~~~~~~    *  ひとまづ落ち着いたようにも思われますが この問題については いろんな主題がまだまだ出て来そうです。  ネイティヴ・スピーカーの参加が俟たれますね。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄での中国文の分析についておぎないます。   ( d-Chinese ): 我 愛 你(=汝)。   ( d-English ): I love you.  この中国文は 英文と比べてみても その(ω)文型の SVO 形式とまったく同じだと見られるわけですが 必ずしも――もしくは たぶん決して―― 同じ成り立ちではありません。  やはり始原的な主題( T )の羅列のかたちから来ていて しかもそのかたちを無くしているわけではないということを示します。  まづ   ・ 始原的な主題の羅列方式: T1・・・T2・・・T3・・・Tn  が仮定されます。ここから いづれかの主題が 《答え》を表わす論述主題(P)となります。たとえば Tn = P です。  そうして 一般に主題(および論述主題)を三つの事項としてあつかうなら 次のように論述主題(P)が決まると見ます。   ・ 三項形式: T1・・・T2・・・T3(=P)      または: T1・・・T2(=P)・・・T3  したがって 中国文( d )は 後者のばあいにあてはまるという仮説としての見方になります。  なぜなら   ( d-Chinese ): 我 愛 你(=汝)。     は その文意についていくつかの解釈を許容すると思われるからです。   ( d-Ch. )の解釈例:     1. 我が愛は你(なんぢ)なり。     2. 我が愛は你に。      3. 我れは愛す。你を。     4. 我れを愛す。你は。  このうち 解釈例(3)つまり SVO 形式だと決まっているのは ただただ言語習慣がそう成って来ているからだと考えられます。語順によって 二番目の主題( T2 )が 論述主題( P )を表わすという慣習法が 不文律として成り立ったからであるに過ぎないと見られるからです。  〔ほかに T1 が論述主題を表わす取り決めもあります。行為主格ではなく 自然現象などの現象主格のばあいです。   ・下 雨。(=雨が降る。《降る雨》という意味ではなく)。〕

回答No.6

こんばんは、です。 ☆☆☆ 日本語と英語の構文解析(意味ではなく動詞を中心にした)を行ってみたのですが、日本語はheap構造型の言語、英語(印欧語)は順序をもったtree構造型の言語になりそうですね。 heapとは、treeとはなんぞ? とツッコミを入れられると困ってしまう… heapとtreeは難しくはないのですけれど、ことばによる説明には困ってしまいますから。 ☆☆説明 SVO型の文で言うと、 《I love you.》 これは、動詞を中心にして{I, love, you}と分解されます。この時、loveを根っこにして、二股の枝を書いてください(数学の樹形図のような奴、もしくはトーナメント表のような奴)。左枝の先にはIを置き、右枝にはyouを置く。この時、左枝と右枝には順序があります。左右の枝を反転させ{you, love, I}は文として成立しない。格変化させて{You, love, me}では意味が変わってしまう。まぁ、これがtree構造のイメージです。 対する日本語、 《わたしは君を愛す。》 これも動詞を中心にして分解すると[わたしは, 愛す, 君を] これをさっきの要領で、《愛す》を根っこにして、二股の枝を、書その枝の先に《わたしは》と《君を》をくっつけてください。 でも、日本語は英語と違って、左枝の《わたしは》と右枝の《君を》を交換しても、意味はまったく同じです。[君を, 愛す, わたしは]でも意味は同じ。これがheap構造。 すこし洒落て言うと、日本語の文は、深さ(縦方向)には順序があるけれど、幅(横方向)には順序がない。これが日本語の文の基本的な構造です。英語の文は、深さと幅にも順序関係がある構造をしている。 あくまで、簡単なSVO型の文の場合ですよ。 実際の文は、二股の木《二分木》ではなく、何本も枝がニョキニョキと生える《多分木》になって、かなり複雑な木になります。修飾語と被修飾語では、英語でもheap構造らしきものが発生する。日本語では、tree構造らしきものが発生する。でも、原理的には自然言語もこの木で表現できるはずなんです、たぶん.... SVC構文も同様に構造解析できます。 形容詞が補語Cになる場合は、動詞として《なり》でも追加しておいてください。 たとえば、 《わたしは美しい》→《わたしは美しい、なり》 これ、結構、おもしろそうだな。時間があったら、コンピュータサイエンスの言語論でも勉強してみるかなぁ… (いつになることやら、笑い) ☆☆☆ 《わたしは、注文がうなぎだ》!!  日本語と英語ともに、一人の客が飲食店に行った場合、  《うなぎ》、《an eel》で店員との会話は成立するだろう。  しかし、ここで《猫》、《a cat》と言った場合、それを聞いた店員はどのような反応をするのだろうか?  日本人の店員なら、《猫だ》、《猫がいる》、《猫が入ってくる》とかに解釈するのではなかろうか....  では、英語圏なら....。客が正気を有しているかどうか、疑われる....  どうなんだろうか? EnglishのNative Speakerにちょっと聞いてみたい気がする。  もし、店員の反応に違いが現れるとすれば、なにゆえに異なるのであろうか?  それは、言語の甘え構造に由来するのか、はたまた、言語構造の根本的相違から来るのであろうか....  《わたしはうなぎだ》でも会話は成立する。《I am an eel》では、やはり店員に正気を疑われてします。はてはて.... >☆ 用言の《うるはし》が先か それとも体言の《やまと》がか?  頭の中で《わたしは》、《注文が》、《うなぎだ》が同時に発生したが、言語で表現する時、《注文が》を省略したと考えるべきなのか、そもそも《注文が》というイメージが頭に発生しなかったのであろうか?  これは、どのように考えるべきなのだろうか?  《よく、分からない。》  英語をNativeとする人は、《I》と《an eel》のイメージが頭に真っ先に浮かぶのであろうか....それから、《order》または《am》?  《わたしがうなぎ》ではどうだろうか。さすがに、日本でも、店員に、僕が正気を有しているのかを疑われてしまうのであろうか.... ☆☆☆ ☆ 主題は 自由電子か? 量子として見るなら? にかかわるかと。 《僕は注文がうなぎだ》の文の場合、 《うなぎだ》が原子核で、《僕は》、《注文が》がそれぞれで同程度の意味しかもたない自由電子だと考えます。原子核との力の結び付きが弱いから、どこかに飛び去って消えてしまうことがある。しかも、《僕は》と《注文が》は原子核と同程度の結びつきしか有していないから、どちらが残っても、表現として完結してしまう。その消え去った方が意味の曖昧さをもたらす。《甘え》が発生する。 それに対して英語は、《order》は求心力が強い。そのため、電子である《I》と《an eel》は束縛され、けっして離さない。それゆえ、曖昧さが消える。 こう考えては、いかがでしょうか? ☆☆☆ ○問題は 文のつくり 文の成り立ちが 用言から先に言い始めて行くのか それとも 名詞を先行させるのか。ということでしょうか? 冒頭で紹介した動詞中心ではなく、ごくごく簡単な文について、日本語の用言に重点をおいた構造分析も頭の中でちょっとやってみたのですけれど、たぶん、用言がベースになりそうな雰囲気です(あくまで、言語の構造です)。 機能定義というか、再帰定義というか、日本語の風呂敷構造の出発点は用言になりそうです。単語単体の場合は、空(から)の用言φを仮定すれば、なんとか上手くいきそうです。 この予測が正しければ、日本語の曖昧さは、出発点である用言にいくつ階層的な処理を施したか、その打ち切りの程度で説明がつく。簡単に言えば、玉ねぎの皮みたいなものです。皮の枚数が厚くなればなるほど、日本語の文の意味はより正確になる。でも、早い段階で処理を打ちきっても、曖昧さを含むけれど、意味は伝わる。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは ねむりねこさん。ご回答をありがとうございます。  今回は まだ必ずしもご見解の内容を把握し得ていないところがあるかも分かりません。  言いかえるなら 受け留めたあとの率直な反応をそのまま述べてまいります。  § 1 言語の《 heap 構造型 / tree 構造型》  ★ ~~~~  日本語と英語の構文解析(意味ではなく動詞を中心にした)を行ってみたのですが、日本語は heap 構造型の言語、英語(印欧語)は順序をもった tree 構造型の言語になりそうですね。  ~~~~~  ☆ ずばりわたしの解析を 対抗馬として述べます。  ○ (言語の《 heap 構造型 / tree 構造型》) ~~~  1. 《語句の順序の決まった樹状》形態 これが全体として (ω)文型としての《原子核》です。  2. この原子核のごとき・たとえば SVO 文型なる樹状のその上に(その周りに) 少なくとももうひとつの階層が持たれているのが (α)構文としての《電子および原子核》から成る原子です。  3. (α)構文において SVO 文型なる原子核は 文に必ずしも表示されていません。見えません。見えているのは 主題( A; B;・・・)として提示されたあたかも電子のごとき浮遊物だけです。  4. けれども 変なかたちになりますが それら電子たちが 文意の認識にあたって 整列するかのごとくして 射影というのでしょうか 原子核としての SVO なる意味連関をしめしてくれる。こういう仕組みになっているはずです。    5. ですから この仮説にしたがうかぎりでは 英文などの(ω)文型言語では 原子核だけで独立してしまったのではないか。このように推理されます。  6. 印欧語でも旧くは 自由電子を持ち得ていたようです。   (σ)文型:ラテン文において    ・ Paulus laedit Petrum.     =  Paul hits Peter.  7. 説明を省かないとしますと ここで Paul-us(パウロが)は主格に活用しており Petr-um(ペテロを)は 対格に活用しています。したがって この文の語の順序を入れ替えても 意味が同じ内容として通じます。    ・ Paulus Petrum laedit.    ・ ≒ Petrum Paulus laedit.    ・ ≒ Laedit Paulus Petrum.  8. つまりラテン文では SVO 文型という(ω)形式の原子核はまだ完全には形成されていないと考えられます。つまり 英文では――ラテン文における語の活用語尾( Paul-us ; Petr-um の -us や -um )を落としてしまっていて―― 語順を変えると 意味も変わります。    ・ Paul hits Peter.     ・ ≠ Peter hits Paul.  9. 英文は 《決まった語順における主(S)‐述(V)‐対(O)の格結合》としての原子核を構成してしまったし すでにその原子核のみによって 意思表示に用いる文を確立した。極北の詩人であるのか はたまた 密林の聖者であるのか。  ~~~~~~~~  ☆ 考えてみれば 日本文や韓国文における(α)自由構文において 自然本性にしたがう《聖なる甘え》が保たれ得ると推し測ってみたり あるいは実際の社会生活において放恣自由にしたがうというような《社会力学上の甘え(依存関係 あるいは クウキ)》を醸成する傾向がつよいと捉えてみたりするのなら  そうするのなら ぎゃくに:   10. ~~~  英文をもっぱら用いる言語生活というのは 《聖なる甘え》ももうとっくにどこかへ置いて来ているし 社会生活上の《甘えやクウキ》の醸成ももはや省みないものなのか? こういう問い求めも しておきたい気持ちになりますね。  ~~~~~~~  ☆ このことには 気づいていたような いなかったような。    § 2 用言は 動態用言と状態用言に分かれ いづれも 法活用を持つ。  ★ ~~~  形容詞が補語Cになる場合は、動詞として《なり》でも追加しておいてください。  たとえば、  《わたしは美しい》→《わたしは美しい、なり》  ~~~~~  ☆ 状態用言つまり形容詞(また形容動詞)も 法活用つまり《話者の判断を示すかたち》を持ち得ています。     ・ うつく‐し。(美‐しい):存続法ないし断定法  存続法とは――いわゆる《終止形》ですが―― 用言の意味内容を《動態ないし状態の存続》というかたちに捉えたその判断です。この場合 英文での《 V-C 》が一体となったかたちだと見られます。  § 3 英文という言語生活!?  (10)の問いと同じような趣旨として:  11.★ ~~~  《わたしは、注文がうなぎだ》!!  日本語と英語ともに、一人の客が飲食店に行った場合、  《うなぎ》、《an eel》で店員との会話は成立するだろう。  しかし、ここで《猫》、《a cat》と言った場合、それを聞いた店員はどのような反応をするのだろうか?  日本人の店員なら、《猫だ》、《猫がいる》、《猫が入ってくる》とかに解釈するのではなかろうか....  では、英語圏なら....。客が正気を有しているかどうか、疑われる....  どうなんだろうか?  EnglishのNative Speakerにちょっと聞いてみたい気がする。  ~~~~~~~  このとき  ★ 《わたしがうなぎ》ではどうだろうか。さすがに、日本でも、店員に、僕が正気を有しているのかを疑われてしまうのであろうか....  ☆ これは 次の場合には成立すると考えられます。つまり そこで客となっているほかの誰かが 《うなぎは 誰だったっけ?》と尋ねたとき 《わたしがうなぎ》と名乗る場合です。それ以外では おかしな表現になりましょうね。  § 4 最後のふたつの論点  § 4-1 ☆ 主題は 自由電子か? 量子として見るなら? にかかわるかと。  § 4-2 ○ 問題は 文のつくり 文の成り立ちが 用言から先に言い始めて行くのか それとも 名詞を先行させるのか。ということでしょうか?  これらについてのご見解は お応えがむつかしいと受け留めています。  § 4-1は だいたい § 1 言語の《 heap 構造型 / tree 構造型》 に述べた考え方で受け答えが出来ているかと思います。  § 4-2は 分かったような まだ分からないような状態です。  ★ たぶん、用言がベースになりそうな雰囲気です(あくまで、言語の構造です)。  ★ 機能定義というか、再帰定義というか、日本語の風呂敷構造の出発点は用言になりそうです。  ☆ わたくしは 前回 主題として提示される体言が先行する場合もあれば 論述にあてられる用言が先行する場合もあると考えましたが これはまだ持ち続けています。もし  ★ 風呂敷構造の出発点は用言になりそうです。  ☆ ということであれば それは 自己表現に際して   (1) 内面における発想の段階での先行のことを言うのか? それとも   (2) 文として表現する段階での先行・後行を言うのか? あるいは   (3) すでに成立している文をあとから分析するときに(1)の場合を――話し手とは別の人間が――考えてみるということなのか?   といったふうにも受け取りましたが まだよく分かりません。    こういったところでしょうか? どうでしょう。

回答No.5

おはようございます。 ☆☆☆ そうなのかなぁ? 僕は、もっと言語の根源的なところからきていると思うのですけれど。 言ってみれば、日本語は、用言支配型の言語で、印欧語は名詞支配型の言語で、《は》《が》はそれで説明できるのではと。 《わたし》は《うなぎ》が《好きだ》。 これは、《好きだ》という感情表出が最初にあって、その説明のために《うなぎが》つく。 《うなぎが好きだ》 で不十分な時には、《わたしは》が付き、 《わたしはうなぎが好きだ》 になる。 まさしく、《風呂敷》構造。 でも、これは名詞支配型の印欧語では成立しない。動詞の[love]はあくまで、名詞[I]と名詞[eel]をつなぐ接着剤程度の役割を持っていないから、どうしても I love an eel. となる必要がある。 ドイツ語などは、主語の人称によって動詞が活用するので、必ずしも主語は必要としませんけれど、その前提として[Ich]の存在があり、動詞はそれにひきずられて活用する[lieben→liebe]。 あるいは、こう言ってもいいのかもしれません。 印欧語(英語)の場合、頭の中に最初に[I]と[eel]が浮かんで、それからそれを意味連絡する接着剤の動詞[love]が出てくる。日本人は、《好きだ》が生まれ、次に《うなぎ》、次に《わたし》が。それが、《わたしは、うなぎが好きだ》を生む。 さらに、極論をすれば、日本人は用言から発想し、用言の拡大である述部、そして主語の役割を果たす主部を発生する。 主語の役割を果たす主部は、聞き手にお任せする。お任せして理解できないと判断した時、おまけである《主部》《主語》をつける。《わたしは》は所詮おまけだから、その意味は漠然としていても構わない。そこに曖昧さが発生し、《聖なる甘え》が生まれる。 本当かな、嘘くさいな.... ☆☆☆ 考えてみれば、 《わたしは、うなぎが好きだ》 という文、 《象は、鼻が長い》 とは違って、奇妙な文だよな..... 《鼻が長い》の主部(主語)は《鼻》だけれど、《うなぎが好きだ》の《うなぎ》は.... An eel is favorite. だから、主語でいいのか.... ということは、 《わたしは、うなぎが好きだ》はSVO構文ではなくなる.... 英語に訳せば非線形構造ではない。これは、線形構造に還元できるになる.... あえて《わたしは》を付加すれば、 [An eel is favorite of me.] or [An eel is favorite with me.] とかになるのではなるのではあるまいか.... だとすれば、SVC構文としてほんらい議論をするべきなのでは.... 《わたしは》がおまけであるように、[of me]もおまけではないか.... この場合に関しては、意味的には、日本語でも英語でも同じなのではあるまいか。曖昧さの程度も含めて.... だとすれば、 《象は、鼻が長い》は Elephant's nose is long. でいいのではなかろうか.... これは A nose which an elephat has is long. と同じ意味だ.... どちらも、SVC構文ではないか.... だとしたら、このbragelonneさんの今回の論理展開は、基礎から崩れるな.... そもそも、用言支配型、述部支配型の日本語にはSVC構文はありえない.... って、言うよりも、SVO構文そのものが、本来、日本語にはありえない.... 日本語にあるのは、主部、述部構造だけだ.... と言うよりも、そもそも 関係代名詞を持つ英語などの印欧語が非線形構造をもっているのであって、ぺたぺたと修飾語を被修飾語に羅列的に張り付け可能な日本語こそ線形構造と言うべきなのではなかろうか.... 数学でいう《線形》とは重ね合わせだよな....言語構造に対する《線形》とはペタペタと並列的に修飾語を並べられるという意味と解すべきではあるまいか.... 日本語の用言の活用ならびに助詞は、この線形構造の確保のために発生したのではなかろうか.... だとすれば、日本語のもつ《甘え》構造は、線形構造のために発生したと言うべきなのではなかろうか.... と、わたしの《おつむ》は申しております。

bragelonne
質問者

お礼

 さらにおもしろくなってまいりました。    お早うございます。ご回答をありがとうございます。  § 1 自然科学の用語を勝手に使っていることについて  まづ あとでバレても仕方がありませんので先に申しますが わたしは理科系の知識がとぼしく急ごしらえであることをおことわりします。《線形・非線形》などを使ったことも――事件になる気遣いはないでしょうが―― ソーカルさんに叱られそうです。どうかご指導のほどをお願いしておきたいと思います。    § 2 舌の根も乾かない内にたとえを用いますが (ω)文型――いまはこれを SVO 文型に代表させている――は言わば原子核であり (α)構文は そのほかに主題提示という電子が飛び交うかたちをふくめた原子である。  § 2-1 これは 能格言語のかたちづくった(λ)構文から 言えると思われます。〔No.4お礼欄(22)・(23)〕    (λ)構文:Aハ Bガ C(=S′-V-O′)。  《われハ きみガ 好きだ》なる文例としてたとえてみれば:        (λ)構文:われハ きみガ I-love-you.  (ω)文型につうじるところの《 C(=S′-V-O′)= I-love-you 》が原子核であり (α)構文を保持するところの《 Aハ Bガ = われハ きみガ》がそれぞれ自由電子です。  § 2-2 ★ 数学でいう《線形》とは重ね合わせだよな....言語構造に対する《線形》とはペタペタと並列的に修飾語を並べられるという意味と解すべきではあるまいか  あっけにとられてしまわれるかも知れませんが SVO 文型におけるように行為(V)の主(S)客(O)が直線的に決まる場合を 線形と言っています。そこへさらに自由電子(A/B)を擁する場合は 非線形であると。  というのは 原子核たる論述部のほかに 二つの主題(ハ格=中心主題およびガ格=関係主題)ないし副次の主題(ヲ格=対格やニ格=与格などなど)としての電子を どれだけ・いかに配置するか この問題だと見られるからです。  (ただし 線形・非線形の数学としての理解がズレてしまっていたなら 見直しをせねばなりません)。  § 2-3 ★ ぺたぺたと修飾語を被修飾語に羅列的に張り付け可能  ☆ これは 基本主題や副次主題につく修飾語句のことですが だいたいにおいて(α)構文ではそれは やはり自由電子を増やすようなかたちではないかと思われます。  それにくらべると  ★ 関係代名詞を持つ英語などの印欧語  / A nose which an elephat has is long.  ☆ の場合は その修飾語句ないし関係節も それとして SVO 文型を当然のごとく保ち それはやはりひとつの原子核として成り立っている。  すなわちぎゃくに言って (α)構文では この原子核の姿は あいまいである。つぎの( b -3 )の文例です。   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。   →(解釈を交えての言い換え文例):    ( b-1 ) 象ノ鼻〔ハ その鼻〕ガ 長い。    ( b-3 ) 象ノ‐持つ‐鼻ハ ・・・  すなわちこの場合 《持つ》なる用言述格に対して《象》は 主格となる。つまり SVO 文型をかたちづくり 原子核の姿をとることとなる。  ところがしかも同時になお 《象ノ・・・鼻》というように ノ格は 属格として《象》および《鼻》なる体言どうしを直接につなげる役目を持つ活用格であって これをまだなお保持しつづけていると見られる。  つまり確かに(α)構文においては 主題体言を条件づける修飾語句を――原子核から離れて 電子としてのごとく――自由にべたべたと貼り付けることが出来るようです。    ( b-3-1 ) 象ガ‐持つ‐鼻ハ・・・  というようにノ格に代えてガ格を持って来ても同じです。関係主題格のガ格の派生用法と言いますか むしろその前身の用法として ノ格と同じく属格の役目を持っていました。つまり 《我ガ国 / 千鳥ガ淵》などと同じであり 《象ガ(=象ノ)・・・鼻》という仕組みに成っています。  § 3 ★ 言ってみれば、日本語は、用言支配型の言語で、印欧語は名詞支配型の言語で、《は》《が》はそれで説明できるのではと。  § 3-1 述語の用言が担う述格 これが文のほかの活用格つまり主格や対格や与格のすべてを意味上支配するのは 当然です。それは どの言語にも当てはまります。  問題は 文のつくり 文の成り立ちが 用言から先に言い始めて行くのか それとも 名詞を先行させるのか。ということでしょうか?  あるいは 文の中で《問い》をになう主題部を先に言い出すのか。それとも 《答え》を担う論述部が先か。    § 3-2 これは どちらもある。決まっていない。と考えました。  ただし  ★ ~~~  これは、《好きだ》という感情表出が最初にあって、その説明のために《うなぎが》つく。  《うなぎが好きだ》  で不十分な時には、《わたしは》が付き、  《わたしはうなぎが好きだ》  になる。  まさしく、《風呂敷》構造。  ~~~~~  ☆ この例では 《主題部が先か 論述部か》というよりも どちらもほぼ同時に感じたり思ったりまた判断をしたりしていると思われます。  《好きだ》と言ったのなら それは《うなぎ》という主題がすでに出ているからそれについて言ったのだと思われるからです。  つまり 《好きだと言えるのは 何なにか?》といった主題提示が先行する場合ではないと言えましょうから。  § 3-3 主題体言なる《やまとハ くにのまほろば》と用言論述なる《うるはし》は どちらが先か?  次のような議論の用意があります。  ○(やまとは くにのまほろば) ~~~  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と声を発した。この場合 ただ ハアーッと息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     ’u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。  ~~~~~~~~~~  ☆ 用言の《うるはし》が先か それとも体言の《やまと》がか?  けっきょくどちらもありうると見ました。あるいは 言いかえると はじめの《 HA =は》つまり 《やまと‐ハ》の――のちのちの――ハ格 これが用言と体言とを両にらみのごとく捉えて 最初だったかも分かりません。  この捉え方は どの言語にも 初源のかたちとして当てはまるものと考えます。いきなり最初の最初から(ω)文型を用いる言語が生まれたのでなければ そうだと見ます。  § 4 次の論点はお応えし残していますが 横着を言えば いまいちど再考を加えて《ツッコミ》を入れてくださるのではないかと思いますが どうでしょう?  ★ だとすれば、SVC 構文としてほんらい議論をするべきなのでは  ☆ SVC 文型については 違いは出ないと思われます。《やまと‐し うるはし。 / Yamato is superb. 》なる SVC 文例は AハBガC なる(α)構文としても SVO 文型なる(ω)文型としても ほぼ同じようです。  ★ 甘え / 聖なる甘え  ☆ 主題は 自由電子か? 量子として見るなら? にかかわるかと。

回答No.4

こんばんは。 ☆☆☆ だいぶ前のことなので、著者・書名すら忘れていますが(何だったかな、《日本語の論理》講談社学術文庫かなにか…)、 日本語は《風呂敷》言語だ!! という本を読んだことがあります。 日本語は、言語の構造があたかも風呂敷のように、次から次へといろいろなものを包んでしまう。 それに対して、印欧語は、動詞、前置詞などで名詞を連結する。 このような内容のことを書いていたと思います。 たしか、その本で、日本語と印欧語の文の具体例をあげ、その文の構造を図示していたように思います。 だいぶ昔の話のことなので、内容の方はすっかり忘れてしまいましたが。 c ) 私ハ お前ガ 好きだ。 の場合ですと、 《お前》が《好きだ》をつつむ、{おまえが{好きだ}}。 さらに、 《私》が{おまえが{好きだ}}をつつみ、{わたしは{おまえが{好きだ}}みたいになる。 英語のI love you.は Iー[love]ーyou みたいな感じで。 参考になればと…。 ☆☆☆ 漠然とした疑問なのですけれども、印欧語で誕生・発達した文法学を改善して、 言語構造のまったく異なる日本語に適用できるものなのでしょうか。 もっと基本的なところから構築をしなければならないのでは、 などと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  § 1 ★ 日本語は《風呂敷》言語だ!!  ★ ~~~   c ) 私ハ お前ガ 好きだ。  の場合ですと、  《お前》が《好きだ》をつつむ、{おまえが{好きだ}}。  さらに、  《私》が{おまえが{好きだ}}をつつみ、{わたしは{おまえが{好きだ}}みたいになる。  英語のI love you.は  Iー[love]ーyou  みたいな感じで。  ~~~~~  ☆ この《風呂敷》言語ないし『日本語の論理』(講談社学術文庫)については承知していませんでしたが これは だいたい明らかな論点だと考えます。  その意味するところは 次のように《論述部による文の〔ほかの主題部の〕統括》を言うものと考えます。言いかえると  ○ (主題それぞれは 意味連絡として 論述の〔いわゆる用言の〕述格に収斂する) ~~~~~  1. 先に例示すれば 次のごとくすべての主題は 論述部へと意味連絡上収斂する。   ・ c ) 私ハ――――→好きだ。   ・ c ) ・・・お前ガ――→好きだ。  2. 言いかえると 文の統括は 論述部の述語=用言(詳しくはその法活用)がになう。    3. 《法活用》とは 《好きだ》のように断定法につくる場合や 《好きではない》のように否定法につくって 文のほかの成分を意味上取りまとめる場合のその活用形態を言う。    《法 mood 》とは 《断定したい気分( mood )》や《否定したい気分》のことである。  3. さらに大きくは 話し手が――表現されるべき文の外にあって―― 文を統括する。  4. つまりは 話者がその判断において 論述部の述語用言について《好きだ》や《好きではない》や《好きかも知れない(推定法)》などさまざまな法活用の形態からひとつえらび その特定の法活用(つまり 気分)によって 文のほかの成分の全体を 伝達すべき意味をめぐって 取りまとめている。  5. おそらくこの《文の統括》のことを 《風呂敷》様式と言ったのではないか。  6. ところが この《文の統括》は 言語ならすべておよそ同じ類型においておこなわれている。こう考えられます。  7. Iー[love]ーyou についても同じことです。語順が違っているだけです。述語動詞の《 love 》に意味は収斂して行きます。語順の違いがあるゆえ 風呂敷を重ねて包むかたちにはならないだけだと思います。  ~~~~~~  § 2 文の成り立ちについての一般理論  ★ ~~~~  漠然とした疑問なのですけれども、印欧語で誕生・発達した文法学を改善して、  言語構造のまったく異なる日本語に適用できるものなのでしょうか。  もっと基本的なところから構築をしなければならないのでは、  などと思っています。  ~~~~~~  ☆ すでに仮説を用意していますので ひととおり述べてみます。  ○ (文の構造) ~~~~~~  8. 文は 主観による判断(あるいは 一編の思想)を言葉によって表わす最小の単位体である。  9. 始原的な文の起こりは――文以前の《さけび》などの場合を別とすれば―― 主題( T )の羅列によると見る。    (α‐0) T1・・・T2・・・T3(=P)。  10. 前項の P は 論述主題となる主題である。T1 や T2 の主題は おのれに判断をうながすかたちで話者みづからが提示したものであり その答えが T3=P である。  11. 文以前でありつつ文に成りかけている例から文をつくるに到る例を挙げてみれば:    (α‐0)   T1・・・・・T2・・・・・・T3(=P)    ・(文例‐1) わ・・・・・れ・・・・・・ハ (⇒ 我れハ)    ・(文例‐2) われ・・・・ハ・・・・・・きみ    ・(文例‐3) われハ・・・きみ・・・・・ガ     ・(文例‐4) われハ・・・きみガ・・・・好き 〔≒(α)構文〕          = Aハ・・・・・Bガ・・・・・C  12. そうして この(文例‐4)≒(α)構文を得たとするなら その文意の確定は 論述主題 T3 =すなわち述語部 P における法活用(つまり まさに主観の判断)が決める。            Aハ・・・・・Bガ・・・・・C    ・(文例‐4) われハ・・・きみガ・・・・好き 〔≒(α)構文〕    ―――→  われガ・・・きみヲ・・・・好く 〔≒(ω)文型〕            S(主格)・・O(対格)・・V(述格)    ―――→  われヲ・・・・きみガ・・・・好く 〔≒(ω)文型〕            O(対格)・・S(主格)・・V(述格)  13. すなわちきわめて粗い見方をするなら S-V-O なる(ω)文型は (α)構文におけるハ格やガ格がみちびく主題提示という語法を削ぎ落としたかたちである。(語順は 別とします)。  なぜなら ヲ格をふくめて そのような主題格の活用をしなくなっているからである。  14. なぜなら 語が主題として提示される形式をもう省みなくなっており 語そのものを (ω)文型の論理的な意味連絡のかたちにのみ活用(曲用 declension )する語法を作り終えている。   ・われガ: I   ・われヲ: me   ・きみガ: you ( thou )   ・きみヲ: you ( thee )  15. したがって 《われ》や《きみ》といった無格の体言(名詞・代名詞)は (ω)文型による英文などにはなくなっている。述語動詞の love による統括にしたがう活用(曲用)形態のみ―― I, my, me など――で間に合うようになっている。  16. ところが じつは 人類の言語の中には これら(α)構文と(ω)文型の中間の形態を採るものがある。  17. 仮りに(λ)構文と呼ぶなら それは いわゆる《能格 ergative 》を用いる言語類型である。コーカサス諸語や バスク語などがそれに属する。  18. これは 言語類型として独立しており独自の形態を編み出しているのであるが まさに(α)と(ω)との中間に位置するとも考えられる。  19. 言いかえると 片や(α)構文のごとく主題提示の語法を保ちつつ しかも片やすでに(ω)文型のごとく線形的な意味連関をそのまま表わす語法をも合わせ持っている。  20. (α)構文における中心主題(ハ格)と関係主題(ガ格)は 能格言語では《絶対格(または 中立格)》とそして《能格》とがそれぞれ担っている。ほぼ同じ文法である。  21. しかもそのほかに 端的に言って 《 S-V-O 》の形態をも合わせ持っている。それは 論述部において形作っている。主格( S )および対格( O )は 代名詞によって示すかたちである。つまりその代名詞(もしくは  代名接辞)は ハ格とガ格にそれぞれ相当する中立格と能格の主題体言を承けるものである。  22. 能格言語は 次のような形態をとる。ハ格およびガ格を代わりに当てて示す。   (λ)構文:Aハ Bガ C(=S′-V-O′)。       S′ および O′ がそれぞれ A ないし B を承ける代名接辞である。それが 述語動詞と一体となって示される。すなわち S′ および O′ は 中立格としてのハ格が受ける A または能格としてのガ格が受ける B かどちらかのことである。だいたいは S′=B′ であり O′=A′ であると言える。    23. わざとおもしろくたとえるとすれば     (λ)構文:われハ きみガ I-love-you.  と表わしているようなかたちである。  24. なお中国語は 言ってみれば(α)構文と(ω)文型とを 類型として 合わせ持つかに見られる。どっちつかずにも見える。主題の羅列にも見えるし すでに線形論理に徹しているようにも見える。      (α‐0):T1・・・・T2・・・T3=P   (κ)構文:我・・・・愛・・・你 ( I love you. )     〃  :政府・・・愛・・・人民 ( Government loves people. )   (ω)  :S―― V ―― O.  ~~~~~~~~~~~~~  さしづめ このように考えます。言語類型論からする文法の一般理論です。  今回の質問は    (α‐0):T1・・・・T2・・・T3=P  この主題の羅列としての自己表出ないし絶対格による自己表現 このかたちが 《聖なる甘え》に通じるのではないかという仮説であり それを問うています。どうでしょう?

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