複文の文法で従属節中の主格は「ハ」か「ガ」か?

このQ&Aのポイント
  • 複文の文法で従属節中の主格は「ハ」か「ガ」かについて説明します。
  • 野田尚史氏の本『「は」と「が」』によると、従属度の強い・弱いによって選択されます。
  • 理由節が強い従属節になるのは、その節が文の焦点であるときです。具体的な説明方法を教えてください。
回答を見る
  • ベストアンサー

複文の文法で、従属節中の「主格」につく「ハ/ガ」の選択理由

複文の文法で、従属節中の「主格」につく「ハ/ガ」の選択理由 中国の大学で作文の指導をしています。 日本文で主格につく助詞が「ハ」か?「ガ」か?――の選択はとても難しい。しかし、複文の従属節中の「ハ・ガ」の選択だけは、比較的容易に論理的説明が可能です。 野田尚史氏の本『「は」と「が」』(くろしお出版)はこれを論理的に説明しています。 その中で、主節に対する従属度の強い、弱い(独立度が低い、高い)によって、従属節には「ガ」しか使えない場合と「ハ」も使える場合に分けられるとあります。しかし、理由節「~から、~ので、~のに」は従属度の強い・弱い両方あります。私が「日本人だから瞬時に判断できる」なんて偉そうなことを言っても、学生に納得できる説明になっていません(教師失格!)。野田氏は、「理由節がつよい従属節になるのは、その節がその文の焦点になっているとき、いいかえると、主文の内容より従属節の内容のほうを相手に伝えたいときである」とお書きになっていますが、私にはこれだけでは釈然としません。学生が作文するときに、より具体的でわかりやすい説明方法がないものでしょうか? 身のまわりに書籍類が乏しい環境におりますので、インターネット情報などを引用してご説明いただければ嬉しゅうございます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

#1です。 補足要求にお応えいただき感謝いたします。 「従属節」の各名称、また、『「ガ」しか使えない場合と「ハ」も使える場合』の(理由節以外の)基本的法則について教えていただき、大変勉強になりました。 理由節に関しても、非常にわかりやすく例示していただきありがとうございます。 >「強い従属節では『ガ』が使われる」=「従属節が“焦点”となっている」=「従属節の内容を伝えたいのだ」という論理が、納得出来る場合と出来ない場合 :があるという点に関しては全く同感です。 受け取る側が納得しやすい理論に巡り合うことを期待することしか当面の解決策はないのではないだろうか、とさえ思います。 とはいえ、口幅ったいことを申すようですが、理論自体が重要なのではなく、「ガ」なり「ハ」の用法を不自然な印象を与えることなく自然に使いこなせるようになることが目的でもあるのでしょう。 言い訳めいた前振りでお察しのとおり、助言や理論などという大それたことには関与できませんが、私見でも運良くご理解の一助になるやも知れずと考え、あくまで個人的な感覚(感想)としてですが思うところを述べさせていただきます。 まず、「ハ・ガ」に対する基本的な私見からです。 私の場合、一般的に言われていることでしょうが、 「ガ」は特定(あるいは強調)と、単純に捉えています。 ただ、 「特定するにはそれなりの理由があるからこそ特定しようとするのだ」 という概念がセットになります。 「桜が美しい」という場合、「美しい」と感じた、その感覚がまず第一義であって、「桜」はあくまでそのこと(美しいという感覚の対象)の特定、誤解を怖れずに言えば補足です。 これに対して、 「桜について何か述べたい」という意図が先行する場合には、つまり、「桜」というものを主格(=文表現上の眼目)として位置づけたい感覚の場合は、 「桜は美しい」となるのでしょう。 「観光で城跡を訪れた。どこまで行っても当たり一帯が桜で覆われていて圧巻である」 その時の思いは 「桜は(美しい)」ではなく、「(桜が)美しい」のはずです。 この場面で、「桜について述べてみるならば」という『主題提起をするほどの余裕を話者の感覚は持っていない(はずだ)』 とでも言いましょうか。 それに対して、 「花見に出かけて土手沿いをゆっくり歩いている。天気はいいし、最高の花見日和だ。どこまでも続く桜の並木」 こういったシチュエーションでは、 「桜は美しい」と、「桜について語るならば」という余裕が話者の感覚に生まれるでしょう。 このように、 「○○は△△」と「○○が△△」の根本的な違いは、 「△△」という『述部に対する感覚的余裕』の多寡ではないか、と独断的に考えています。 今回のご質問に沿って考えてみます。 1、 《 中国の国土“が”広いので、地方によって料理はだいぶ違います。》 従属節に関しては、 【『述部に対する感覚的余裕』が無いほど「広い」ことを述べたい】 という意図に基づいていることになると思います。 なぜそういった余裕が無いほど「広い」ことを述べたいのか、と言えば、「地方によって料理はだいぶ違」うことの理由を強調したいからでしょう。 その意味で、伝えたいのはむしろ従属節であると捉えることが可能ではないかと思います。 ご指摘のように、「主節の内容をむしろ伝えたい」と取れないこともないでしょうが、これは同じ理由節でも「~ので」の用法が、たとえば「~だから」などに比べて理由を表す要素が若干希薄なためであるような気もします。 《 中国の国土“は”広いので、地方によって料理もだいぶ違います》 についてですが、 「は」による主題提起の構文ですから、「中国の国土に関して述べてみれば」という暗黙の宣言が為されているわけで、 「むしろ従属節の内容を伝えたいのでは?」というご感想には肯けます。 ただ、上の2文において、 「中国の国土“が”広いので」 「中国の国土“は”広いので」 のどちらが削除可能かというと、やはり後者ではないかという気がします。 「地方によって料理もだいぶ違」う理由を述べたいという意図は、明らかに後者に希薄ではないかと思われるからです。 主題提起はあくまで「広い」ことに限定されており、「違います」という主節にまでは及んでいないと捉えて差し支えないと思います。 2、 《 あの人“は”来そうもないので、(我々は)もう帰ろう。》 (質問者注:この文で、従属節の内容に“力点が置かれていない”と言えるのか?) : 「あの人」を主題提起するだけの余裕がある→帰ろうという意志決定の理由を特に強調したいわけではない。 のように捉えてみると(ガ使用時に比較すると)“力点が置かれていない”という捉え方も、あながち間違いとは言えないかもしれません。 多少脚色してみます。 「彼“は”来そうもないので、私はもう帰る。」 「彼“が”来そうもないので、私はもう帰る。」 私が帰る理由として「彼の来そうもないこと」を強調したい場合(=彼のせいにしたい場合)は、おそらく後者の発話が為されるような気がします。 この意味で前者の従属節には(比較的に見て)力点が置かれていない、と言えそうです。 彼について(客観的に)述べようとする余裕がある、と感覚的に認定されるためだろうと思われます。 3、 #2さんにお示しいただいた、 《 私は、ゆみさん”が”泣いたので、びっくりしました》 についても考えてみました。 《 私は、ゆみさん”は”泣いたので、びっくりしました》 と言い替えることは(文法的にはなぜなのかわかりませんが)できないように思われますが、 《(怒ると思ったら) ゆみさん”は”泣いたので、私はびっくりしました》 であればあり得るシチュエーヂョンですよね。 この場合も、(怒ると思ったら)などの余裕(ワンクッション)が「泣いた」という状況を認識する前にあったために「弱い従属節」になり、 そういった余裕もなく「泣いた」という状況を認識した、という素直な展開の場合は「強い従属節」になるのでしょう。 基礎的なものが無いので、一貫性もなく思いつくままに書き連ねてしまいました。 ご質問に対するお答になっているかどうか甚だ不安ですが、ほんの一部でも何らかのご参考にしていただけるようでしたら幸いです。   

Anseigenji
質問者

お礼

回答者様が「文法理論自体が重要なのではなく、『ガ』なり『ハ』の用法を自然に使いこなせるようになることが目的である」それで「『ハ・ガ』に対する基本は、『ガ』は特定(あるいは強調)と捉えることであり』その基本認識から、「ハ・ガ」文の根本的違いを、『述部に対する感覚的余裕の多寡』であるとするお立ち場」から、「桜“は/が”美しい」および「彼“が/は”来そうもないので、私はもう帰る。」を分かり易く説明してくださいました。ありがとうございます。 私は、「ハ」によって取り立てられた「名詞+ハ」の複文を誤解しているようです。それが、回答者様の説明にある程度納得しながらも、なおも、疑問を下の文に残しているようです。   (1)中国の国土“は”広いので、地方によって料理もだいぶ違います。 私はこの文から、三上章氏の「象は鼻が長い」を連想してしまうのです。取り立て助詞「ハ」で「中国の国土」が取り立てられて(つまり焦点となって)、それに続く「広い」とセットになっている。これが話者の伝えたい部分であると誤解しました。それ故、当然の帰結としてその後の主節で、「中国の各地には様々な考え方の人がいるし、方言も多様だし、そして、地方によって料理がだいぶ違うよ」――と言いたいのだと。更に、「料理も」と“も”が使われているので、それは、「国土は広い」と強調したことを受けて“も”と言いたくなる話者の気分がプンプン匂ってきます。だから、「中国の国土“は”広い」は「中国の国土“が”広い」より、もっと強調したい話者の意志が働いているのではないかと曲解してしまいました。 しかし、冷静に考えてみるとき、「象は鼻が長い」の文の別の意義が参考になります。 そこで、回答者様の解説や野田氏の複文の文法を踏まえると、(1)から下の文(2)が浮かび上がってきました。 (2)中国“は”、国土“が”広いので、地方によって料理がだいぶ違います。 この文で、1 取り立て助詞「ハ」で表題化された「中国は」(これが全文のテーマ)、2 強い理由節、3 主節が、理路整然と並んでおり、強い理由節の中で“が”顕在化し、ここが話題の焦点(回答者様が言われるところの“強調”ともなっている)だと理解できます。してみると、私が文(1)で、形の上では“弱いように見える”理由節「中国の国土“は”広いので」に話題の焦点があり、話者が伝えたいところだと感じたのは、実は文(2)を無意識のうちに連想しながら理解しようとしたからなのかもしれません。どうやら、文(1)は“弱い理由節”の例としては適当でなかったとも思うのです。 今回のご助言に基づいて、私は「ハ」と「ガ」の区別をもう少し深める必要があり(それは日本語の感性を鋭くすることでもあります)。また、それが野田氏の本にあるような「複文の文法」にも裏付けられた理解となる努力が必要だと感じました。 ここで、中国の大学での私の「文法教育」をご紹介します。 私は主に会話と作文を週に1,2回程度教えております。文法・語彙など基礎的日本語は中国人教師が毎日のように教えておりますので、複文の文法も学生が知らないはずはないのですが、習ったことと理解していることとは別物です。 私は数年前に2年生に「ハとガの文法」を講義したことがあります。講義の後の学生の反応は「難しい。全然理解できない」でした。それ以来、この種の講義はやめて、「ハとガの区別」が自然にできる学生の成長過程に任せるしかないと考えています。 いま3年生に「作文」を教えております。作文の中で従属節に「主語+ハ」の間違いがよく出てきます。学生に「複文の文法」を強く意識させる必要があると考え、複文の文法を教えております。主節・従属節によって決まる「絶対テンス・相対テンス」からはじまり、従属節中の「ハ・ガの区別」も単純化して教えました。が、実は、私自身が複文の文法とりわけ「強い・弱い理由節」の理解が不十分であり、これでは、学生を指導できないことに気づきました。今回、OKWAVEで皆様のお知恵を拝借したのもそのためです。 現時点で学生に教える複文の文法「ハ・ガ」の区別は、(1) 主節・従属節で共通した主格には「ハ」、(2) 主節・従属節で異なる主語があるときには従属節に「ガ」、(3)連体修飾節と名詞節には「ガ」、(4)並列節と引用節には「ハ」も使える、(5)対比文には主節・従属節に共に「ハ」、以上です。ここで、強い・弱い理由節については、弱い理由節の出てくる頻度が少ないと考えて無視し、強い理由節だけと割り切ることにしました。これで、作文中に複文の「ハ・ガ」の間違いが確実に減ることを期待しております。 懇切丁寧なご助言に感謝いたします。以上

その他の回答 (2)

  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4337)
回答No.2

回答などおこがましい事は無理ですが、 去年使った「どんなときどうつかう日本語表現文型200」初 中級 に該当する部分があるかと思いますので抜粋させていただきます。   まとめ2はとが項目9 複分では主文の主語→は 副分の主語→が 例文  1わたしは、春さんが来てからいっしょにたべます。  2あなたがパーティーに出席すれば、パーティーはにぎやかになるでしょう。  3わたしがいくら頼んでも、リーさんは手伝ってくれませんでした。  4私は、ゆみさんが泣いたので びっくりしました。 項目10「…と思います。」、「・・・と言いました」などの文では、「…」の中のは、がは、    もとの文のまま  例文  1あの人は、きょうカンさんは来ないと云いました。  2わたしは、田中さんはもう帰ったと思います。  3わたしは、妹はアメリカで勉強したほうがいいと考えています。 ポイント「…と思います」、「…といいました」の「…」の部分は、引用であるから 独立した文と考える。だから項目9は使わなくてもいい。

Anseigenji
質問者

お礼

助言ありがとうございました。   項目9(複分では主文の主語→は 副文の主語→が) 1-4の文は、主文と副文で主格が異なる場合で、 私が読んだ複文の文法によると、節の性格が、 1-時間節、2、3-仮定節、4―従属度の高い理由節 だと理解します。ご指摘に異存ございません。 項目10(「…と思います。」、「・・・と言いました」などの文) 1-3の文は、引用される節中では「ハ」と「ガ」が許される 場合と理解します(「ハ」と「ガ」の選択は単文の性格によって 決まる)。ご指摘に異存ございません。 以上、有り難うございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.1

非常に興味深いご質問です。 ご一緒に考えさせていただきたいのですが、ただ、当方は一素人にすぎず、具体的例文をご提示いただけると大変有難いと思います。 以下の2点についてもう少し補足をお願いできないでしょうか。 1、 『主節に対する従属度の強い、弱い(独立度が低い、高い)によって、従属節には「ガ」しか使えない場合と「ハ」も使える場合に分けられる』 に関する2パターンの例文。(理由節以外) 2、 「理由節がつよい従属節になるのは、その節がその文の焦点になっているとき、いいかえると、主文の内容より従属節の内容のほうを相手に伝えたいときである」 場合とそうでない場合、2パターンの例文。  

Anseigenji
質問者

お礼

さっそくのご対応に謝謝。 「一緒に考えましょう。そのために、具体的例文を示しなさい」とのお言葉、有り難うございます。 いつも学生に「例示しながら質問をしなさい」と言っていますので、それをANo1さんに言われてしまいました。ごもっともです。 1、『主節に対する従属度の強い、弱い(独立度が低い、高い)によって、従属節には「ガ」しか使えない場合と「ハ」も使える場合に分けられる』に関する2パターンの例文。(理由節以外) <質問者>野田氏の従属節の定義にしたがって書きます(以下の接続詞は一例のみを示します)。 (1)継起節(~と)・仮定節(~たら)・様態節(~ように)・時間節(~とき)・連体修飾節・名詞節(以上、強い従属節)は、何れもその中で「ガ」しか使えない。 例 春“が”くると、桜が咲く。【継起節】 例 わたし“が”いくら頼んでも、リーさんは手伝ってくれませんでした。【仮定節;ANo2の方からの引用】 例 あなた“が”勉強すればするほど、両親はますます喜ぶだろう。【様態節】 例 私“が”日本で買った本は高いですよ。【連体修飾節】 例 端午の節句“が”中国で生まれたのは、誰でも知っている。【名詞節】 (2)並列節(~が)・引用節(~と、~って)は、その中で「ガ」と「ハ」が使える。 これらの節は事実上「単文」のようなものなので、「ガ」と「ハ」の選択は単文の性格によって決まる。 例 日本“は”石油への依存度が高いが、高度経済成長政策がそれを加速させた。【並列節】 例 山田さん“は/が”パーティに来ると思う。【引用節】 (3)残るのは「理由節」(上の(1)と(2)にまたがっている)になりますが、これは下で述べます。 2、『理由節がつよい従属節になるのは、その節がその文の焦点になっているとき、いいかえると、主文の内容より従属節の内容のほうを相手に伝えたいときである』場合とそうでない場合、2パターンの例文。 <質問者>以下に理由節を記述します。   捜査員“が”「おまえが誘拐犯じゃろ」と聞くと、○○容疑者は「すみません」と素直に認めた。【強い従属節;野田氏の本から引用】 私“は”、ゆみさんが泣いたので、びっくりしました【強い従属節;ANo2の方からの引用】 私“が”大学へ行ったので、故郷の父はさびしがっているようだ。【強い従属節;自作】 私“は/が”彼と駆け落ちしたので、故郷の両親は怒っているでしょうね。【弱い従属節;自作】 中国の国土“は”広いので、地方によって料理もだいぶ違います。【弱い従属節;成書から引用】 (質問者注:この文は、むしろ従属節の内容を伝えたいのでは?) 中国の国土“が”広いので、地方によって料理はだいぶ違います。【強い従属節;自作】 (質問者注:この文は、むしろ主節の内容を伝えたいのでは?) あの人“は”来そうもないので、(我々は)もう帰ろう。【弱い従属節;成書から引用】 (質問者注:この文で、従属節の内容に“力点が置かれていない”と言えるのか?) このように、「強い従属節では『ガ』が使われる」=「従属節が“焦点”となっている」=「従属節の内容を伝えたいのだ」という論理が、納得出来る場合と出来ない場合があって、頭の整理ができていません。 以上、よろしくご助言くださいませ。

Anseigenji
質問者

補足

質問者の訂正 ”が”の位置を間違えて、主節の”が”につけてしまいました。 下のように訂正します。 私は、美由紀さん”が”泣いたので、びっくりしました。【強い従属節;ANo2の方からの引用】

関連するQ&A

  • 《 A‐ハ B‐ガ C‐ナリ/スル。》構文について

     次のふたつの文例は 構文として同じと見ていいのでしょうか?  (J‐1):ぽーる‐ハ ぽーら‐ガ 好きだ。  (K‐1):ぽーる‐ヌン ぽーら‐ガ チョーワへー。  すなわち 日本語の《 A‐ハ B‐ガ C‐ナリ/スル。》構文は 次のように意味が明確にふたつの別の内容に分かれます。  (J‐1)‐a :ぽーるガ ぽーらヲ 好む。: Paul loves Paula.  (J‐1)‐b :ぽーるヲ好むのは ぽーらだ。: Paula loves Paul.  言いかえると この( a )( b )ふたつの意味は 文だけからは決まらないのであって 自由にどちらかを意味し得ます。文脈によって 意味がどちらかに決まります。  【問い】 韓国語の《 A‐ヌン B‐ガ C‐イダ/ハダ。》という文の形は 構文として捉えることが出来ますか?  そして 捉えられるのならば 日本文と同じように 両義性を持ち得ますか?  言いかえると ハ格≒ヌン(ウン)格が 主格と対格の両義を持ち得ますか?  ガ格≒イ格(=ガ格)は だいたい 主格を意味すると思われます。〔行為主格(我ガ行く)だけではなく 様態主格(春ハ曙ガよき)や現象主格(雨ガ降る)になるのだと思われます〕。

  • 太郎ハ 花子ガ 好きだ。

     日本語におけるハ格とガ格について その成り立ちを問い求めます。  (日本語論であるにもかかわらず 外国語カテに挙げるのは 英語などとの対照をもくろんでいるからです)。  なぜなら  ( a ) 太郎ハ 花子ガ 好きだ。  これは まづは  (α)  《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文  と捉えますが このハ格とガ格の用法は 一筋縄では解けないと考えられるからです。次のようにまったく違ったふたつの解釈が 文脈を別とし得れば ふつうに・そして互いに自由に対等に できるからです。  ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例:    ・ 太郎が好きな相手は 花子だ。  ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例:   ・ 太郎を好きなのは 花子だ。  言いかえると ハ格もガ格もそれぞれ同じように 主格(主語格)としてのガ格かまたは対格(目的語格)としてのヲ格かを意味しうるからです。  言いかえると 文の意味連絡を確かめ明らかにする前の段階では ハ格もガ格(ガ格一般)もともにその意味は確定しない。こういうことになります。       *  そこで このように第二次の解釈作業を必要としてその結果明らかになる意味連絡のかたち――そのような文型――を 英文にならって次のように規定します。  (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).  すなわちこの言わば線形としての論理的な意味を示す S-V-O なる文型は 日本文の( a )文例が 解釈例の( a-1 )および( a-2 )として そのみづからの構文の中に含む文型である。言いかえると 次のようになりましょうか。  (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる構文 ~~~~    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)    ○ ( a ) 太郎ハ 花子ガ 好きだ。    ・ 話し手は 《太郎》を中心主題として提出した。    ・ そのあと中心主題にかかわる関係主題を《花子》として引き出した。    ・ そのふたつの主題について 答えを出すとするなら 《好きだ》という内容とかたちで提示した。    ・ この段階では――文脈のことを別とし得れば―― まだ文の意味が明らかではない。あとで分かることとしては ( a-1 )および( a-2 )の可能性をもって両義的である。    ・ すなわち この(α)の構文は 全体として非線形の構造を有していて その中に事後的に相転移して行くべき線形の文型(ω)をも宿している。   ○ (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).~~~~~~~~   ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例: Taroh loves Hanako.    ・ 太郎が好きな相手は 花子だ。   ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例: Hanako loves Taroh.    ・ 太郎を好きなのは 花子だ。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      *  どうしてこういうあいまいな(=つまり両義的・多義的な)表現が日本文で起こるのか?  ハ格もガ格も もともとは主題をただ主題として提示するために用いられているものだからか?  もしそうだとしますと それらハ格がみちびく中心主題(A)やガ格で承ける関係主題(B)のそれぞれと 論述部の主題(C)ないしその論述格(‐ナリ。 / ‐スル。)との意味上の連絡は 二の次だから。と考えられて来ます。  つまり 文の構造は ハ格とガ格の両者ともが二重の用法を持つことによって成り立っている。こう考えられます。  すなわち両者ともそれぞれ 《一次として 〔単なる〕主題の提示 という用法》と《二次として 論理的な意味連絡の確定をみちびく用法》とを担い得て その構造が二層から成っていると考えられます。  あらためて示せば:  (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる非線形構文 ~~~    (α‐1) 一次として 主題提示の層   《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)   (α‐2= ω) 二次として 線形論理の層   《 (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》    ・ A love〔s〕  B.    ・ B  love〔s〕  A.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~        *  言語表現を扱うにあたって 日本文とたとえば英文とを比較対照するというとき この基礎としての事実を捉えておくなら 何かと便利ではないか。  というよりも 英文に慣れ親しんでいる表現者は なぜ 日本語では彼のように言い表わし此のようには表わさないのかといった問題についてよく分析しうるのではないか。との予測をもって まづはこの基礎の問題を問いたいと考えます。  言いかえると 英文は 単一層の線形論理だけで表現していて 《あそび》が無いと思われる。主題提示をおこなう《あいさつ》が無いと見られる。とき その余裕というのは 表情や果ては人格によっておぎなっているのだろうか? 

  • 従属節

    ある参考書で、従属節は必ずその文の中で働く。接続詞が前の文との関係を示す事は(等位接続詞を除き)ない。という説明のあとに、 I will go with you. Tought I'm very busy now,I cannot but help you.で、Toughtからの文の訳は、私は今忙しいけれどもで訳せますが、I cannot~の所が訳せません。cannot butでidiomみたいなもの?みたいにしかわからないので、わかる方、説明お願いします!

  • 従属節のテンスに関する質問です

    日本語の従属節のテンスに関する質問ですが、授業のとき、従属節の動作が主節の動作より先に終われば、従属節のテンスは過去であり、逆の場合、従属節のテンスは非過去、また、従属節の動作と主節の動作が同時の場合、従属節は過去でも、非過去でも取りうるというふうに教わりましたけど、しかし教科書には次のような文がありました。 (1)私(アメリカ人)のニックネームはダムちゃんです。これはアメリカに(いる/いた)ときに、日本人の 友達に付けられたのですが…。 (2)この前田中先生が(講義する/講義している/講義した)際、配布されたプリントを持っていたら、コ ピーさせてください。 (1)も(2)も、主節と従属節の動作が同時であると考えられますが、しかし、(1)の答えは「いる時」で、(2)の答えは「講義した時」でした。答えの理由、またなぜ他の形が使えないのか、お教えいただきたいですが。よろしくお願いいたします。

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

     =文例( a ) あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。  このほどその種の質問をつまり  【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html  として設けてやり取りをすることができました。これをもうひとラウンド延ばしたい。  このハ格・ガ格の構文に主題を絞って そこでおこなえた探究の普及版が欲しいとともにもうひと伸び たとえばほかの言語との比較対照などにおいてなおフロンティアがあるのではないか こう思ったところからです。  出発点のたたき台を述べますので 情報交換をよろしくお願いします。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意志表示が――最小の単位としてひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと相転移していることになるのではないか。  7. 和文の論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係――は 超論理の宇宙の中に潜在性として内包されている。  果たしていかに?

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》

      ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。あるいはさらにこの《A‐ハ B‐ガ C》なる構文の持つ意味について問い求めます。      *  作業仮説です。  (あ) 始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっており これは いわゆる《聖なる甘え》につうじているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。格活用していない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり なくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも ふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をなるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。     *  果たしていかに?  自由なご批判をあおぎます。

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 英語:従属節だけで完結する文について

    英文には、主節が必ずあると教わった記憶がありましたが、 最近こんな英文にで出会いました。 This, however, is not easy, even if it could be done at all. For there are far more working parts to the earth than to a watch or any other precision instrument. 2文目には、主節がなく、Forの従属節の文で終わっているように見えます。このようなことは文法的にあり得ることなのでしょうか? (この場合、全文の理由になっているから、従属節だけでもよい?って解釈をしました。)) 従属節だけの文?は、文法としては間違っているのでしょうか? また、日常(英字新聞やチャットなど)でもよく見かけるでしょうか? 主節が必ずあると教わったせいか、従属節だけで終わっている文を見ると違和感を覚えます。 また、似たような事例を他にも考えてみれば、疑問文で始まる文も主節が無いように見えます。 例えば、 Why is our earth the kind of planet (that) it is? これにも主節がありません。 疑問文は日常ありとあらゆる場面で出会うにも関わらず、 「主節が必ずある」というルールに反しております。 これにも何か理由があるのでしょうか? 主節:接続詞のついていないSVのかたまり 従属節:接続詞がついているSVのかたまり  と認識しております。 英文引用:「英文長文ハイパートレーニングレベル2」の1題目より

  • 複文の分類法の学校文法と学者の意見の違いについて

    学校で学ぶ国語文法にはいろいろな問題があることを学びました。 (たとえば日本語は「主語」と「述語」からなると教わりましたが、日本語に「主語」はないという学者もいますよね) 今、複文について整理しているのですが、学校文法では英語の文の分類(単文か複文か)方法をそのまま適用して、日本語の文も分類しているため、不都合なこともあるようです。 たとえば、「象は鼻が長い」という文は学校文法では複文になるそうです(文のある部分が節でできているため)。この「象は鼻が長い」は複文ではなく単文だ、と主張している学者はいますか?? もしいたら、どういう理由でそのように主張しているのか、教えてください。 よろしくお願いします。