• 締切済み

日本語とはどういう言語か。

 この探究におつきあいいただければありがたいです。  まづことばの生成するところを仮説としてしめします。      *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)   とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。      *       *      *  ☆ ここで   やまと‐は ま秀ろば‐なり。  の文を分析します。いきなりですが:    ○ 日本文の二重構造 ~~~~~~~~~~~~~        やまと‐は     〔すがた‐が〕     ま秀ろば‐なり。    _______________________    (α) 主題提示層における分析( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。構文)    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐法活用(断定法)    ・《やまと》を主題として提示します。それについては《姿》が どうであるか    と言えば  《秀である》。という表出ないし表現の運び。    (ω) 論理提示層における分析(いわゆる S-V-O。 ないし S-V-C.文型 )    (1) やまとガ                秀‐ナリ。        主格( S )              補語( C )‐述格( V )       ・ Yamato               superb is.    (2) やまとニツイテイエバ 姿ガ     秀‐ナリ。        補語( C )      主格( S )  補語( C )‐述格( V )      Talking of Yamato,    its landscape      superb is.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (ω) 論理提示層( S-V-O. )    これら二つの提示層を持つと見るゆえです。ところが 英文などでは (ω)の直線的な論理形式一本から おおむね 成ると思われます。そうではないでしょうか?  ここらへんから 探って行きたいと思うのですが いかがでしょう。情報交換をよろしくどうぞ。  (日本語を問うていますが 言語類型論になりますので 外国語カテに挙げました)。

みんなの回答

回答No.3

●大きなミスを侵したのかなと ○はい、質問者さんは大きなミスを犯してます。 ●わたしのことではないのですね ○質問者さんのことです。 HA→はし→愛し→麗し は語源俗解そのものです。 「語源俗解とはなんですか」と問われたのでわかりやすい事例を提示したのです。 ●言語の生成にイメージを持ってもらえればよい ○資料的裏付けがなく質問者さんの想像(妄想)でしかない話ですからフィクションでしかないのです。 話としては面白いですが、言語学的には無意味です。 ●語の生成がどのようであるのか分からない ○わからないのに「HA→はし→愛し→麗し」と説明しているのでは論理的に破綻してます。 ●よく読んでね ○論理や文体が独りよがりでわかりにくいのですよ。 私のような物好きでないと回答しないほどにね。 そういえば「onbase」はそのままローマ字読みで「おんばせ」です。 コンピューター用語の「おんばす」と間違えられたことはありますが「おんべーす」は初めてでした(笑) 「おんべーす」と読めなくはないですが「こう読むんだろう」という質問者さんの思い込みが端的に表れていますね(苦笑)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ☆☆ HA→はし→愛し→麗し  ★ は語源俗解そのものです。  ☆ そうでもないですよ。根拠が 双方に出されていないうらみはありますが 次のような大野晋説にわたしは 拠っています。  ▲ 大野晋ほか:古語辞典 1974 第一刷 / 1990 補訂版  ▲ は・し【愛し】(形容詞・シク活用)いとしい。可憐だ。したわしい。(万葉集4134番歌が出典)  ▲ うら【裏・心】  ▲ うるさ・し(形容詞・ク活用)ウルは ウラ(心)の点。サシは 狭しの意・・・  ▲ うるは・し【麗し・美し】(形容詞・シク活用)  1.(相手を賞賛していう)立派だ。端麗だ。(古事記・歌謡30)  なお  ☆☆ HA→はし  ☆ は 推測によっています。シは むろん 形容詞の語尾として添えたものです。 HA は 触れているとおり 初めには息の音を想定したものです。  ☆☆ 語の生成がどのようであるのか分からない  ☆ これは 趣旨説明欄を見てもらえれば分かります。英語でマウンテンというものを 日本語でなぜ《やま》と言うのか。これが 分からないと言っています。  《と=処 / ほ=穂・帆・秀》は のちの語から逆推して そのように提出しています。  どこにもおかしなところはないですよ。  ☆☆ よく読んでね  ★ そういえば「onbase」はそのままローマ字読みで「おんばせ」です。  ☆ そういう島の名前ですか。知りませんでした。  ■ http://ejje.weblio.jp/content/on+base ~~~~~   【野球】 出塁して.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.2

少なく見積もっても日本列島で初めて言葉かかわされたのは1万年以上前です。 質問者さんが例示されている大和言葉が確認できるのはせいぜい7世紀です。 数千年間も語彙に変化がなかったということはありえません。 フィクションとしては面白いですが、言語学的にお話になりません。 語減俗解とは日本のアスカ(飛鳥)とペルーのナスカの音韻が似ているからというだけで結び付けるようなものです。

bragelonne
質問者

お礼

 そういうことでしたか。何か思わぬところで大きなミスを侵したのかなと思っていました。  まづは ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 語減俗解とは日本のアスカ(飛鳥)とペルーのナスカの音韻が似ているからというだけで結び付けるようなものです。  ☆ わたしのことではないのですね。  ★ フィクションとしては面白いですが、言語学的にお話になりません。  ☆ 《言語学的には》というとき わたしは(つまり わたしが前回の返答で説明したことは) 少しでも言語の生成にかんしてイメージが持ってもらえればよいがということでした。その意味では 言語学的に大きなマチガイはしていないはずです。史実として このようであったとは言っていないのですから。  ★ 数千年間も語彙に変化がなかったということはありえません。  ☆ そんなことは言っていないだけではなく 語の生成がどのようであるのか 分からないと言っています。よく読んでね。  (別様には 語の生成にかんしてひとつの仮説を持っていますが それを問うていないかぎりで 問題は発生していないはずです)。  言葉の・そして文の生成については 仮説の当否を捉えるよりも そのような一つのイメージをもって つづく課題について問い求めを進めていただきたい。という質問にもなっています。   ☆ 二重構造というのは  (α) 主題提示層( A‐ハ B-ガ C-ナリ / C‐スル。)  (ω) 論理提示層( S-V-O. )  このあたりですが この主題は 別の質問でも取り上げています。そういう意味では この質問は切り上げて そのもうひとつ別の質問へと移っていただいてもよいかと思います。  日本文は 上のように二層構造を成すが 英文は 《(ω) 論理提示層( S-V-O. )》だけの単一層なのではないか? こういった問いになっています。  いづれにしましても ご回答をありがとうございました。

回答No.1

少なくとも ●舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて とすると「人間が発した最初の言葉は皆同じ」になってしまいませんか? 質問者さんご自身で気付かれているとおり「後付け」や音韻だけで言語を考えると「語源俗解」に陥ってしまいます。

bragelonne
質問者

お礼

 おんべーすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 人間が発した最初の言葉  ☆ というのとは 少し違うとは思います。    たとえば 人間として特定の誰々が最初に言葉を発したという場面を思いうかべるなら このようなかたちがあってもよいのではないか。と思っての想像です。  あんがい気に入っているのですが そしてそれは 《はし》ならそれとして 内面の心のさまも外面の情景をもいづれも同時に映しているというところなのですが やっぱりあくまで いくつか考えられる捉え方のひとつとして どうであろうか。という程度だとは思っています。  つまり 仮説の内容をうったえたいのではなく このような感じで言葉が生成して来たというイメージが 少しでも湧くならよいのだがと思ってのことです。  そして この《はし》をひとつの始めとすることは 日本語としての特徴に沿わせてみたものです。つまり 初めは 主題となる語を いくつか言い連ねて行くといったかたちのことです。  主題( T ) 主題 主題・・・と言い連ねて行って 心にそのような主題提示としての言わば問いに対するひとつの答えが思い浮かぶなら それをも締めくくりの主題として言い出す。つまりそれは いくつかの主題についての論述( P )と成る。  (位置は別々でしょうが 最後に自分の答えを出して締めくくるのは 論述主題に成るのだと思います。つまり そこで おのれの意志判断が決められ 自己表現もひとつの区切りを打つ。つまり 文が成る。というふうにも見ています)。   文: T1 + T2 + T3 +・・・・+ Tn ( = P )。  とは言うものの ご見解は少し違った角度からも別の見方を提出しておられる。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ● 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて  とすると「人間が発した最初の言葉は皆同じ」になってしまいませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは どうなんでしょう。自分でもよく分からないのですが たとえばこういうふうに考えられないでしょうか。つまり 口などの発声器官の使い方は 人それぞれである。といった見方です。(ハならハが 誰もにひとつの同じ音韻として認め合われるようになるのは そのあとのことである。という恰好です)。  そういったところですが 果たしていかがでしょう。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづいて 返答をおぎなうかたちで 補足要求をします。  ★ 「後付け」や音韻だけで言語を考えると「語源俗解」に陥ってしまいます。  ☆ この《語源俗解》の例を 具体的にお知らせくださいますか?

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     われなるミクロコスモスと世界なるマクロモスモスとは 同時に生成する。     この仮説を問います。例証として コトバの生成について想像した仮説なるタトエをかかげます。         *  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずである。   HA.....SI。  というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。  ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。  つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。       *  すなわち 問いのねらいとしては うたのヌシとその心と周りの山々なる環境とは 言葉の生成をめぐって 同時発生である。    人間の認識が先行するというもの(そういう一面のみ)ではなく また 環境が人間をつくるといった一面のみではない。基本は すべての存在や現象が 同時一体である。  ものごとは それとして(そう言ってよければ)量子現象として励起されるし 存在は・つまり特に人間は 知性(ないし精神 つまりは 記憶・知解・意志の行為能力の一体)をともなってそのユラギが励起されるようになる。    ユラギは もともと 世界すべてにわたって 同時一体である。  どうなんでしょう?

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。

     =文例( a ) あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。  このほどその種の質問をつまり  【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html  として設けてやり取りをすることができました。これをもうひとラウンド延ばしたい。  このハ格・ガ格の構文に主題を絞って そこでおこなえた探究の普及版が欲しいとともにもうひと伸び たとえばほかの言語との比較対照などにおいてなおフロンティアがあるのではないか こう思ったところからです。  出発点のたたき台を述べますので 情報交換をよろしくお願いします。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意志表示が――最小の単位としてひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと相転移していることになるのではないか。  7. 和文の論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係――は 超論理の宇宙の中に潜在性として内包されている。  果たしていかに?

  • みんなの日本語第38課の「ハ」と「ガ」について

    『みんなの日本語初級II』第3 8課について教えてください。 (第3 8課の「学習目的は、『動詞+の』で名詞化し、形容詞でいろいろな状況や   自分の好き嫌いなどを表現することができる」このつもりで学習していましたが、   複数の学習者がおり、『質問が出て』自信を持って回答できませんでした。) 問題は;単純でかつ複雑な『ハ』と『ガ』の問題です。 (現在私は、できるだけ簡潔(シンプルに)) ◎ 格助詞 と 副助詞 の違い 「が」 格助詞 が 単に語と語の関係を示すものである [は」副助詞 は語と語の関係を示しつつ 特別な意味を添える働きをする。   「山田さんが良い人。」 の 「が」 は、語と語の関係を示しているだけで、何ら特別な意味を添えるものではありません。   「山田さんは良い人。」 の 「は」 は、語と語の関係を示しつつ、山田さん以外の人も想定しながら 山田さんを取り立てる意味を添えています。    (言外に 山田さんの他の人は良い人でないということを類推させます。 ◎基本的には「は」は主題を表すのに対して「が」は主語を表す。 “ゾウは鼻が長い” “ゾウについていえば(主題)、鼻が(主語)長いです”となる。 ただ大抵の場合は、<<文の主題と文の主語>>は同じなので「は」と「が」の使い分けが難しくなる。 ☆文の種類によって「は」と「が」の使い分けは異なので、それを参考にするとより使い分けが分かりやすくなるの。 「は」は名詞文や形容詞文の時に用い、 「が」は動詞文の主語に用います。 ◎ <「机の上に何がありますか」> <本ガあります> (新しい主題)   <本ハどこにありますか><机の上にあります>  (既知の主題) *おじいさんとおばあさんガ住んでいました。おじいさんハ・・・。おばあさんハ・・・。 ◎はとがの違い 5つの用法 (1)名詞修飾(22課) (名詞を修飾する節内の主語につく ハ→ガ)  ☆これは           時計です   私は東京で買いました  ☆これは私が東京で買った時計です (2)対比(27課) (XとYを比べる際のそれぞれに付く助詞は ハ)  *ひらがなが書けます     漢字が書けますね  *ひらがなはん書けますが、漢字は分書けません。 (3)最低限(42課)  (最低限のことを示す場合 ハ。これは予想以上のモと比較してよくわかる)  ※漢字は2000字は覚えてほしい。え!2000字もですか。 (4)目前・話題(取り立ての ハ )用法 (取り立てのハ 17課) (目の前にあるものを指す  ガ) (話の中のものを指す    ハ)  そこに椅子がある。  あなたの部屋に椅子はある?  あ、雨が降ってきた。  雨は降っている(人に聞いている) (5)強調  (何かに焦点を当てて、話題のものを強調する)  ☆彼が一番力持ちだ。 現在はこの程度の知識しかありません。(ここれもテキスト・ネットなどでの独学で自信ありませんが・・・。) 長くなりすみません。本題質問です みんなの日本語 第38課の文型 1: 絵を描くの ハ 楽しいです。 <このハは                        > 2:わたしは星を見るの ガ 好きです。 <このガは                       > 4:わたし ガ 日本へ来たの ハ 去年の3月です。 <このハは                       > 第38課練習1 1:本を読むの ガ 好きですか。 <このガは                   > 2:お母さんは料理を作るの ガ 好きですか。 <このガは                   > 3:日本で生活するの ハ 大変だと思いますか。 <このハは                   > 5日本語の勉強を始めたの  ハ いつですか。 <このハは                  > ネットをみるとたくさんの指導・指摘・試案などあり混乱するばかりです。 大変勝手なお願いですが、

  • ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》

      ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについての探究です。あるいはさらにこの《A‐ハ B‐ガ C》なる構文の持つ意味について問い求めます。      *  作業仮説です。  (あ) 始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっており これは いわゆる《聖なる甘え》につうじているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。格活用していない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり なくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも ふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をなるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。     *  果たしていかに?  自由なご批判をあおぎます。

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道も仏教も 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?