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なぜ、大昔は農民でも米なのにその後は違うのですか?

moto_koukouseiの回答

回答No.5

教科書の書き方、読み方の問題です。   古墳時代や飛鳥時代の頃の一般の人(農民)の食事は、弥生時代とあまり変わらず質素であった。食事の内容として、玄米を土器で炊いて、塩、山野草を食べていた。 これは、食材の種類が少ないこと、稲籾を食するにも石器で押しつぶして脱穀し玄米にする程度のことしか出来なかったことを、簡単に表現しているだけです。一年中玄米を食べられるほどの稲の収穫は難しく、クリ、クルミ、ドングリやソラマメ、ウズラマメ、ササゲ、アズキ、ハス、ハジカミ、芋、コムギ、大麦、アワ、ヒエ、ソバ、キビ、ヒエも食事に出来るものは何でも、その季節に応じて食べています。 一般の人も、米を食べるにしても、玄米を土器で煮たり、蒸して食べていたということを書いているのです。 人口の1%にも満たない例外の人を除けば、みんながそうした食事をしています。 この時代はもともと農業の収穫は少なく、食糧事情が悪いので、小さい児がたくさん死ぬだけでなく、人口そのものも多くはありません。   平安時代の上流貴族は、玄米をさらに精米して白米にして、煮て粥にしたり、蒸して食べるようになりますが、鎌倉時代の武士が米を食べる場合も、玄米を蒸したり粥にして食べています。 鎌倉時代でも、ごく一部の人を除けば、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代前半の人々の食生活や住居は大きな変化がないのです。 大豆を本格的に食べるようになったのは、仏教などの影響で肉食を避けるようになった鎌倉時代のようです。  鎌倉、戦国、織豊期(安土桃山)と時代が進んで、農業技術も進歩し、江戸時代には肥料も使うようになっています。食料生産はずいぶんと増えたので、農業などの食料生産をしない武士や町人も多数養えるほどになっています。人口は、江戸初期から1700年代までに倍に増えます。 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html 上流階級や上級の武士は玄米を精米した白米を現在のように炊いて食べます。 それでも、それだけ多くの人口を養うのは大変なので、稲の収穫も不足気味です。 下級の人は、玄米や麦、雑穀、豆、イモを混ぜたものを食べます。 それでも天候不順で収穫が少なければ、飢饉になったりします。 「農民は年貢で苦しいので、あわ・ひえを食べていた」というのは、教科書では、そのような社会階層の状況(階層が分かれて、人口の10、20%が食事内容も良くなったが、80%の人は、まだ十分に米を食べられる状態ではない)ことに注目している書き方をしているのでしょう。   ヒエやアワ、ソバ、イモなどが貴重だったのではなくて、米や麦の収穫が、人口に比べて少なかったのです。   どこまで一般化できるかわかりませんが、昭和30年代でも関東・多摩地方の主穀は大麦で、昭和50年代には山梨件上野原市で長寿村として有名になった山間部の村の主食はオバクだったそうです。オバクは、精白した大麦の丸い粒+ジャガイモ+インゲン+小豆などを入れて、半日以上炊いてようやく食べられるようになるようなものだったそうです。少し東京寄りの現在は東京都立川市あたりでも、明治の後半までは日常の主食は大麦を石臼や水車で挽いて割ったものを10合に米を1合混ぜていて、大正時代後半になって押し大麦10合+米2合くらいになったそうです。量を確保するためには、豆や栗、イモ、大根、山菜、キノコなどを混ぜていたらしいです。 地方から出稼ぎに東京に出てきた労働者の方が、米を食べられる機会は多かったのでしょう。   教科書でも授業でも、細かいことを全部は説明していません。 その箇所で説明したいことポイントを絞って、説明しているのだと思います。   古墳時代や飛鳥時代の頃の説明では、 (豪族や飛鳥文化のようなことだけではないよ) 一般の食生活はまだ貧弱だということを説明し、 江戸時代の説明では、 (元禄文化、文化文政、武士の生活、大阪商人ばかりではないよ) 農民の生活は苦しかったという説明をしたかったのでしょう。   他のことでも同じだと思うのですが、教科書や参考書に書いてある言葉だけを抜き出して並べて考えると、わけがわからないことがでて来ます。 その時代の何を説明しようとしているのかという意図なども考えながら読む方が良いと思います。

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