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江戸時代 米 年貢の徴収について

具体的に江戸時代の農民は米が出来たら それをどうやって納めたのでしょうか? 農民の家に役人が訪ねてきて回収したのか 農民が地主か誰かの元へ持って行って それをまとめて納めていたのか あるいは 農民が直接 役所?かどこかに 持って行ってたのか・・・ 詳しい方いれば教えて下さい それから 年貢を不正に取り立てる・・・といった類の悪事はたいていどんな立場の人が行っていたんでしょうか? 出来れば 江戸のどの将軍が納めていた時代はこうだった みたいに 江戸の初期なのか中期なのか後期なのか 解説していただけるとありがたいです(わからなければなくてもかまいません)詳しい方いらっしゃたら 回答よろしくお願い致します

  • 歴史
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みんなの回答

  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.3

地域によって色々なやり方があったと思いますが、小生が生まれた村(岡山県内)の様子を記します。だいたい幕末の文政~天保頃と思ってください。 年貢は村の連帯責任で納めます。領主は村に対して○石○斗○升○合の年貢米を納めろ、と言って来るので庄屋は各個人に割り振ります。その量は持ち高(つまり土地の所有量)で決まりますが、指定量より6%余分に納めねばなりません。これは蔵でネズミに食われた分を補充するため。 村人は決まった日にその米を持ち寄り、計量後、俵に詰めます。俵に詰める量は3斗3升3合3勺(3俵で1石)ということになっていましたが、実際には3斗4升5合入れます。でも6%増しには少し足りません。不足分は銀で別に納めます。(出荷前に藩役人が見に来たと思われますがそこのところは小生把握していません) 年貢米は近くの港まで運び、ここで農民の責務は終わり。港から大坂までは藩の費用で船を調達しています。 ところで俵を作るにはワラが必要ですが、これは村が村人から買い上げます。俵を作ったり計量する人件費も村の経費です。港までの輸送費や夜番の日当も村の経費です。 おもしろいのは期限より早く納めると割引になりました。現金や米切手で納めると更に割引かれました。農家は常に米の値段に注意していて有利な手段を選べたようです。 不正取立てのことはわかりませんね。ただ藩と村の間に入って収納の仲介をする商人がいました。この仲介人は凶作になった場合でも藩が指定する量の米を納めねばならず、それは村への貸付となります。このあたりで不正が生じたのかもしれません。 余談ですが、年貢が払えなかった人のことを・・・ 当面は村が村経費の中から立替えます。当人は翌年には利子(だいたい年2割)を付けて返さねばなりません。それでもダメなようなら当人所有の土地(年貢は土地にかかるので貢納義務のある人は必ず土地を持っている)を村の管理とし信頼置ける人に耕作を依頼、翌年、収穫の中から未納の年貢と利子を取り、耕作者へは賃金を支払います。それでもダメなようなら土地・財産を村の所有としたうえで追放したようですね。当村の記録にはないようですが・・・

noekurorai
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます^^余談もおもしろかったです^^

noname#77472
noname#77472
回答No.2

どこぞの教科書に、 代官所の役人の前で俵に詰めるので少しの不正も許されなかった。 とありますが、「これは人数的に不可能」です。 検見(出来具合を調べる)を行い村宛てに年貢の請求を出します。 これが村請制です。 その後、免割(1人1人の田の持ち具合で割り当てる)を行います。 検見は享保の改革から免定法(一律の年貢)へと変わります。 直、百姓の方から免定を願ったと言う記録もあります。 役人に入られるのが嫌なのです。 また、豊作の場合は検見より儲けが大きいのです。 しかし、実際には凶作で苦しむ方が多かったと言います。 薩摩では、 年貢米を徴収した蔵で落ちた米はその侍の物と言う規則がありました。 故意的に広げ落として私服を肥やす人間もいたと言います。 全部が確実に上納されていたかは大いに疑問です。 免定法では、こう言った不正が取れなくなると言う利点もありました。 実際には、一定の収入が得られれば幕府は満足であったようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%B2%A2

noekurorai
質問者

お礼

薩摩の話は驚きました そうなんですね わざわざリンクはってくださってありがとうございます^^

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E8%AB%8B%E5%88%B6 村請制度といい、村単位で領主に払っています。 一村丸ごと一つの領主の時は分かりやすいですが、一つの村が複数の領主の混在になっている場合でも、形の上では個々の田畑が個々の領主の所領となりますが、村で払っていました。

noekurorai
質問者

お礼

複数の領主が混在って・・・想像つきませんね・・・農民も大変だったんですね・・・リンク張ってくださってありがとうございます^^参考にさせていただきます^^

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