• ベストアンサー

年貢と逃散

江戸時代、過酷な年貢取立てに苦しんだ農民が一村丸ごと逃散した事例は結構あったのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.2

逃散は農民の抵抗手段として耕筰の放棄を宣言するもので多くの場合他領への脱出となります。 放棄された農地からは年貢を徴収する収穫は有りませんので領主は減収になりますから逃散は重罪として厳罰に処して防止しようとしました。 他領に逃れた農民はその土地の農民として新田を開くなど自活しますから受け入れた領主は増収になると歓迎した向きもありますが、多くは出身地の領主から抗議を受け送り返すケースが多かったようです。 従って一村丸ごと逃散のような消極的な抵抗は効果はなかったのです。 それに代わるのが一揆で多くの場合数ケ村が団結して領主や幕府に直訴する手段でした。 一揆は江戸時代各地で多発しました。  もちろん重罪として処罰されますから発起人が判らぬように円形の「傘型連判状」で首謀者が誰かわからないような工夫をしました。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 逃げ込んだ側の領主も逃げ出した側の要請で送還していたのですね。

その他の回答 (1)

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

村ぐるみの逃散というのは、領主とのひとつの交渉戦術として要求が通るまで山にこもるとか他村の親戚を頼って村を離れるとかいうのが普通で、実際に村を捨てたと言う例はそんなにはありません。 交渉が妥結するまで村から離れるという例はけっこうありました。 村ぐるみの逃散ではありませんが、個人あるいは家族単位で村を捨てて他領主の領地で耕作する例は多く、領主もそれを歓迎するということがありました。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 一村丸々逃散はあまりないのですね。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう