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三国干渉

三国干渉において中学の授業で ロシアが満州への進出を狙っていたため、 ロシアは中国に遼東半島を返還するよう日本に勧告したと教わりました。 ロシアは満州への進出を狙っていたのに、遼東半島をもらった日本になぜ 干渉したのですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • comattania
  • ベストアンサー率23% (840/3549)
回答No.1

【三国干渉】は、明治28年(1895)、日清戦争の講和条約(下関条約)締結後、ロシア・フランス・ドイツの3国が日本に干渉を加え、条約で日本が得た遼東半島を清国に返還させた事件。 これの発端は、日清戦争で、日本は清国から、台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲を受けたが、ロシア・フランス・ドイツは、清国国内に覇権を拡大しつつあったため、日本の進出を好まないから、反対を唱えたわけで、清国の国益を擁護したわけではありません。 これが、日露戦争へと発展して行くのです。遼東半島を返せと云いながら、ロシアは半島先端の旅順に軍港を持っていたのです。 世界の国々の平和云々は、自国の安定と、覇権が目的であることはいつの時代でも同じなんです。要するに日本の外交は、目先しか見ていないから、竹箆返しをいつも喰らってるのです。

karasu0007
質問者

お礼

日本がきにくわなかったんですね。 ありがとうございます。

その他の回答 (2)

  • Verhalten
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回答No.3

大国であるロシアが不凍港を得て貿易する事は列強にとって大きな脅威でした。 その為、南下するロシアを徹底的に叩きます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B8%8B%E6%94%BF%E7%AD%96 エジプト・トルコ戦争はイギリスの妨害に合い、クリミア戦争は列強の介入で失敗に終わります。 戦費だけがかさみ、何の利益もありませんでした。(ロシア革命の原因のひとつとなる。) インド方面へも進出を試み、イギリスと険悪になります。 ヨーロッパで南下するのは無理だと悟ったロシアは極東から南下しようと シベリア鉄道の建設に着手します。(1891年) 慌てた日本は朝鮮半島の利権を得ようと日清戦争を起こすのです。(1984年) (当時の朝鮮は清の属国だったので日本の命令を全く聞かなかったから。) 日本はロシアの南下に備える為、何がなんでも朝鮮半島の利権が必要だったのです。 李氏朝鮮を清の冊封から独立させ 日本政府寄りの政権を樹立させようとします。 しかし、三国干渉の結果 朝鮮はロシア寄りの政府が樹立します。 遼東半島を返還させられます。 ロシアは満州から更に南下し、不凍港獲得と中国との貿易。 東南アジアへ進出して植民地獲得。 と、大きな野望を持っていたのです。

karasu0007
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

広い視野で前後関係を捉える努力をしてください。もっとも質問者さんが悪い訳ではなくて、日本の歴史界そのものの視野が余りにも狭すぎるので話がちっとも見えてこない訳です。 露西亜帝国は16世紀から19世紀まででオスマン帝国と11回戦争しています。露土戦争と総称されています。10回目の露土戦争がクリミア戦争で英仏とサルデーニャ王国がオスマン帝国側で参戦した為、露西亜帝国は敗れています。1853年から1856年です。南下しすぎて英仏の利権と衝突してしまったということです。英仏はオスマン帝国と友好的だったともいえず、オスマン帝国の弱体化に伴い、オスマン帝国領内に利権を持っていました。それが露西亜に侵されそうになったのでオスマン帝国側で参戦したのです。サルデーニャ王国は何の関係もありませんでしたが、イタリア統一事業でフランスの支援を得たかったので手伝い戦をしたのでした。それで露西亜帝国は悟ったのです。産業革命で近代化した英仏と戦ってはいけないと。それで外交方針を大転換します。バルカン半島方面の南下政策を中断して、南下政策の矛先を極東に変えたのです。またアラスカをアメリカに売却せざるを得ないほど、戦費が嵩んで資金難にも追い込まれました。そこで眼をつけたのが清です。清もアヘン戦争の敗北、太平天国の乱で弱体化を露呈しつつありました。 極東方面の南下政策第一弾が1858年のアイグン条約です。1856~1860年のアロー戦争に便乗して、弱った清に付け込んで押し付けた不平等条約です。アロー戦争は清と英仏の間の戦争で露西亜は参戦していませんが、参戦しないことを恩に着せるといったやり方です。押し売りした恩の見返りに従来、清の領土だった外満洲を露西亜と清の共同管理地にしようというのがアイグン条約です。 これが露西亜の外交方針の転換です。従来、力づくでやみくもに戦争に訴えていましたが、戦費がかかりすぎるので、別件に便乗して機会を捉えて、恩を押し売りすることで、戦争でなく外交だけで領土を広げようという方針なのです。その外満洲が現在の沿海州なのです。 さらに露西亜は2年後の1860年には北京条約で、外満洲を露西亜領とします。共同管理地というのは一時の方便に過ぎず、初めから侵略する気だったということです。 授業では「ロシアが満州への進出を狙っていたため」と習ったかもしれませんが、実際は既に進出しているのです。 露西亜は軍事都市としてウラジオストクを建設しつつ、残る内満州への進出の機会が到来するのを待っていました。 さあ、待ってた甲斐がありました。日清戦争・下関条約で清が日本に遼東半島を割譲しました。やっと露西亜の出番がやってきたという訳です。 日本は旅順・大連がウラジオストクのようにされる前に機先を制したつもりでしたが、これが完全に露西亜に逆用されて露西亜に機会を与えてしまったのです。 それが三国干渉です。同じく清への進出を企むフランス、ドイツを誘い合わせて、日本に遼東半島を清に返還するように勧告するわけです。 露仏独の三国は、清に恩を押し売りして、その恩の見返りに清から租借地をもらうという下心があって、何も関係が無かったけど介入してきたのです。 口先介入ですから、戦費はかかりません。百戦錬磨の露仏独の狡猾極まりない外交術です。日本は江戸時代260年間鎖国していただけに、単純馬鹿の馬鹿正直外交しか知りません。 膨大な戦費を費やし、血を流して、露仏独の清侵略の手伝いをしたのと同じですから、これほど馬鹿な話は無い訳です。 三国干渉で露西亜は清に恩を押し売りした見返りに露清密約で内満州での鉄道敷設権を獲得します。さらに1898年には旅順大連租借条約を結び、旅順・大連を租借地にすると共に、旅順・大連への鉄道敷設権を獲得します。シベリア鉄道から分岐してモスクワから旅順・大連まで線路で結ばれることになった訳です。日本にとっては最悪の事態です。 その旅順・大連への鉄道が、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で露西亜に日本に譲渡した南満州鉄道なのです。つまり日露戦争の目的は、下関条約の失敗を取り返して、露西亜の極東方面の南下政策を挫くことにあった訳です。 日露戦争の敗北で挫折した露西亜帝国は再びバルカン半島方面の南下政策に眼を向けます。それが独露の対立を軸とした第一次世界大戦に発展するのです。民族自決を大義名分として、露西亜はオーストリア帝国配下、オスマン帝国配下のスラブ系諸民族の独立をそそのかすようになったのでした。 細かいところは、省略したけど、これが大まかな流れです。話の流れが見えてきただろうか。

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