• ベストアンサー

日露戦直後に東清鉄道をロシアが手放していれば

仮定の話で申し訳ございませんが、もし、日露戦直後に東清鉄道におけるロシア帝国の影響力が大幅に減少していたら(例:全線が日本のものになる、アメリカなど、第3国との共同経営になる)、 1.ロシアは満州進出を諦めていたか否か(史実では、日露戦後のロシアはバルカン半島進出に意欲を見せていますが、それがもっと早い段階で現れていたか) 2.日本はロシア軍の復讐戦を恐れずに済んだか否か(ロシア軍の満州における作戦行動が大幅に制限される点に注目) を、推察で結構ですので、教えて下さい。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • DieMeute
  • ベストアンサー率70% (571/807)
回答No.1

>1.ロシアは満州進出を諦めていたか否か 一時的には諦めるでしょうが、完全には諦めず、ロシアに有利な機会が到来すれば、また進出のチャンスを窺っただろうと思います。 ロシアは南下政策ではトルコとも衝突していますが、それは実に400年以上もの長い間、ロシアはトルコと衝突を繰り返し勝ったり負けたりしながら、南下しようという努力をしていました。 たとえ日露戦争で負けて、東清鉄道を失い、すぐには挽回が無理だとしても、年月が経てば戦争の被害は回復するし、日本と中国の関係や列強の力関係、思惑もどう動くかはわからないのですから、完全に諦めてしまう事はないと思います。 一回負けたぐらいで将来に渡り全てを諦めるとは思えません。 史実ではそういう長い歴史の目で見る事は適わずに、ロシアはソ連に変わってしまいましたが・・・ >(史実では、日露戦後のロシアはバルカン半島進出に意欲を見せていますが、それがもっと早い段階で現れていたか) いいえ。そうは思いません。 歴史的に見れば元々バルカン半島にロシアの目は向けられていますが、日露戦争後の場合は、トルコにおける青年トルコ革命の成功によるトルコ帝国の内紛と、それに乗じたブルガリアの完全独立があった事が大きな要因だと思います。 そうした出来事があった事からロシアはブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャをバルカン同盟として纏め上げ、トルコ、オーストリアというロシアと敵対する勢力への対抗手段の一つにするよう動きました。 もし、トルコでの革命が無く、ブルガリアの完全独立がなされなかったら、ロシアがそこまで積極的に動いていたかは疑問です。 2.日本はロシア軍の復讐戦を恐れずに済んだか否か(ロシア軍の満州における作戦行動が大幅に制限される点に注目) 前述した通り、ロシアが完全に満州を諦める事は無かったと思うので、その脅威は残ったでしょう。 また、満州における東清鉄道などの権益が日本側に渡り、日本軍の影響が満州で強くなると、ロシアにとり今度はシベリアの防衛問題が出てきます。 すぐに日本軍がシベリアに触手を伸ばすというものでもありませんが、脅威がシベリアに一歩近づく事になります。 当時、シベリアのレナ川周辺では金が産出され、ロシアの金生産の25%を占めるほどでした。シベリアでは以後も金鉱山が発見されています。そうしたシベリアはロシアに必要不可欠であり重要な資金源でもありました。 南下政策とシベリア防衛も合わせて、極東ロシア軍の戦力は整備されるでしょうから、日本とロシアの睨みあいになるかと思います。 東清鉄道を失えばロシアにとり軍事力の移動が速やかにはいかなくなりますが、1916年には現在のシベリア鉄道のルートが完成します。 結局はこのシベリア鉄道がロシア軍の軍事行動の要となり、満州への脅威となります。 シベリア鉄道が完全に完成する前の時点でも、日露戦争時点でシベリア鉄道はチタ方面は完成していましたから、その方面からの満州への進出は可能です。 つまり短期的に見た場合はロシアの満州進出は停滞するでしょうが、長期的に見た場合はロシアが捲土重来でまた満州に進出を企む事は充分ありえたかと思います。

tegetege77
質問者

お礼

1.について  そうですか・・・やはりロシアにとっては「負けるはずの無い戦い」で負けた上、長期戦に持ち込めば勝てたかもしれない戦いだったので、そう簡単に諦めはしなかったのでしょうね。 2.について  やはりロシア側の立場に立ってみれば、極東の防衛問題が生じる、よって少なくとも東清鉄道本線が極東ロシアの生命線になる、ということで、そもそも仮定が成立しませんね。 ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

「復讐戦」とか「諦める」とかいう角度で検討していては、なんだか掴みけれぬ話ではないかと。 復讐戦とかいうワードは、国民国家、国民皆兵といった、国民全体に戦争の正当性をプロパガンダするために使われる言葉であって、プロパガンダを行う前の政策選択は、もっとドライにやっている。 要は、コスト効率的に効率のいいところに影響力の拡大を図る。 1,2の前の 0 東清鉄道の利権をロシアが手放すかどうか? 実際の戦闘結果として、奉天まで日本軍が占領していたので、その占領地域に主に設置されていた鉄道である、南満洲支線を長春まで割譲したのが史実。 大連への連絡の意味がなくなった南満州支線と違って、ウラジオストックとの連絡線である東清鉄道を手放すことは考えられない。ハルピンまで日本軍が占領していないとロシアが手放すとは思えません。 1902年 1月 日英同盟 1903年 3月 ボスニア危機 ドイツがロシアに最後通牒で脅す(オーストリー=ロシア同盟関係の崩壊) 1904年 2月 日露戦争 1905年 9月 ポーツマス条約 1905年 12月 イラン革命始まる  1906年 英露協商の交渉始まる 1907年 7月 日露協約 1907年 8月 英露協商 1911年 12月 ロシア、イランに介入、英露でイランを管理 極東のしかも満州だけを見ていてはなんもわからんわけで、当時のNo1国家イギリスとそれへの挑戦国ロシアとして考えるならば、日露戦争終結直後の動向は A 満州近辺:イギリスが日本と組むことの本気度が重々わかったので、手を打つ B チベットも手を打つ C イランがゴタゴタしているので、一緒に介入しましょうと手を打つ となりますので、ロシアが進出の最重点方面として極東を考えることは、この段階ではありえない。日本と再戦することは、イギリスとの関係を壊すことになりますから。

tegetege77
質問者

お礼

局地のことだけ見ても世界情勢は掴めない、そのとおりだと思います。 回答No.1でも書きましたが、そもそも前提条件が成り立ちそうに無いので、この質問は取り下げます。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 日露戦争後のロシアについて

    どうしてロシアは日露戦争後、再度日本、満州を攻めなかったのでしょうか。 血の日曜日事件を片付けてしまえば、もう一度日本を攻めてもきてもいいのではないでしょうか。その後西へ転じてドイツとバルカンで戦うよりは、満身創痍の日本と戦った方がマシな気がします。

  • 日露戦争

    当時のロシアの意図として満州進出後から「朝鮮半島全土制覇」はあり得たのでしょうか? 当時のロシアが朝鮮半島全土を押さえたところで、特段にメリットはなさそうに思えるのですが。 それと 当時のロシアに、日露戦争に関わらず、日本本土侵略の意図があったとするなら、北方からの進出を企図しませんか?わざわざ満州→朝鮮→対馬海峡→九州・中国とかなり手間がかかるルートをあえて選択するのでしょうか。実際、WW2終戦直後、スターリンはトルーマンに、既に手中とした北方からの進出による北海道半分のソ連支配を要求しています。 いかがでしょうか

  • 東清鉄道平行線が国際資本の参加の下造られていたら

    日露戦争後、満州ではアメリカが利権を得ようと様々なことを仕掛けてきます(桂・ハリマン覚書、ノックス提案)が、いずれも実現しませんでした。 仮定の話で申し訳ございませんが、もし、講和条約か、日露戦後の協定などにおいて、満州を東西に貫く東清鉄道(本線)の平行線が国際資本の参加(アメリカ単独、または米露、日米露、英米露などの組み合わせでの合弁事業)の下、造られていたら、その後の満州や国内の情勢は 1.少なくとも明治末期~大正初期にかけての「2個師団増設問題」のような、国力や財政を無視した陸軍の要求は緩和されたでしょうか?(平行線がロシアに対する防波堤となり、ロシア軍の脅威が大幅に減るため) 2.満州における日本の野心は満鉄沿線程度でとどまり、別ルートからの中国進出を画策していたでしょうか?例えば山東半島に目を向け、ドイツが最大の仮想敵国になるとか。(平行線が日本の北満進出に対する防波堤の役目も果たすため) 3.上記以外に考えられる状況があれば、教えてください。 なお、平行線は西は長春から大興安嶺の麓まで、東は長春から吉林を経由して延吉または韓国領羅津までとし、日露の勢力圏を隔てる「境界線」「長城」の役割を果たさせます。 推察で結構ですので、よろしくお願いします。

  • 満州国を作ったことに中国は感謝すべきでは?

    ロシアは日露戦争に負けるまで満州を勢力下に置いていました。日露戦争で日本は遼東半島の203高地に陣取るロシアと戦いました。 中国は日本が作った満州国を非難しますが、もし日本がロシアを追い払い満州国を作っていなかったら満州はロシアの領土となっていました。しかもロシアは第二次大戦の勝利者ですからあのスターリンが領土を返す筈がありません。 結果的に中国は日本のおかげで戦後、満州を再び手に入れることができました。中国は日本が満州国を作ったことに感謝すべきでは?

  • 日露戦争前後の日米関係

    米国はロシアの満州進出に不快感を感じており 日本を支持したのに戦後日本は満州を独占した 為日米関係が悪化したと息子が学校で教わった そうです。 満州進出はやはり誤りで朝鮮と台湾で我慢しとけば 米国を刺激せず敗戦を回避できたのでしょうか。

  • 満州とロシアについて

    ポーツマス条約で日本はロシアから、遼東半島南部の租借権とハルピン~旅順間の鉄道の南部の割譲を受けましたね。 これをもとに日本は大陸への進出の足がかりとするわけですが、満州事変で全満州を支配するまで、北満州を支配しているロシアとはどう折衝したのでしょう。 権利をロシアから買ったとかですか? それとも租借の期限が終わって返したとか??

  • 三国干渉

    三国干渉において中学の授業で ロシアが満州への進出を狙っていたため、 ロシアは中国に遼東半島を返還するよう日本に勧告したと教わりました。 ロシアは満州への進出を狙っていたのに、遼東半島をもらった日本になぜ 干渉したのですか?

  • ロシアの南下政策はどうして日本にとって脅威だったのでしょうか?

    はじめまして。 歴史を少し勉強するにあたって、どうしても理解できない部分がでてきたので、お詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。 当時のロシアは不凍港を狙って朝鮮半島に進出する気配をみせていたそうなのですが、日本にはどうしてそれが脅威になるのでしょうか? 朝鮮半島の次は日本が危なかったからということで認識していてよろしいんでしょうか? その結果として日本は朝鮮半島や満州に進出したとのことなのですが、そこの部分も平和ボケした私の頭では良く呑み込めません。(^_^;) 海を挟んだ「対岸の火」という位にしか感じないのです。 分かりやすく教えていただけると非常に助かります。 なお、政治的思惑等は一切ありませんので、中立的な立場からのご回答を期待します。 よろしくお願いします。

  • ソ連が満州から撤退した訳

    ロシア(ソ連)が不凍港が欲しく、 満州や朝鮮への進出を狙っており、 それによって、防衛のために日本側が、 日清戦争や日露戦争に発展したと聞いたことがあります。 だとするなら、なぜ、 太平洋戦争末期に、満州に突如攻めてきたソ連軍は、 その後撤退し、中国に満州を譲ったのでしょうか。 中国もその時は疲弊していたはずですし、 そのまま居座れば満州がソ連領土になった可能性も あると思うのですが。 最近の政治とか見ていても、ロシア人はズルイというか、 そういう印象があるのですが、(北方領土とかもあるし) 簡単に?撤退したのはなぜだか教えて下さい。

  • 朝鮮半島支配とロシアの南下

    大日本帝国は朝鮮半島を植民地にしました。 しかし、他の列強国のそれとは違い、東南アジアに比べれば地味も少ない朝鮮半島の支配は赤字続きで、経営的に失敗でした。石橋湛山が言ったとおりに。 結局、日本が朝鮮を支配下においたのは、ロシアの南下を防ぐ為だと言われています。ロシアに朝鮮を支配されたら、そのつぎに日本も支配されていた、ということらしいです(最近、日露戦争はイギリスにそそのかされた結果だという考えが頭から離れません)。 質問1。個人的な考えでは、日露戦争をするくらいの軍事力があれば、朝鮮半島支配などせずとも、本土防衛は出来たのではないかと思いますが、いかがでしょうか。 質問2。ロシア南下防止以外に、朝鮮支配のメリットまたは必要性はあったのでしょうか。 よろしくお願いします。