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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:マ(間・間合い)の理論  (つづき))

マ(間・間合い)の理論とは?

このQ&Aのポイント
  • マの理論は世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。
  • マの理論は、相手とのマ(間合い)が抜けたり違ったりすると起きる心的かつ社会的な現象を探求します。心理学や精神分析はこれに従属します。
  • マの理論は人文科学や社会科学のすべてに応用されます。人間関係や社会階級、役割関係もマの理論の一環です。

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回答No.7

「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。 これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。 しかし、如何せん、人間は、好むと好まざるとにかかわらず、間接的に殺人に加担することがあります。これは悲しいけれど現実です。 たとえば、携帯などで使用されているレアメタル、石油などの資源権益、資源分配をめぐる争いがその典型的な例でしょう。 その資源をめぐる争いで毎日のように人が殺されています。もちろん、私は直接的にその殺人行為に加担してはいませんが、わたしが携帯を使うこと、日々電気やガソリンを使う日常的行為によって、関節的にその殺人に加担しているわけです。私の日常の行為が巡り巡ってその殺人を誘発しているわけです。したがって、私にはその殺人に対する道義的な責任があるわけです。「そんなことになることは知らなかった」では済まされない問題です。 しかし、人間の能力は限られています。自分の何気ない日常の行為がどのような結果を招くかなど予測不能です。また、そうしたことを一つ一つ気にかけていたら、日常の生活を送れません。ジレンマです。ここに、非常に難しい問題が、矛盾があります。 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。 この「めぐりめぐっての間接的な殺人」についてbragelonneさんはどのようにお考えですか。ご意見を伺えれば幸いです。 ☆ アブラハムのイサク殺害に関するbragelonneさんの解釈は深いですね。 私は、神がアブラハムの忠誠を試した話としてしか理解していませんでしたから。 最愛の息子でさえ神に対して捧げることができるのか? アブラハムの苦悩、葛藤は別にして、アブラハムには「神がイサクを犠牲に求めるには人知を超えた何らかの理由がある」、あるいは「たとえ殺したとしても、神によってしかるべき取り計らいがあるに違いない」という強い確信があったと思っていたもので 話は予定調和に終わっているので、のちに神によってモーセに与えられる「汝、殺すことなかれ」に抵触しない形で終わっていますけれども。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  どう言いましょうか。この質問においても わたしの場合 要するに《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。  というわけは たとえば  ☆ 理念 あるいは 道徳  ★ といった概念や観念の形成される以前の或る種の心や意志のみなもとのような領域における出来事です。  むろん そのことは次のごとく捉えることにおいてそのまま質問趣旨に沿っていただいているようではあるのすが。つまりまづ  ☆ ~~~  「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。  これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。  ~~~~~  ★ なのですが ここで 微妙な異同があると思われることにさらにこだわってみます。    一方で  ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 無前提の原則 / 公理  ★ と捉えてもらっているその他方で  ☆ 理念・徳性  ★ という規定もされているということ。ここにこだわってみます。つまり 違うという感じを持っています。  アブラハムのイサクを犠牲にささげる物語をめぐっての解釈にもかかわって来ているかと思います。    ○ アブラハムは 長い苦悩のトンネルを抜け得たのは 《自分でも他人でも ひとが ひとをころすことはしないものだ》というヒラメキが得られたからではないのか。  このとき 《神は ひとが ひとをころすことを欲しない》と言いかえてもよいかと思います。  ▲ (ホセア書6:6) ~~~  わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく  神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。  ~~~~~~~~~~~~~~  ★ さんざん生け贄を受け取っておいて 何を言うかとも思いますが アブラハムのインスピレーションとしては これであった。と思います。  すなわち  ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 〔無前提の原則 / 公理〕  ★ としての内容であり それはあくまで  ★★ 《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。    という道草の段階なのであり そしてまだなお ひとりの人間の主観にとどまっています。そのあとようやく概念として持たれるようになって  ☆ 無前提の原則 / 公理 / 理念 / 徳性  ★ として受け留められるようになるのだと。  何だか歯切れがわるいですし 問題のないところをあたかもイチャモンをつけているみたいですが 確認します。  ○ ~~~  アブラハムにとって 自分の心なる非思考の庭における神とのあたかも対話は 結論として 《イサクを ころさない》が得られた。  これは・つまり《ころさない》というのは  (1) やっと思考にかかわるかたちで翻訳したあとの言葉として得たものである。実際は ヒラメキである。意味のあいまいなイメージとしてのような直感であった。  (2) しかも概念化して《ころさない》と規定しえたとしても まだなお アブラハムという一人の人間の主観内面における出来事であるに過ぎなかった。  ~~~~  言いかえますと 次のような問いかけになると思います。  (3) この《ころさない》あるいは《神は いけにえを欲しない》を モーセはいとも簡単に律法規範としたようだ。それは いったいどういうことなのだろう?   (3-1) つまり神は 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》であるというごとく一人ひとりの神であるはずだ。したがって 《ころさない》という観想もまだまだひとりの人間の主観の内にとどまるのではなかったか? それを いつのまに《共同主観》としたのか?  (4) しかもさらに アブラハムの得た観想は 《ひとは ひとをころさない。われは ひとなり》といったひとつの《判断》であり さらにはそれを表現したとすればそういう《意思表示》であった。なのに モーセはこれを《なんぢ ころすなかれ》というふうに《人間という人間の主観をぜんぶ束ねてしまって 頭ごなしに規定として措定してしまった》。それでよいのだろうか?     *  その上で  ☆ 「めぐりめぐっての間接的な殺人」について  ★ ですが:  これは ヒラメキの内容から逸れる《マヌケ》や内容をねじ曲げる《マチガイ》を  片や抽象的に そこに居合わせた人びと互いの心的現象という次元における同時一体性の内に見るかどうかの問題があり  片や具体的にたとえば資源獲得競争にしのぎを削っている人びとと その経済行為をまわり回って間接的に共有しているのではないかという同時一体性の問題があると見ます。  しかも ずるい見方をもしなければならないと考えます。一人ひとりがそれぞれの内面において《わが神(または わが無い神)》をいだくというように 一人ひとりはその自由意志において行動しているということも 実際なのだと見ざるを得ないようです。  その上で先の《自然本性ないし心的現象を基礎としての 具体的な経済行為をもめぐる人びと相互の連帯性》において マヌケやマチガイについて共同の責任を負うというかたちになるかと。  ☆ 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。  ★ とおっしゃるその中身を 上のように考えるというひとつの結果を得ました。  たぶん ヒラメキ次元を大事にするところの――そしてその意味で 一見場違いのような《タマシヅメ・タマフリ》の事例を出していますが の――自然本性ないしそのような基礎における観想が 人びとのあいだのマの関係としてその水嵩を増して行くことを思います(そう期待します)。   いやあ むつかしいですね。

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その他の回答 (23)

回答No.3

昔、ピクニックに行きました。 もともとは、朝鮮半島の方が発達していたのは間違いないと思います。 想像だけど、その負けている感をうまく「たかくなおきこころ」みたいに、 とおとぶところからってきがする。 だから、「まちがい」をたくさん、表に出してはずかしめられること で、アイデンティティを変容させていくことにマゾ的快感をもとめる ことが、それが、たかきこころの推進力だったとかって かってに考えた。 予想のとおり、やっぱりネットあきてきました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ ~~~  昔、ピクニックに行きました。  もともとは、朝鮮半島の方が発達していたのは間違いないと思います。  ~~~~~  ☆ ええ。トゥンサン(登山)なんかは ごく一般的な趣味・スポーツであるとか聞きました。  ★ ~~~~  だから、「まちがい」をたくさん、表に出してはずかしめられること  で、アイデンティティを変容させていくことにマゾ的快感をもとめる  ことが、それが、たかきこころの推進力だったとかって  かってに考えた。  ~~~~~~  ☆ あぁ。《立ち帰る》ということは 恥をかきかき たどり着くことだということでしょうか?  でも それほどでもないと思います。またそういうことは前提にしていませんでした。  つまりそれは ヒラメキを前提としていましたし いまも そうです。  ただ きっかけは 何らかのマイナスの事態が起きて そういう静かな《立ち帰り》の時間を持とうとするということかも知れません。  ★ 予想のとおり、やっぱりネットあきてきました。  ☆ そうですか。ご卒業ということでしょうか。  そうですね。《わたしがわたしである》ことは 競争でもなければ ほかの人間との比較の問題でもないとは思いますけれど。・・・

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回答No.2

同意見です。 グローバルといいながら、かわいい子を旅に出す在り方として 現状どうなのかと考えさせられます。 もともとあるおおらかな、野山を駆け回る黄色い猿のプライドを、 格差とか二局化の社会承認的なエリート意識で抑圧しておいて、 階級社会に放り出して、イエローモンキーのデッドロックの罠 に苦しんでひねてしまった人も知っています。 アグレッシブな勇気のいる大変なことなのに、 なんか無責任な気がします。 個性なんて、へちゃむくれや、短足や、いんきんたむしみたいな ことを、まるで芝生の青さのように流布したり、へんなんですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ご見解が一致したようです。  ここらあたりが 重要ではないかと思っております。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  ~~~~~~~~~~~  ☆ ただし このことの実際のあり方としては まだまだ 一般に共同の概念として持たれてはいないかも知れない。というこれからの望みがあります。  ★ ~~~  個性なんて、へちゃむくれや、短足や、いんきんたむしみたいな  ことを、まるで芝生の青さのように流布したり、へんなんですね。  ~~~~~  ☆ といった《個性》にしても すべて鎮めて まづ静かなたましいに立ち帰るといった・雲をつかむような話を〔も〕 しようとしています ここでは。  深く静かに潜航しまして やがては・ほんとうは グローバルな舞台にも出て行く人びとの姿をも描いてみたいというふうな です。その土台のような存在のあり方です。  ★ アグレッシヴ  ☆ な世界を 突き抜けて行くような姿です。  さらに問い求めが煮詰まって行くことを期待したいと思います。  

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回答No.1

マチガイは人類を進歩させる動力源のひとつですゾ ヒトがヒトを殺さないて必然がそもそも無いのでは? 次段階への飛躍=見方を変えればマチガイの一形態 相互不可侵の均一社会が望みなら私輩とは意見違い

bragelonne
質問者

お礼

 うろんりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  さあて あたらしい質問なんですが・そして一番目のご回答なので 全体的なことを書いたほうがよいと思ったのですが いきなり わたしからの反応をつづってまいります。  ★ ヒトがヒトを殺さないて必然がそもそも無いのでは?  ☆ これは 原則として成り立つかどうかの まづは 問題です。公理のように前提としうるかという。  たとえば――最近用いた例示ですけれど―― 憲法によるかぎりで日本国民は 納税の義務があります。つまり これは 労働や教育を受けることやの取り決めと同じく 原則の問題としてあります。  そして同時に 実際上どうなのかといった《必然か否か》などの問題も 別にあります。  つまり 納税の義務という原則があることと この義務に従うことは必然かということとは 互いに別の問題です。  よって――仮説としてですが――  ○ 《わたし》は《わたしがわたしである》というマの原則にもとづけば 《ひとは ひとをころさない》と見る。  というかたちです。  ○ 《わたし》は 《ひとは ひとをころさない》という能力をその生まれつきの自然本性において持つ。  といった内容の原則です。  したがいまして 次の命題も 重要な主題であるようですが 一概にそう言えるものかどうかの問題もあるかと考えます。  ★ マチガイは人類を進歩させる動力源のひとつですゾ  ☆ いろんな場合がありそうです 考えてみれば。  ○ (マチガイが じんるいの進歩に貢献した場合) ~~~  1. セレンディピティと言いますから 思わぬ〔良い〕発見は さまざまにいくらでもあるでしょうね。あやまちという意味での間違いではないのでしょうが 初めの意図としてのマが違ったところで 進歩につながる動力源となるのでしょう。  2. ということは 考えてみるに 初めからマチガイを意図していたとか計画的にマチガイをおこなったというのでもない。ということではないか?――すなわちこれも 原則の問題と実際のあり方や応用の問題とは違うということを物語っていませんか?  ~~~~~~~~~~  科学上の発見とかを 上手に例で示し得ず 打ち切りましたが そういった二面性もしくは 原則と応用といった構造性をもった命題ですよね。  ★ 次段階への飛躍=見方を変えればマチガイの一形態  ☆ 要するに こういう場合に《マチガイ》を持ち出すということは おそらく結果論としてのことなのでしょう。  そして キュリ夫人がラヂウムの発見をしたことは マチガイのもとにおこなったことではなく しかもその結果被ばくによって寿命をちぢめるというマチガイが起きました。  よって 前提としてマチガイを置き 全面的にマチガイを肯定して認めこれを勧めるという行き方は 違うというように思いますゾ。  ★ 相互不可侵の均一社会が望みなら私輩とは意見違い  ☆ たぶん それでも《マチガイを起こさないという原則を 大々的にそこら中に張り巡らせる》といった方針あるいはそういったクウキ これには反対するということなのかも知れません。  おそらく――言えることは―― もしひとのおのが内面においてもあるいは外面における人と人との交通関係においても マの取り方が自然本性に沿って無理なくうまく行った状態に ひとと社会がもし成るとすれば そのときには〔おそらく 言えることとしては〕 《人間(現実)が変わる》ということでしょう。  いまのホモ・サピエンス・サピエンスが あらたなニンゲンの種に変わるということです。  そのあたらしいじんるいにとっては   ★ 相互不可侵の均一社会  ☆ の問題としてではなく あたらしい別種のマチガイを許容して自分たちの世の中をいとなんで行くことでしょう。    でもまだまだこの今の日本において お上の言うことに逆らわないといったクウキが有力であるとすれば その状態のほうが  ★ 相互不可侵の均一社会  ☆ なのではないでしょうか? いますでに閉塞感をともなった閉鎖社会に閉じ込められているのではないでしょうか? ただただ感性を麻痺させて それに耐えているのではないでしょうか?

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  • マ(間合い)の理論⇒マを取る⇒芸術といういとなみ

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。  そして マをうまく取ると ひとは我れに還る。我れに還った状態というのは たましひがやすらかで 身と心とがすこやかであることだ。  では マをうまく取るというのは どういうおこないか?  一般に 《たましづめ(魂鎮め)》だと考えられる。しかもこれには 魂振りと狭義の魂鎮めとがあるはずだ。  静かなたましひを保つために 人は互いにまづ先に魂振り・すなわちツッコミをおこなう。ここからマの取り戻しが始まる。  ちなみに このツッコミをいくらおこなっても相手が反応してくれないときには こちらは手に負えなくなる。交通渋滞が起きる。現代人の悩みは これである。  この交通渋滞としてのマのチガイや抜けを 元に戻す魂鎮めなる行為は 一般に芸術がになうのである。  芸術とは たとえてみれば尺八や法螺貝のひと吹きによって 世界が その今の舞台としてどんでん返しに遭ったごとく 変わるそのきっかけのことである。    この仮説にもとづき 芸術のになう《癒し》の具体的なあり方を哲学してください。  また この仮説じたいについてのご批判をも寄せてください。  芸術の担う癒しないし魂鎮めのキッカケは 一般に美である。この美については それが人それぞれの美学のもとにあることを 次の質問で尋ねました。   【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8918609.html  そして 音楽の美については 次の質問で問い求めています。   【Q:音楽って何のためにあるの?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8902931.html  芸術の全体をまとめて述べてくださってもよいですし 個別に音楽や絵画等の具体的なコトゴトについて明らかにして行く作業も 歓迎します。  要するに あなたの美学をご披露ください。  ○ よろしかったら 次の マの理論を参考にしてください。    (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してくださっても 歓迎です。感想だけでも よろしいです。

  • ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――

    ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――  《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。  《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。  ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。  例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。  禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。  けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。  ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。  要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?  でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。  どうすればよいでしょう?  * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

  • 《わたし》なる理論は 哲学プロパーではないか?

     次のような理論は 人生哲学であっても 哲学プロパーなる哲学ではない。という見方が 提出されました。  果たして いかがお考えになりましょう? おしえてください。          *  《わたし》なる理論  1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《アートマン(霊我)もしくはブッダター(仏性)》ないしは《プネウマ(神の霊)》をやどす。《非知》としてのナゾなる神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。  2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツハリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガイをみづから認めることをとおしてである。しかも われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む境地としてのわれである。  3. われに立ち還るというのは 自己還帰また自己到来と呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば:    (α) わたしは わたしである。 1=1  4. そして立ち還るときの姿としては:   (β) わたしは《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1  5. 人はおのれのついたウソからわれに還り 他人(ひと)のイツハリにあざむかれたと知ってやはりわれに還るとき この(β)の言わば自己のさらに二乗を繰り返し 《わたし》を生きる:   (γ) 《わたしがわたしである》わたしは わたしする。        1x1x1x・・・x1=1 すなわち 1^n=1  6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。超えた部分をも持つ。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たというものでもない。つまり人間なる存在にとって 生来の所与としての人間の条件である。  6-1. この人間の条件を無条件に受け容れることが 自己の内なるアートマンもしくはブッダターないしルーアハ(神の霊)にめざめることである。  6-2. そのときわたしは アートマンにつうじているブラフマン神もしくはダルマ・カーヤ(法身)のブッダないし普遍の神に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここでわが心なる《非思考の庭》が成る。  7.  非思考の庭 これが 《信仰》のことであるが ふつうはそれは (β)および(γ)における意志行為一般に道をゆづって 背後にしりぞいている。  7-1. 意志行為が 生きることの基本であり 記憶行為や知解行為との連携において中軸を成す。  7-2. 言いかえると 現実に生きる過程において芽を出し花を咲かせ実が成るという場合 中軸の意志のほかに じつは中核として あまり顔を出さないところの・(α)の《わたしはわたしである》その動態がはたらいている。  8. あとは 実際問題としてこの世の中には シガラミがすでにあり よく言えばそれは伝統にかかわって飾りや誉れであったりしつつ よくもわるくも自己の心の・正負の充足にかかわる。これは 空(シューニャ)であるが 仮りのものごととして確かに現象している。  9. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては シューニャター(空性)は捉えられない。  9-1. 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。生きる過程の問題であってよい。  10. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人は社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。  10-1. ここに(α)の《わたし》にそなわるアートマンは 思考の緑野へと翻訳され 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛――互いに隣人であること――》という言葉で説明される。  11. ・・・・・・

  • 《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》

      《怒り》にかんする次の質問について 結論らしきものがあれば 大方のみなさんの同意を得てまとめておくのがよい。と考えた結果の質問です。     【Q:【怒り】という感情はあるのですか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8663798.html  《にゅうとらる》は  ここでの参加者(上の質問者)の ID ですが 《怒り》が 利害関係などから自由に起こり言わば中立であると考えられるので ちょうどよい名づけではないかと考えます。  以下 申し訳ないですが わたしの投稿記事を たたき台にします。        *  (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。  (い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。  すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。    (う) 怒りは 案外さまざまな感情と違って中立であるように思われます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  :利害関係のあるところにだけ発生する落胆や悔しさとは違って   いつでもどこにでもあらわれ、思い込みや期待を含まないということなのかな。  あくまで自分のために湧くもの、ということなのかな。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    拉致被害者の家族の皆さんの気持ちと考えを思ってみると分かりやすいのではないか。  初めは とにかく身内の者がいなくなったと知って まづ自分を元気づけるチカラとして怒りが現われる。怒りが現われること自体が 自分を元気づけることである。  つまり 一方では 愛する家族の者を手元からうしなった悲しみをも もう一方では 人間の意志を踏みにじる者に対してその無効の行為を中止して原状を回復せよといううったえをも 怒りは活かそうとする。  その後は 問題を分析し国家間の問題だと知ったなら その当事者に 実行をうながしつつ ゆだねる。(または 自分が首相や国会議員になって 解決にあたる)。という問題の処理の仕方に移る。  (仮りにヘイト・スピーチをおこなっても かまわないのでしょうが それは ひとつにすでに怒りとは違ったものになっている。怒りと違わないとすれば 誰か助けてくれという叫びに変わったかたちである〔に過ぎなくなる〕)。    (え) ケガをしたり病気になったりするときにも 傷口には白血球が集まり からだがその病原菌に抵抗し たたかいます。あたかもそれと同じように まづ自己活性化としてのごとき怒りが現われる。  ◆ :生き物に備わった自然な反応ということですね。  (お) 悲しみにあったときや 苦しみを背負ったときでも あたかも怒りのごときチカラの発現はありうる。のではないだろうか。  (ただし いつまでも泣き続けているだけなのは その怒りのごときチカラを要らないと言っているように思われる)。  (か) 怒りがなぜ中立的であって また 瞬間的に現われるものと見るのか?  たぶん いつまでも怒りをあらわにしているというのは そのうったえのつど 相手に負けまいとして怒りを反芻しこれを再現し自分を元気づけるのでなければ けっきょく相手を脅しにかかっている。のではないでしょうか。  ◆  【怒り】に化けている感情  ◆  【威嚇】【恐怖】【防衛のための攻撃】【すねる】【いじける】【存在を主張する】         *  あるいはつまり  (き) 《たまふり(魂振り・たましづめ(鎮魂)》としての《怒り》が あるのではないか?  これは じっさいには《何ものかナゾ》のチカラによって われらが心にそれぞれ起こるものだと考えられます。     ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。    たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。    (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で      鎮静の逆の意味のようです)。    〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。    その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。    間はただのうつろなる時間と空間ではない。    実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《マ(間)》をもたらすのが 瞬間的に起きる怒りではないだろうか? それ以前のマを打ち破る。  (く) 怒りのイカは いか・つ・ち(厳・の・霊= 雷)のイカですので あたかも稲妻・稲光に譬えられます。  (これらの語源については 【怒り】の質問の回答No.27を参考にしてください)。  そして《いかづち》のチが 霊であり 雷は 神鳴りであるなら その古代人の発想を借りて 神にあてはめて捉えてみておきます。  心の傷の癒える自然史的な過程に棹差す鎮魂の場合と同じく 怒りはまづ直接には感性としてあらわれます。そして そのみなもとは やはりナゾの何ものかだと思われ それとして神だと想定してみるという場合です。  神が われわれをそれぞれの内面において元気づけているという見方です。  つまりは 欠けが生じたりこれを繕ったりするという傷 このような傷をこうむる心がある。その心の奥なる奥座敷とも呼べる《非思考の庭》から 稲妻を発したものと想定する場合です。庭ないし場が 電磁場か何か分かりませんが チカラだというものです。神のチカラです。  抹香くさい表現では こうなっています:  ▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~  かの全能者は   最初の人(アダムとエワ)からであれ   その後に加えられたわたしたちの意志からであれ  わたしたちに起こっている悪を  その満ちあふれる恩恵によって  滅ぼしている。     (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  かくして 《怒り》は ゼウスの《雷霆(ケラウノス)》であるというわけです。  ☆ 添削を経て 定理として確定します。

  • 橋本市長のおっしゃる刑法理論を教えてください。

    橋本市長が週刊朝日の被差別部落を記事にしたことについて、 それはやがて、民族浄化主義やナチスの肯定とかにつながり、そういったものは 憲法で発言の自由が保障されているとはいえ、刑法理論でそういうのを防ぐものがあるとおっしゃってました。 社会学では確かにドイツ人のレーデラーという人が世の中の「反動」という現象に対して、冷静に批判しているみたいです。 それはさておき、その刑法理論とは何のことをおっしゃっているのでしょうか。

  • 魂の乞食よ 欠席裁判ほどみにくいものがあるか。

     魂の乞食よ 欠席裁判ほどみにくいものがあるか。  そこに参加する者も 主催者と同罪ではないか。  相手と向き合い堂々と話をすることをしないで いったい社会人として生きて行けようか。  精神錯乱に落ち入るのは自由だが ひとに迷惑をかけるのは自由ではないであろう。

  • 共謀罪

    共謀罪 お世話に、なります。 此の、世界には 反論する、自由は なくなる ので、しょうか? ご意見、頂けませんか? かなり、古くから 私は こう、思っている の、です 怒るもの、だけが 悪い の、ではない 怒らせる そんな、ような事を するものもが、悪い と、 当たり前だ と、思う の、ですが 此、間違いか 教えて、頂けませんか? あと、 国と、いう 存在が 恒に、正しく あれる ので、しょうか? ナチスに、なる、 独裁政権に、なる、 誤った 社会主義に、なる 等、 史実を、見れば 国が 恒に、正しく あるか 語るに、及ばない と、思う の、ですが 此の、国 だけで、なく 此の、世界 から 民権は 消え去る ので、しょうか? 国は 恒に、正しく あれる ので、しょうか? どなたか、論理的に  〉反論する、自由は 不当なのか、  〉怒らせる、ものもが 悪い は、間違いか、  〉国は、恒に 正しい のか、  〉民権は、消え去る のか、 此等、4点を 全て、抑えつつ 此等、全てに 答え、つつ 此の、国の 此の、世界の 共謀罪の 必要性に、ついて 納得、させて 頂けませんか? 痛みを、使われて マに、良いように 弄ばれ、ては 居ませんか?

  • たましいのままのわたしではあまりにも生きずらいのです・・・

    長い自分を見つめる時間の末、内面においても世の中をすべて切り離したときに存在の中心ともいえるたましいにたどり着きました。 それは長い間つきあってきた人格とはまったくかけは なれていました。 そんな人いらっしゃいますか 世の中では、いままでどうりの演じるような自分でしかいることできません。 からだがそんなふうに育ってしまい、たましいに合った表現ができないのです。 なんかわかるっていう人もしいらっしゃいましたら新しく生まれたわたしの生き方にアドバイスください。