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マ(間・間合い)の理論とは?
- マの理論は世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。
- マの理論は、相手とのマ(間合い)が抜けたり違ったりすると起きる心的かつ社会的な現象を探求します。心理学や精神分析はこれに従属します。
- マの理論は人文科学や社会科学のすべてに応用されます。人間関係や社会階級、役割関係もマの理論の一環です。
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「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。 これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。 しかし、如何せん、人間は、好むと好まざるとにかかわらず、間接的に殺人に加担することがあります。これは悲しいけれど現実です。 たとえば、携帯などで使用されているレアメタル、石油などの資源権益、資源分配をめぐる争いがその典型的な例でしょう。 その資源をめぐる争いで毎日のように人が殺されています。もちろん、私は直接的にその殺人行為に加担してはいませんが、わたしが携帯を使うこと、日々電気やガソリンを使う日常的行為によって、関節的にその殺人に加担しているわけです。私の日常の行為が巡り巡ってその殺人を誘発しているわけです。したがって、私にはその殺人に対する道義的な責任があるわけです。「そんなことになることは知らなかった」では済まされない問題です。 しかし、人間の能力は限られています。自分の何気ない日常の行為がどのような結果を招くかなど予測不能です。また、そうしたことを一つ一つ気にかけていたら、日常の生活を送れません。ジレンマです。ここに、非常に難しい問題が、矛盾があります。 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。 この「めぐりめぐっての間接的な殺人」についてbragelonneさんはどのようにお考えですか。ご意見を伺えれば幸いです。 ☆ アブラハムのイサク殺害に関するbragelonneさんの解釈は深いですね。 私は、神がアブラハムの忠誠を試した話としてしか理解していませんでしたから。 最愛の息子でさえ神に対して捧げることができるのか? アブラハムの苦悩、葛藤は別にして、アブラハムには「神がイサクを犠牲に求めるには人知を超えた何らかの理由がある」、あるいは「たとえ殺したとしても、神によってしかるべき取り計らいがあるに違いない」という強い確信があったと思っていたもので 話は予定調和に終わっているので、のちに神によってモーセに与えられる「汝、殺すことなかれ」に抵触しない形で終わっていますけれども。
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- heart_mind
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「無目的にあつくなる」一番それを理解するのが難しいです。 たぶん、テーマパークにいっても実感はできないと思います。 (ピカソの絵はすごいけど) なんか無目的にマジなんですよね、それが不思議でしょうがない。 だけどそこに人々はいざなわれるわけですよね。 そしてはいりこんでいくんでしょうか。 私は、どうも宙に浮いちゃうみたいです。 それでもってしらっとなる。 やっぱり、理解できても実感としてわからないですね。 話は変わるけど、ブロジェロンヌさんは、もうあんまりけんか しないほうがいいと思いますよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「無目的にあつくなる」一番それを理解するのが難しいです。 ★ なんか無目的にマジなんですよね、それが不思議でしょうがない。 ☆ というふうに受け取ってもらったのですね。 ★ 無目的 ☆ というわけではありません。目的は 決まっています。《自由》です。 何もしないたたかい で得られると思っているわけです。 何もしない ゆえに 分かりづらい。 ★ やっぱり、理解できても実感としてわからないですね。 ☆ つまり《無目的》だと映るのではないかと。 ですから ★ ~~~ 話は変わるけど、ブロジェロンヌさんは、もうあんまりけんか しないほうがいいと思いますよ。 ~~~~ ☆ というふうに 基本的な姿勢として《何もしないし けんかもしない》のであるにもかかわらず そこには《たたかい》がありますから――えも言われぬかたちで たたかいがありますから―― わたしの文章に接すると 中にはけんかを売ってくる向きもある。こうだと見ます。 売られた場合には たいてい 買います。 それも大きく対話の一部だと見られるときにです。たいていは コミュニケーションの一環であると言ってよいと思います。 水掛け論や堂々巡りの議論には そのようになってしまっていると言って話し合いをつづけます。 あと 負け戦はしません。 こういう姿勢と方針になっています。
- heart_mind
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ありがとうございます。 「まつりごと」って、もともと外側から設計じゃなかったの かもしれません。 今思い出したけど、前に、文化比較のスレを沢山やっていた 人いました。目の付けどころがすごい壮大な感じの、あまがっぱ さんが、「おおきなふろしきね」って茶化してた。 芝居と演劇の違いのこと、思い出しました。 偶像のパフォーマンスって、きっとそういうことなんですね。 テーマパークが分かんなかった理由がわかりました。 ピカソの絵も、そういうことか。知らないって恐ろしいです。 内側でパフォーマンスするってスタンスなら、クラフトマンの 政治って、一貫してぶれて(軽めに茶髪とかにして)作り込む 方が、あってるっていいたいのでしょうか。 よく、わかってないかもしれません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 前回は 何もかもが偶像になってしまいました。あらゆるものを偶像と見てしまったかも知れません。 あるいはつまり どんなかたちであれ人びとは 何らかの偶像を頭の中にいだいて おのれとのマや 他者とのあいだのマを図っているように見えて じつはけっきょくその偶像(アイドル)にべったりついてしまっている。マを見失っている。 とデカい口をききましたが そうですね。 ★ マツリゴト ☆ の話をします。 わたくしの捉え方は はっきり決まっています。 人びとは 秋になると穫り入れのときを迎えます。 初穂を神(神々)にささげます。 ムラは神に感謝をささげ儀式をおこなうとともに 神との共食として どんちゃんさわぎをもおこないます。 そういった《まつり》です。 或る日或る時 おれたちが神々である ゆえにおれたちに初穂をささげよ われら神々におまえたちは貢げと言い出した人びとがいた。 きわめて学力優秀かつ品行方正 これ以上は人間的には成れないというほど人の道を究めた人たちでした。 この神々あるいは王のもとに その王の徳による感化を受けて 人びとはさらにその生活に励みたまえと それはそれは 堂々と宣言しました。 これを アマテラス族と言いますが かれらの玉にきずは わづかにただひとつ。《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまい》と誓ったことでした。 とうとうムラムラの人びとは これら行っちゃってるアマテラス族に対して 根負けしました。 ならば この社会にも神棚をこしらえてやるから そこに きみたちは住まいなさいと言って 《くにゆづり》をしたと言います。お二階さんの誕生です。 ところがところが この第二階から発する《みことのり》は それはそれは きびしいものでした。 とにもかくにも ムラのマツリというマツリを 自分たちの管理運営のもとに束ねてしまうというものでした。 だから ムラのマツリにおける神との共食やそのときの初穂のささげものは こんどは お二階さんたちへの納税(租庸調あるいは年貢)というかたちに変わってしまいました。 このお二階さん政府を指して 《まつりごと》と言ったとさ。という物語です。 やまとのくには おしなべて われこそはおれ しきなべて われこそはませ と言ったげな。
- heart_mind
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私たちが、何かを認識するときは、まずはアウトラインから 確認しますよね。それが、まだモデル状態とか、設計段階 だったら、あたりまえのようにそうだと思うんだけど。 そこから、さらに外側のアウトラインが気になるはずです。 つまり、どういう思想でもって、どういう世界観を実現させ たいのかとか、それでもってその辺がしっかり見えないと そこをすっとばして、もっとも外側の偶像イメージをみる ようになるということなんじゃないのかと思うんだけど。 大胆であるほどに、きっともっとも外側が気になるのだと 思いますが、これはもしかしたらわかんないけどたぶん あんまりよくない日本人の特性なのかもしれません。 本当は大胆であるほど、もっとも外側や、枝葉末節とかの斬新 さは、みる必要ないといったら言い過ぎかもしれないけど。 とにかく、政治家にも偶像を求めているってことは、よっぽど 社会に不安が蔓延してるってことのようですね。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 たとえばマが抜けた・あるいはマが違ったというのは いろんな偶像(アイドル)のかたちを持ち出して来ることによって起こる。と思います。 現実主義ないし保守派にも 理想主義ないしいわゆる革新派にも起こるようです。 寄らば大樹の陰であり 長い物には巻かれろというのは そのように社会力学上 有力な人ないしその勢力に就き従うということを意味します。 カリスマ指導者が 偶像と見なされています。 自分とのマを見失い そのように外部の何ものかや誰かとのマにくっ付いてしまう。 これではいけないと言うので 別のかたちで理想像を求めます。描きます。 現実の新興宗教の教祖などは それとして社会力学上の有力となっていますから もう省きます。 だとすると やはりブッダとかキリストとかになりましょうか。さもなければ あたかも第三の道として アニメのヒーローやヒロインあるいは 実際のタレントとしてのアイドルらでしょうか。 つまりこれらは 第三の道をもふくめて 現実の社会力学あるいは要するにクウキやシガラミから解放されたところに じつは やはり偶像を描きこれに寄って行きすがって行くということになる。 ですから 偶像は 外側にも内側にも マが抜けたときには求められます。 外側の偶像は いくらカリスマだと言っても 栄枯盛衰があります。朽ち果てれば ただただ無残です。 内側の場合は その内面的な心の問題としてとうとばれることがありますが どうしてどうして 同じく偶像です。ひと言で言えば 神を頭の中で思っていればよいという《観念の神》となり その意味での偶像崇拝のかたちに落ち入ります。 永遠に《さとりとは何か? 神の愛とは何か?》と問い続ける偶像教です。 わたしは わたしである。というマの取り方が 出来ていません。 わたしと言ったときには その言う人がみづからのことを言っています。あたりまえの話です。 わづかに《わたし》を対象化したということです。 その対象化するという行為の主体は やはり《わたし》です。 これが マの取り方です。 そうではなく この《わたし》なる存在の中にわざわざ 別の表現として《自我》をつくって 《わたし》に代える。 《わたしがわたしである》だけでよいのに こんどはわざわざ別の――要らぬ――マをつくるかのように 《自我》を持ち出して来る。 自我の形成だとか 自我の確立だとか わけの分からないことを言い出す。 架空のマをこしらえてそれによってかろうじて 社会力学としての有力な勢力によって圧倒されないようにと考えている。 自我を言う場合には 外側の政治家らの有力者に頼るのではなく 内側のしかも《観念の神》にうつつを抜かすのでもなく そうではないからそれは 《自律》する人間だと言わんばかりに悦に入っている場合がある。それなら まだ アイドル路線のほうが ましだと思う。未来の世の中・次代の世界を夢見ているところが まだよい。 自我を言い自律を 意味もなく説くやからに到っては おそらくはこの世界から逃れたいと思っているらしい。自然そのものになって・しかも動物のように自然に溶け込んでしまって もう世の中のけんかや競争にはおさらばしたいと思っているらしい。われは――自我の確立を言いつつも―― 光の波であり粒子である。われは クオークである。どんなもんだい! おまえら 成れるものなら成ってみろ。と言っているかのようである。 あぁ おおいなるマの抜け落ち。 という反応を持ちました。
- heart_mind
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脱線してすいません。 なんか死んじゃうのかとかってにおもっちゃった。 ネットはやりすぎると死への衝動を加速させる気がします。 だから、どっか「いっちゃってる感」がありますよね。 これは、なぜなのかというのも、一つの課題かもしれません。 本題になりますが、コミュニタリアン、とリバタリアンの折り合い の問題のようです。 例えば、コミュタリアン的には、西洋医学の様なものは、はたして 生まれるのでしょうか、愛すべき隣人の為にという感覚には様々な 限界がありそうです。排他的なコミュニティ感覚では悪い性格の人 はスポイルされても自業自得です。 西洋医学的は、人類愛的な信仰感覚と、冷徹な分析的な感覚の リバタリアニズムから発達したきがする。それもすすみすぎると また、倫理とかけはなれたものになってしまいます。 サンデル教授は、できるだけ透明な目でおとしどころをさぐっている ようでしたが、言い切ることはできてないとおもいます。 浅田彰さんという方も、リバタリアンをほのめかしているけど、 ほのめかしているにとどまっている。 国内というフレームで考えてもということだと思います。 それは、パーソナルなバイアスをとりきれているのかという疑問から 慎重になっているのかどうかは、想像できませんが。 とにかく、そういう問題であるということじゃないでしょうか。 まぬけは、コミュニタリアンのもんだいです。 パーソナルな私の目からみると、そのような問題が目に付くという ことだと思います。 例えば、アウトプットにこだわった少女時代と偶像にこだわったAKB とどっちかという気分的なものになってしまいます。芸能分野以外 だったら、少女時代を目指した方がいいんじゃないかと思っちゃって いる。社会不安から偶像よりになっているからよけいにそう思っちゃう。 ただ、社会不安が内需の嗜好に反映されているっていうのは、共同体と して国をみた場合は悪い事じゃないんだと思うんだけど。 生産は後からついてくるものだという考えの方が、いいとは思うけど 長い目でみた社会幸福感というのも、細かいデータさえ分析できれば 可能な気がするんだけど、どうなんでしょうね。 とりあえず、ネットはほどほどにという結論だけはでましたね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ とりあえず、ネットはほどほどにという結論だけはでましたね。 ☆ ほどほどどころか いつもひまですよ。 数件の回答が固まって来るときには そのときかなり集中的に書き込まねばなりませんが それを除けば まったく楽ちんです。 あとは どうなんでしょう。 ★ コミュニタリアン、とリバタリアンの折り合いの問題 ☆ これら両者は それほど違いはないと思うんですけどねぇ。 ★ ~~~ 例えば、アウトプットにこだわった少女時代と偶像にこだわったAKB とどっちかという気分的なものになってしまいます。 ~~~~~ ☆ 知らないのですけれど 推測で考えるなら どうなんでしょうか。 ★ アウトプットにこだわった少女時代 ☆ という言い方なんですけれど その結果 それらのタレントたちは ファンからけっきょく偶像視されるのではないでしょうか? というように 比較対照の論点が いまひとつわたしにはピンと来ていないのです。 とお答えするしかないように思いますが。
- heart_mind
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ずっと絶対上機嫌ですから、お元気でいてほしいだけです。
お礼
ありがとうございます。 このところ あわてふためくちょっとした事件が身辺で二件もたてつづけに起きました。何とかおさまりましたが ちょっとした春の椿事でした。 確かに機嫌はいいですね。 つまり よく怒りますが 怒っていても別にそれは関係ないです。 ほんとうに怒っているのですが 相手を見ていると言いますか そういう姿勢に変わりないからでしょうか。 はあとまいんどさんは ときには保守的な一面が見えたときもありましたけれどね。
- heart_mind
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フレームの外から見ているという前提でなければ、 フレームの話は進まない、まではいいですよね。 どこそこのどういうだれこれ、を秘匿しているという条件には、 そういう欲求がかくれているということです。 例えそこに、アイデンティティの片鱗をのぞかせている としても、そこには実は別の目的へ照射がもくろみが 隠されていても、まずは、その棚上げ行為のコンセンサス があるということだと思ったのですが、 相対主義的になったのは、何らかの変化ですか?
お礼
はあとまいんどさん――ご回答をありがとうございます―― 今回は 意味が分かりません。読み取りにくいです。 ★ 相対主義的になったのは、何らかの変化ですか? ☆ わたしが《相対主義的になった》ということですか? ものごとはつねに相対性のもとに見ているつもりですが 《相対主義》ではないです。というのは 相対性なる経験世界を超えたところに非思考の(つまり 信仰の・あるいはヒラメキの)場があると捉えているからです。 もしそういう観点から言うとすれば ★ ~~~ フレームの外から見ているという前提でなければ、 フレームの話は進まない、まではいいですよね。 ~~~~~ ☆ という・ごくすなおなふつうの見方にも 別のその観点を注入することも出来ます。 つまりは 《フレームの外に出ずに その中にいてフレームを見ていても》 経験相対的な《話は進まない》としても その場を突き抜けることは出来ましょう。つまりその中側から突き抜けるというヒラメキはあり得て それがつねに妥当性を持つとは限りませんが じゅうぶんその観想としての中身は威力を持ち得ると考えます。 たとえばクウキで雁字搦めになったこの日本社会の内側にいても 何がしかその中からフレームを突き抜けて クウキの閉塞性だとかの情況を相対的なものとして見ることが出来るようになります。 次のくだりが 分かりません。お手上げです。 ★ ~~~ どこそこのどういうだれこれ、を秘匿しているという条件には、 そういう欲求がかくれているということです。 例えそこに、アイデンティティの片鱗をのぞかせている としても、そこには実は別の目的へ照射がもくろみが 隠されていても、まずは、その棚上げ行為のコンセンサス があるということだと思ったのですが、 ~~~~~ よろしくどうぞ。
- heart_mind
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「ま」というのは、ぬけてはよくないと思います。 例えば、「なんらかのこと」を中心として、人間交通がされれば 圧迫感が緩和されます。 そのような、例えば「どうでもいいお天気の話」を緩和目的にする など、としても「ま」は必要であるし、 感情論、水掛け論を排除することでの、信頼性の確立はあり得る と思います。「とりあえずどういうはなしだっけ」っていう。 (おまえのかあちゃんがでべそであるということは論外ですよね という確認) 現代も「まぬけ」の問題が、かえって非生産的に働いていること は疑ってみてもいいかもしれません。 ぎしぎししているという現代の問題は、「まぬけ」と関わっている と思うのですが、 例えば、アウトプットに関心があまりなく、偶像への関心を持つと いうことなどは、そういう事例じゃないでしょうか。
お礼
はあとまいんどさん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 例えば、アウトプットに関心があまりなく、偶像への関心を持つと いうことなどは、そういう事例じゃないでしょうか。 ~~~~~ ☆ つまり たとえ《偶像ないしアイドル》にあこがれるとしても・そしてそれにつき従うにしても それを《偶像》つまり仮りのものとして捉えるというマが持たれていれば 大したことでもない。 ★ アウトプットに関心があまりなく ☆ というのは マが初めにあったとしてもそのあと そのアイドルとの世界に閉じこもって行くようになる。ということでしょうね。 ★ ぎしぎししているという現代の問題は、「まぬけ」と関わっていると思うのですが、 ☆ つまり 経済活動としての仕事でもぎしぎししており そのギシギシから解かれた自由時間においては 一たんマをもってアイドルに相い対するのだけれど そのあとのことには関心がなく内へ内へと籠もって行く。ということかも知れません。 結果として マが抜けてしまうようです。 おそらくそれでも 息抜きをしているのであって そこまでに留まれば まだマのチガイにまでは到らない。ということかも知れません。 だったら 仕事の時間においても・仲間や同僚との交通においても 極力マを持とうとすれば あんがいみんなのチカラというのは 持前のチカラを発揮するようになり ただちにうんと・そしてグウンと上がるのではないかと思います。 いっそのこと ★ おまえのかあちゃん でえべえそ ☆ というマの抜けた《まじない》を ときには投げかけてもよいのかも知れません。 中国や韓国の企業戦士に対して われわれは近頃は劣勢にあって いらいらしているかも知れないので。
- NemurinekoNya
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認識の主体である主観としての《わたし》と認識されるものとして自己《おのれ》との関係、ならびに自分と他者、自他の関係を日本的な「間」という概念を使って考察するというのは、面白いですね。読み物としては難解である(少なくとも僕にはそう感じられるましたが)ことを除けば、エッセー、省察録としても非常に面白かったです。 ☆さてさて >(α) ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。 とありますが、命題とあるからには証明もしくは結論があると思うのですけれども、bragelonne御自身としてこの命題に対する結論をお持ちなのですか。 >(α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。 とあります。 これは(α)の「人を殺さないという命題」に深く関連する部分だと思います。bragelonneさんは、αの命題に対してここに答えを示されているとも読みとれますが… しかし、なぜ「おのれとのマををそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っている」なら「互いに相手の自由を侵さない(自分・他人を殺さない)であろう。」と帰結できるのですか。 少なくとも文中にはこの論拠が示されていないと思われます。 論拠はあるのですか。それとも直観やbragelonneさんの信条なのでしょうか。 ☆ (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか? 文脈的には「同時一体でない」と解釈されるのですが、そのように受け取ってよいのでしょうか。bragelonneさんの本意は別のところにあると思われるのですが…
お礼
そうですね。分かりにくかったようですし 舌足らずだったでしょうか。 ねむりねこにゃあさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ☆ ~~~ さてさて >(α) ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。 とありますが、命題とあるからには証明もしくは結論があると思うのですけれども、bragelonne御自身としてこの命題に対する結論をお持ちなのですか。 ~~~~~ ★ ごもっともなツッコミだと思います。 ○ この《命題》は 仮説ないし作業仮説 として捉えていただけるとさいわいです。 ですから そのあとの議論も 疑問形で表現しているところは 基本的にその仮説について自分でも問うというかたちになっています。 次の――わたしとしては ひとつの命題としたいところの――問いが 分析や検証のきわめてむつかしい領域にあるであろうと思われる主題です。 ☆ ~~~~ (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか? 文脈的には「同時一体でない」と解釈されるのですが、そのように受け取ってよいのでしょうか。 bragelonneさんの本意は別のところにあると思われるのですが… ~~~~~~ ★ わたしの《本意》は 《同時一体である》と見ています。 * この仮説を 命題と言ってしまったわけは 次の事情にあります。 例のアブラハムが 我が子イサクをいけにえとして神にささげるという話からです。 おそらく錯乱するまでにアブラハムは考えに考え 悩みに悩んだと思われます。ついにイサクをほうむるというとき 神によってとめられるという話ですが 受け取り方のひとつとして こう思いました。 すなわち その苦しい悩みの中からアブラハムは この〔敢えて〕命題つまり 《ひとは ひとをころすことはしないものなのだ》という命題を――けっきょく無根拠において非思考のただの直感として――持ったのではないかというものです。 これが けっきょくやはり公理のごとくであると人びとに受け留められたのでしょうか やがてモーセは律法として規範化しました。《なんぢ ころすなかれ》。 これによって 人殺しを禁じるという共同主観もしくは 共同の幻想が 人類のあいだに普及しています。(《幻想》は 言い過ぎでしょうか。《観念の共同》でしょうか)。 このときむしろ規範化する前の・アブラハムの《命題ないし観想》としての《ひとは ひとをころさないという能力をもって生まれて来ている》のほうが 共同主観を形成するであろうと見ます。《戒律》という規範形式は ひとの《主観〔の自由〕》をむしろころします。 * 上の(β‐3‐1)の問いは 次の問いと同じ内容です。 ★★(趣旨説明欄) ~~~ (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか? ~~~~~~ ★ すなわち ○ わたしの個人としての心的現象と 相手の個人としての心的現象とが 基本的に言って《同時一体》であるという社会関係 このようなひとつの磁場の全体として わたしのマヌケ(間抜け)という事象が起きる。のではないか? です。 ○ わたしに起こったマヌケなる事象は 相手においても――しばしば時間差をともなって――起こるかも分かりません。マヌケという同じ現象が起こらなくても わたしに起こったマヌケのコトが あとでその相手にも分かるようになる。つまり じつは あの時に互いに同時に 考え方としては マヌケが起こっていたのだと心に合点が行くように分かる。のではないか? * ご覧のようにそしてお察しのように この主題は まだフロンティアです。現在進行形です。 大胆なまでにも自由なご所見をお伺いできれば この上ないよろこびです。
- heart_mind
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それって、高松塚古墳のことですか? 入ったんですか? わたしは工事中でした。 すいません。とりとめがないですね。 おやすみなさい。
お礼
つづいてです。 ○ 石舞台 ☆ は 蘇我入鹿だったと思います。 ★ 高松塚古墳 ☆ とは別です。こちらは たしか 棺の絵が飾ってあったと思います。狭い場所だったような。 工事中 って 全然見られなかったのですか。それは 残念。 石舞台は それはそれは でっかい石 つまり岩ですね で作ってありました。
- heart_mind
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韓国行ったことないです。 奈良の明日香村で、つれの人とサイクリングしました。
お礼
つづいてです。 韓国で 登山は ピクニックみたいに割り合いみんなに愛されている趣味・スポーツだと聞いたものですから。関連があるのかなと。それだけです。 えぇ。飛鳥では サイクリングがずらっと並んでいますね。わたしは 歩きましたけれど。 まだまだ素朴でした。 石舞台などは ただし 商業主義の波が押し寄せていました。むかしは まったく放ったらかしにしてありました。割り合い近かったので 高校の春休みに自転車旅行で行きました。つまり 玄室だかに勝手に入って行けました。 ありがとうございました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 どう言いましょうか。この質問においても わたしの場合 要するに《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。 というわけは たとえば ☆ 理念 あるいは 道徳 ★ といった概念や観念の形成される以前の或る種の心や意志のみなもとのような領域における出来事です。 むろん そのことは次のごとく捉えることにおいてそのまま質問趣旨に沿っていただいているようではあるのすが。つまりまづ ☆ ~~~ 「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。 これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。 ~~~~~ ★ なのですが ここで 微妙な異同があると思われることにさらにこだわってみます。 一方で ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 無前提の原則 / 公理 ★ と捉えてもらっているその他方で ☆ 理念・徳性 ★ という規定もされているということ。ここにこだわってみます。つまり 違うという感じを持っています。 アブラハムのイサクを犠牲にささげる物語をめぐっての解釈にもかかわって来ているかと思います。 ○ アブラハムは 長い苦悩のトンネルを抜け得たのは 《自分でも他人でも ひとが ひとをころすことはしないものだ》というヒラメキが得られたからではないのか。 このとき 《神は ひとが ひとをころすことを欲しない》と言いかえてもよいかと思います。 ▲ (ホセア書6:6) ~~~ わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。 ~~~~~~~~~~~~~~ ★ さんざん生け贄を受け取っておいて 何を言うかとも思いますが アブラハムのインスピレーションとしては これであった。と思います。 すなわち ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 〔無前提の原則 / 公理〕 ★ としての内容であり それはあくまで ★★ 《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。 という道草の段階なのであり そしてまだなお ひとりの人間の主観にとどまっています。そのあとようやく概念として持たれるようになって ☆ 無前提の原則 / 公理 / 理念 / 徳性 ★ として受け留められるようになるのだと。 何だか歯切れがわるいですし 問題のないところをあたかもイチャモンをつけているみたいですが 確認します。 ○ ~~~ アブラハムにとって 自分の心なる非思考の庭における神とのあたかも対話は 結論として 《イサクを ころさない》が得られた。 これは・つまり《ころさない》というのは (1) やっと思考にかかわるかたちで翻訳したあとの言葉として得たものである。実際は ヒラメキである。意味のあいまいなイメージとしてのような直感であった。 (2) しかも概念化して《ころさない》と規定しえたとしても まだなお アブラハムという一人の人間の主観内面における出来事であるに過ぎなかった。 ~~~~ 言いかえますと 次のような問いかけになると思います。 (3) この《ころさない》あるいは《神は いけにえを欲しない》を モーセはいとも簡単に律法規範としたようだ。それは いったいどういうことなのだろう? (3-1) つまり神は 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》であるというごとく一人ひとりの神であるはずだ。したがって 《ころさない》という観想もまだまだひとりの人間の主観の内にとどまるのではなかったか? それを いつのまに《共同主観》としたのか? (4) しかもさらに アブラハムの得た観想は 《ひとは ひとをころさない。われは ひとなり》といったひとつの《判断》であり さらにはそれを表現したとすればそういう《意思表示》であった。なのに モーセはこれを《なんぢ ころすなかれ》というふうに《人間という人間の主観をぜんぶ束ねてしまって 頭ごなしに規定として措定してしまった》。それでよいのだろうか? * その上で ☆ 「めぐりめぐっての間接的な殺人」について ★ ですが: これは ヒラメキの内容から逸れる《マヌケ》や内容をねじ曲げる《マチガイ》を 片や抽象的に そこに居合わせた人びと互いの心的現象という次元における同時一体性の内に見るかどうかの問題があり 片や具体的にたとえば資源獲得競争にしのぎを削っている人びとと その経済行為をまわり回って間接的に共有しているのではないかという同時一体性の問題があると見ます。 しかも ずるい見方をもしなければならないと考えます。一人ひとりがそれぞれの内面において《わが神(または わが無い神)》をいだくというように 一人ひとりはその自由意志において行動しているということも 実際なのだと見ざるを得ないようです。 その上で先の《自然本性ないし心的現象を基礎としての 具体的な経済行為をもめぐる人びと相互の連帯性》において マヌケやマチガイについて共同の責任を負うというかたちになるかと。 ☆ 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。 ★ とおっしゃるその中身を 上のように考えるというひとつの結果を得ました。 たぶん ヒラメキ次元を大事にするところの――そしてその意味で 一見場違いのような《タマシヅメ・タマフリ》の事例を出していますが の――自然本性ないしそのような基礎における観想が 人びとのあいだのマの関係としてその水嵩を増して行くことを思います(そう期待します)。 いやあ むつかしいですね。