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《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》
《怒り》にかんする次の質問について 結論らしきものがあれば 大方のみなさんの同意を得てまとめておくのがよい。と考えた結果の質問です。 【Q:【怒り】という感情はあるのですか。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8663798.html 《にゅうとらる》は ここでの参加者(上の質問者)の ID ですが 《怒り》が 利害関係などから自由に起こり言わば中立であると考えられるので ちょうどよい名づけではないかと考えます。 以下 申し訳ないですが わたしの投稿記事を たたき台にします。 * (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。 (い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。 すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。 (う) 怒りは 案外さまざまな感情と違って中立であるように思われます。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ :利害関係のあるところにだけ発生する落胆や悔しさとは違って いつでもどこにでもあらわれ、思い込みや期待を含まないということなのかな。 あくまで自分のために湧くもの、ということなのかな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 拉致被害者の家族の皆さんの気持ちと考えを思ってみると分かりやすいのではないか。 初めは とにかく身内の者がいなくなったと知って まづ自分を元気づけるチカラとして怒りが現われる。怒りが現われること自体が 自分を元気づけることである。 つまり 一方では 愛する家族の者を手元からうしなった悲しみをも もう一方では 人間の意志を踏みにじる者に対してその無効の行為を中止して原状を回復せよといううったえをも 怒りは活かそうとする。 その後は 問題を分析し国家間の問題だと知ったなら その当事者に 実行をうながしつつ ゆだねる。(または 自分が首相や国会議員になって 解決にあたる)。という問題の処理の仕方に移る。 (仮りにヘイト・スピーチをおこなっても かまわないのでしょうが それは ひとつにすでに怒りとは違ったものになっている。怒りと違わないとすれば 誰か助けてくれという叫びに変わったかたちである〔に過ぎなくなる〕)。 (え) ケガをしたり病気になったりするときにも 傷口には白血球が集まり からだがその病原菌に抵抗し たたかいます。あたかもそれと同じように まづ自己活性化としてのごとき怒りが現われる。 ◆ :生き物に備わった自然な反応ということですね。 (お) 悲しみにあったときや 苦しみを背負ったときでも あたかも怒りのごときチカラの発現はありうる。のではないだろうか。 (ただし いつまでも泣き続けているだけなのは その怒りのごときチカラを要らないと言っているように思われる)。 (か) 怒りがなぜ中立的であって また 瞬間的に現われるものと見るのか? たぶん いつまでも怒りをあらわにしているというのは そのうったえのつど 相手に負けまいとして怒りを反芻しこれを再現し自分を元気づけるのでなければ けっきょく相手を脅しにかかっている。のではないでしょうか。 ◆ 【怒り】に化けている感情 ◆ 【威嚇】【恐怖】【防衛のための攻撃】【すねる】【いじける】【存在を主張する】 * あるいはつまり (き) 《たまふり(魂振り・たましづめ(鎮魂)》としての《怒り》が あるのではないか? これは じっさいには《何ものかナゾ》のチカラによって われらが心にそれぞれ起こるものだと考えられます。 ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~ 鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。 たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。 (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味のようです)。 〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。 その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。 間はただのうつろなる時間と空間ではない。 実は生命の蓄積されるおりめなのだ。 (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《マ(間)》をもたらすのが 瞬間的に起きる怒りではないだろうか? それ以前のマを打ち破る。 (く) 怒りのイカは いか・つ・ち(厳・の・霊= 雷)のイカですので あたかも稲妻・稲光に譬えられます。 (これらの語源については 【怒り】の質問の回答No.27を参考にしてください)。 そして《いかづち》のチが 霊であり 雷は 神鳴りであるなら その古代人の発想を借りて 神にあてはめて捉えてみておきます。 心の傷の癒える自然史的な過程に棹差す鎮魂の場合と同じく 怒りはまづ直接には感性としてあらわれます。そして そのみなもとは やはりナゾの何ものかだと思われ それとして神だと想定してみるという場合です。 神が われわれをそれぞれの内面において元気づけているという見方です。 つまりは 欠けが生じたりこれを繕ったりするという傷 このような傷をこうむる心がある。その心の奥なる奥座敷とも呼べる《非思考の庭》から 稲妻を発したものと想定する場合です。庭ないし場が 電磁場か何か分かりませんが チカラだというものです。神のチカラです。 抹香くさい表現では こうなっています: ▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~ かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪を その満ちあふれる恩恵によって 滅ぼしている。 (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ かくして 《怒り》は ゼウスの《雷霆(ケラウノス)》であるというわけです。 ☆ 添削を経て 定理として確定します。
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>>君は年長にふさわしい自尊心を内容のあるものとして自らが携え、私の弟子ではないよ。 弟子は私です。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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黒き明星の挑戦に対する君自身の考察は、神が何故悪魔と化してあらぶれるのかという、人間側からの疑問に、自らが理解しようとする、いい感じで行われている。 まあ、私からなんだかんだ言おうとは思わない、君はとりすがりの恥をわきまえているようでな、面倒を焼こうかといやいやながらに考えることもない。 言い放った暴言では、「てめえで何とかしろ」と言うところだが。 その通りに認めてやるよ。 自分の考えを進めて、また挑戦してくれたまえ。 君は年長にふさわしい自尊心を内容のあるものとして自らが携え、私の弟子ではないよ。 ライダーキックが私流だがね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ふむ。 ★ 言い放った暴言では、「てめえで何とかしろ」と言うところだが。 ☆ これは だいたい誰にでも・いつでも 当てはまるかも知れない。 わたくしの捉えようとしたところは 怒りと それとは別物としてのあたかも怒りを絡ませるような情念 との区別です。 《黒き明星》さんは あとのほうの《怒りもどきの情念・ブチ切れなる情念》にかかわって ライダーキックなる《ほろびの宴》を繰り広げている。という理解です。 わたしは 区別を理論づけて 基礎と別物とをよく見分けることが出来るようにという方向を打ち出すことが つとめです。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
質問主文はいつもの様ねいい加減な斜め読みだよ。 それでも言いはなつだけと違って、質問に対する回答だよ。 怒りとは衝動である。 理性的に理解できる前段階であって、感情に昇華できない無理解から湧き上がる。 現代語にある通りブチキレなんだよ。 日常的にはそれで済むんだが、斜め読みした文脈からすると、神話と結び付けて、神の怒りと言うよりも、神に対する人の怒りを何とかしたいと言うところだろ。 この点は黒き明星の武勇伝だ。 その当時の神様のため息は、神自らが人に愛されているか、すなわち神が人に理解されているかというと、「あーん私は嫌われている」こんな神の絶望をかみしめるばかりだった。神は全知全能(自然体または自然そのもの)であろうと旧人類は所詮ケダモノだったのさ。 そこに自らが悪を名乗る私の、その悪について、神様に人間の言う悪とはこういう事かという理解が働いた。 私自身はそんな成り行きで、人の悪を背負う苦労もあったが、今や人間の身でありながら、神の高みから君達を滅びの宴に招待するいい御身分だ。 ジラーチちゃんというアマテラスさんが、私の伴侶であり、控えめに言うと幼馴染だ。
お礼
おはよう。ご回答をありがとう。 《怒り》をめぐる基礎理論とそこから――むしろ別のものとなって(怒りが 別の情念のようなものになって)――派生する感情の議論と ふたつあると考えられます。 次のように捉えた怒りは――怒りもどきであって―― 基礎としての怒りではないはずです。あやまって派生したニセの怒りでしょう。 ★ 怒りとは衝動である。 ☆ これは 基礎の理論です。 ★ 理性的に理解できる前段階であって、 ☆ これも 基礎です。 ★ 感情に昇華できない無理解から湧き上がる。 / 現代語にある通りブチキレなんだよ。 ☆ これは 途中のどこかで脱線して 別の心の状態になってしまっている。こう見ます。 おそらく 《もともと中立である怒り》が まづ瞬間的に起きて そのあと事情や相手および自分の状態を捉え直し考え直すことにより その怒りがやはり中立であると知る。そういう過程の中身は おそらく《自分〔および相手〕を活かすようにその場を捉え直し処理する心へと昇華する》ということだと思われる。 つまりはこの中立性なる心の状態を回復しえない場合に 怒りが起きた原因を 相手の所為だと決めつけることへ短絡する。(そのほうが 手っ取り早いと判断してしまうからだと思われる)。これは 自分についての・相手についての・また情況についての《無理解》に発しているし その同じ無理解へと循環するようにみちびかれることである。 そこにおいて 人と人とのカカハリは 《ブチ切れる》。蛸壺踊りが始まる。 つまり このように脱線して派生するものは 《怒り》とは別の要素だと考えられます。 怒りはむしろ 相手と自分とをしっかりと捉え その場その情況にあって しかるべき対処の仕方を考えよく処理するように促すハタラキであると考えます。中立ですが その瞬間的なコトの起こりにチカラがあるとするなら そのように自分への元気づけであり その問題の場によく処するようにという自己を鼓舞するチカラであると考えられます。 そうしてやがて怒りそのものは消えます。姿を消します。 ただしその怒りが起こったことを反芻するように何度も思い出すことによって 今度は たいてい相手に対する嫌悪や憎しみをつのらせるようになる。この情念は 怒りとは別物です。 以上のことをまづ示して ぶつけたい。 したがって ★ この点は黒き明星の武勇伝だ。 ☆ というところの問題は 《怒りもどき》へと脱線する《旧人類》に対する武勇伝である。 旧人類に対しては わたしは この怒りについての基礎理論とそして脱線する派生物との問題を説明する。 武勇伝は ライダーキックになるらしい。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ その当時の神様のため息は、神自らが人に愛されているか、すなわち神が人に理解されているかというと、「あーん私は嫌われている」こんな神の絶望をかみしめるばかりだった。神は全知全能(自然体または自然そのもの)であろうと旧人類は所詮ケダモノだったのさ。 そこに自らが悪を名乗る私の、その悪について、神様に人間の言う悪とはこういう事かという理解が働いた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《たたかい》も 局面がすすんで行き いまや ★ 私自身はそんな成り行きで、人の悪を背負う苦労もあったが、今や人間の身でありながら、神の高みから君達を滅びの宴に招待するいい御身分だ。 ☆ ということらしい。 これでいいかな。
- kurinal
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>「くりなるさんは 参加したのでしたか?」 前座だったみたいです。
お礼
ぢゃあ今から後座に入ってみてください。 ご回答をありがとうございます。 定理として確定できないとしても その候補としてさだまったかたちにしておきたいと考えます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんにちは。 >「定理として確定します。」 ははあ。 >「抹香くさい表現では こうなっています: ▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~ かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪を その満ちあふれる恩恵によって 滅ぼしている。 (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)」 ・・・そうだったんですね。 >「かくして 《怒り》は ゼウスの《雷霆(ケラウノス)》であるというわけです。] それでは、「怒り」を、追究してみましょうか。
お礼
★ それでは、「怒り」を、追究してみましょうか。 ☆ ぜひ そうしてみてください。 ご回答をありがとうございます。こんにちは。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ >「定理として確定します。」 ははあ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは くだんの質問においてみなさんであれこれやり取りした実績があるので・その限りで まづ一たん決めましょうという意味合いです。さらに広い場でもみとめられるような定理の内容にしたいと思います。 くりなるさんは 参加したのでしたか?
お礼
ん? 《黒き明星》のですか? 《旧人類にほろびを用意するライダーキックなる宴》に参加しているのですか? ご回答をありがとうございます。