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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ けんかをしては いけないのか?)

なぜけんかをしてはいけないのか?

このQ&Aのポイント
  • けんかによる口論は建設的な対話を行う機会を奪い、暴力に発展する可能性がある。
  • 自己批判の欠如や思考停止の傾向がけんかを引き起こし、問題解決を妨げる。
  • 自己批判を通じて精神性や人間性の向上を図り、建設的な対話を展開することが重要である。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.16

個人的には、けんかがいけないとは思わないですね。 原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦った。 その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き 力を養い、鍛え、一面で道徳律を築き上げた。その結果、文明が築かれ 文化が創られた。 これは、口げんかでも、腕力けんかでも、基本は同じでしょ。 でも、一般的にはいけないとされています。 その理由ですが。 口けんかは、己の悪いところを発見確認できる から、それを素直に受け入れ、直すべきは直す。 そういうのは、己の人格向上のためにはよいんじゃないか、 ということですよね。 でも、そんな人はごく少数でしょう。 ほとんどの口げんかは、修正不可能な部分を攻撃し 互いに憎しみ合って終わりです。 そういう口げんかを良いことだ、としたら社会が乱れて どうしようもなくなります。 そういう現実を踏まえて、いけない、ということに したんでしょ。 一部のレベルの高い人に合わせて社会規範を構築しても 役に立たず、弊害ばかりになってしまいます。 それは、社会主義が失敗した理由の一つでも あるでしょう。 つまり、マクロ的に考えていけない、ということに したんだと思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。と思うと同時に それだとすると こんどは何故その《マクロ的視点》に人びとはしたがったか? が問われると思います。  へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  社会全体の秩序を考えて むしろやむを得ず ひとつの倫理的な規範としては互いに 《けんかは いけない》という申し送りをした結果 一般的な道徳律のようになったのだと。  ここでじつは へきゆさんに参加してもらっている【Q:自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。】の問題になると思います。  わたしの歴史的なその伝統についての感触としてはなのですが どうも上から蓋をかぶせるようにして・しかもクウキのごときやわらかいあたたかい繭のごときこの道徳規範をおしつけたという仕掛けがあるのではないか。というものです。  つまりは 人びとは・庶民は しょっちゅうけんかをしています。仲が良いからです。腹にふくむものがないからです。  ★ ~~~  口けんかは、己の悪いところを発見確認できる  から、それを素直に受け入れ、直すべきは直す。  そういうのは、己の人格向上のためにはよいんじゃないか、  ということですよね。  ~~~~~  ☆ という効用を知ってか知らないでか そんなことにもお構いなしにけんかをしています。そして おおかたは そういう結果になっているのではありませんか? 家族をテーマにしたドラマなどは いまでもそういう筋書きになっていませんか?  ★ でも、そんな人はごく少数でしょう。  ☆ と もしした場合にも 話は別の要因があるように思います。  ★ ~~~  ほとんどの口げんかは、修正不可能な部分を攻撃し  互いに憎しみ合って終わりです。  ~~~~~  ☆ おそらくこの種の事例は 《ほとんど全部》なのではなく〔おそらく〕少数なのだけれどもその結果があまりにもひどく悲惨であって 取り返しのつかないことになる場合がある。よって そのことを考慮するなら どうしてもやむを得ないと判断するしかないのだと。こうなったのではないかと考えます。  ところが・ところがです。ところが そういうふうに取り返しのつかない結果をまねいた場合というのは 大きくふたつに分かれるのではないでしょうか?  ひとつは たしかに腹に一物も何もないのに その場の衝動的な感情の爆発によって 悲惨な結果に到ってしまったという場合です。広い意味でヒステリー現象だと言えば分かりやすいでしょうか。  もうひとつは 計算づくのけんかの場合です。あるいは もっと細かくみれば むしろけんかなどはしないという人間 A とふつうの庶民である人間 B とのあいだに 衝突が起きた場合がいい例だと思います。  庶民 B は よほどのことでなければ 手を挙げたりしないと思うのですが よほど《金持ちけんかしない》類型に入る人間 A の言動に腹をすえかねたのでしょうね。その結果 食ってかかり悲惨なけんかにまで発展したという場合。  さらにまだ 細かい話はつづきます。じつは その A と B のけんかには もっとおおきな問題があって むしろ A のほうは 自分からは手を出さないのだけれど けっきょくにおいておこなったことは B をけしかけたというその挑発行為のことです。  わたしの言いたいことは この事例のさらにあとの話です。この《決してけんかをしない主義の人間 A 》こそが その品行方正ぶりとそして取り分けその学力優秀ぶりによって アマアガリして行った結果 いまの国家におけるお二階さんが出来たという妄想としての歴史観です。  アマアガリして行く人が みなわるいと言っているのではありません。よい人も最後には 感化されてアマテラス公民の人間類型になってしまうという問題です。  《けんかは してはいけません》すなわち《和を以って貴しと為す》というクウキなる蓋をかぶせるのは むろんこのお二階さんたちです。  つまり そういう意味でも  ★ つまり、マクロ的に考えていけない、ということにしたんだと思われます。  ☆ でも それにも・つまりそのような仕打ちにも スサノヲ庶民は耐えて来ました。一揆を起こすくらいです。反抗としてのけんかをやらかすのは。  つまり スサノヲ庶民の一階部分では みな平和です。けんかが絶えないほど平和です。腹に含むものなど ありません。富士山の日本晴れです。それが 《和の精神》としてのわが日本人の心です。  《和を以って貴しと為せ》と言われなかったら わたしは《和を乱す》ことを知らなかった。  ★ ~~~~  一部のレベルの高い人に合わせて社会規範を構築しても  役に立たず、弊害ばかりになってしまいます。  それは、社会主義が失敗した理由の一つでも  あるでしょう。  ~~~~~~~  ☆ 当否が相交じっていると思います。  庶民は おとなしい。みな総じて かしこいのです。ぎゃくに  ★ 一部のレベルの高い人  ☆ というのは 明らかに《けんかをしない主義》のアマアガリ・シンドロームに罹った人を言います。つまり そのような《一部のレベルの高い人》に反発して これを排除して自分たち労働者・農民とその代表によって社会を造り直そうとしたとき そのあたらしい《一部のレベルの高い人たち》  ★ に合わせて社会規範を構築し  ☆ たのが  ★ 社会主義が失敗した理由の一つでもあるでしょう。  ☆ ほらごらんなさい。日本の庶民はかしこいでしょう。そんなヘマはやりません。あくまでお二階さんが 心を入れ替えて わかった われわれがわるかった 独走して来てしまったようだ だからここでみなさんの生活社会に大政奉還をおこなおうと言い出すところまで 静かに見守っています。みな平和です。  だから  ○ けんかをしては 何故 いけないのでしょう?  となるはずです。つまり もしこの史観が妥当であるならば へきゆさんまで アマアガリ神話なるクウキに毒されている。こう考えられます。  どうでしょう? からくりは ありませんか? あるいはそのようにカラクリを指摘するわたしの見方が くだらんカラクリでしょうか?

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その他の回答 (34)

noname#193571
noname#193571
回答No.4

さっそくの補足、ありがとうございます。なるほど。 しかし、回答は難しいなあ。一言で言えば、「いけない理由が無いからいけなくない」としか言えませんが。 補足に引用されている「いけない」という回答者の理由を読んでも、「いけないけんかもある」と言いたい事は分かっても、「けんかがいけない」理由としては理解できませんでした。 前回の質問は、すごいことになってますね。とても全部は読み切れませんが、あなたの意図が回答者に伝わっていないように感じました。 たぶん、わたしもあなたと同じように、「なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。」なので、この質問に回答するのは無理なようです。

bragelonne
質問者

お礼

 ぼたくさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  前回の質問でのことについて おっしゃったことは そのとおりだと思います。  ★ 「いけないけんかもある」と言いたい事は分かっても、「けんかがいけない」理由としては理解できませんでした。  ☆ また  ★ あなたの意図が回答者に伝わっていないように感じました。  ☆ という事情ないし情況も 自分ながら そのようだと思います。ということは 《けんかがいけなくはない》としても そのことを命令のごとくに打ち出してくれるなという懇願であるかのようにも感じます。その受け取り方じたいも おかしなことなのですが。そういう方面で 延々とやり取りがつづきました。  それにつけても 現代の事情は どうなのか。これが気になるところです。  さっそくのご回答は そんなことはいちいち質問に挙げるほどのことではない でしたね。いけなくないに決まってるぢゃないか でしたね。  少し脇道にそれますが いまコミュニケーションの質問が出ています。これは No.2のお礼欄で書いたことなのですが その断絶 あるいは 人と人とのあいだの相互理解の不可能性についてあれこれ問うています。それに対しては ひと言  ○ 溝があり断絶にさえ見えるというのなら では何故 けんかをしないのか? 互いに対等で自由な批判を何故しないのか?  となると書きました。  これについては どうですか?  となれなれしく尋ねましたが 派生する主題だと思われましたら どうぞご回答をお寄せください。

bragelonne
質問者

補足

 ぼたくさん その後 No.5なる回答が来ました。  えらく人間であることにつつましやかと言いましょうか 何だか 喧嘩っ早くて過去にどうしようもなくひどい喧嘩をやらかしたゆえに トラウマとなってしまったゆえと察すべきか あるいは そんな心と意志とでよく人間をやっていられるなぁと感心すべきなのか・・・。  思わず それは 人間の冒涜ではないか? と怒りに満ちた返答を返してしまいました。うんぬんです。

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  • yuukineko
  • ベストアンサー率22% (190/861)
回答No.3

誰が、何の事に対して喧嘩をしては行けないと述べたのか。 その「誰」「何」に、入るナニかに左右される問題であり その通り行っては、駄目な事も有れば行うべき事も有り得る。 それに、喧嘩相手が誰なのだ。 誰と誰の事を指すのか。 口論なのだから、とりあえず人間同士なのは判ります。 これが、未知で未定なのであろうから質問の 回答はこれに辿りつく。 何故 喧嘩をしては いけないか? それ言ったら、何故『あ』が『あ』でないといけないのか? これと似た様なものです。 未知と未定を、定める行為なのだから無知の知へ至りその先へ 通じる事も有りましょう。 それが出来る人は、確かに少ないですが居ない訳でも無い。 正しいと言えば、同時に正しく無いも存在する。 どちらも内在する何かも発生する。

bragelonne
質問者

お礼

 ゆうきねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 誰が、何の事に対して喧嘩をしては行けないと述べたのか。  ☆ この質問は 無条件での問いです。誰についても何ごとに対してもです。  ★ ~~~  何故 喧嘩をしては いけないか?  それ言ったら、何故『あ』が『あ』でないといけないのか?  これと似た様なものです。  ~~~~~  ☆ いえいえ。音韻としての / あ / は それとしてきちんと決まっています。幅広い範囲がありますが 口を広く開けて息の音( / h / )を出すのではなく 鼓膜に響く声を出す。そういうふうに決まっています。/ い / や / う / とはカテゴリカルに区別されます。語の意味上の弁別のためであり つまりは コミュニケーションのためです。  けんかをしてはいけない理由がないのではないか? という問いです。  ひょっとして ゆゆきねこさんも そういう方向において捉えておられましょうか? いまひとつ はっきりとは分かりませんでした。  ★ ~~~~  正しいと言えば、同時に正しく無いも存在する。  どちらも内在する何かも発生する。  ~~~~~~  ☆ いえ そうではないと考えます。《ただしい》という判断と《ただしくない》という判断 いづれの場合にも むろん相対的で有限的なものですがそれぞれに妥当性を求めての理由があるはずです。  ですから その妥当性は さらにどちらに より妥当性があるかを判定することになるのではないでしょうか?   感覚的なものだとか 主観的なものだという場合には そのとおりに述べて あとは 互いに引き分けとすればよい。ということではないでしょうか?    少し余計なことかも分かりませんが たとえば次のような考え方があるわけです。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~   一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これだと ほぼ無条件に《けんかは いけないことだ》と言っていませんか? といった質問です。  

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  • ttt1214
  • ベストアンサー率20% (65/323)
回答No.2

口喧嘩も殴りあいの喧嘩もしてきましたが、喧嘩が悪いとは思っていない。 相手に対しての思いやりがあるなら喧嘩ではなくて、注意とかになると思います。 喧嘩というのはあくまでも自己主張みたいな物です。 互いにぶつかり会うのが喧嘩。 喧嘩にはルールがあります。 一つの目的にそって意見をぶつけ合う。 自分の信念が本気なら相手も本気でぶつかってくる。 そこに創造や進歩がある。 たいがいの人達は長いものに巻かれろ主義。 いいたい事も言わず影でコソコソしている、それがやがていじめに発展する。 こんな人達は自分からみればクズみたいな人間としか思えない。

bragelonne
質問者

お礼

 てぃてぃてぃさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  なかなか 読み取るのにむつかしいです。  基本としては 《けんかは いけなく無いし するほうがよい》と受け取ってよろしいでしょうか?  ★ ~~~  喧嘩にはルールがあります。  一つの目的にそって意見をぶつけ合う。  自分の信念が本気なら相手も本気でぶつかってくる。  そこに創造や進歩がある。  ~~~~~~  ☆ そういうことであるかと わたしも思います。  したがいまして もしこの互いによる自由な批判としてのけんかをしない人 そういう人の場合には  ★ ~~~  たいがいの人達は長いものに巻かれろ主義。  いいたい事も言わず影でコソコソしている、それがやがていじめに発展する。  こんな人達は自分からみればクズみたいな人間としか思えない。  ~~~~~~  ☆ というところにまで行き着きやすい。と同じく考えます。  こんどあらためて じっくり読んでみたら コミュニケーションにおいて 自分と相手とが違うと分かる。そこには 溝がある。果ては これが断絶となる。と言っている文章があります。  ○ なぜ けんかをしないのか?   とひと言いうかたちになります この質問は 期せずして。(その前にも読んでいたので 意識せずにそういう方向へ向かって行ったのかとも思えますが でも この設問は わたし自身の内側からの動きに沿ったものですので 基本は そのムイシキでの動きとは違っています)。  ★ 相手に対しての思いやりがあるなら喧嘩ではなくて、注意とかになると思います。  ☆ わたしは 思いやりのある場合にも けんか もしくは 自己および他者の思想や行動にかんする部分への批判 これになると思います。  ★ 注意  ☆ も けんかに入るとも考えられますし そうでない場合には 管理者の立ち場などに立った発言だと受け取られるように思うからです。  ★ 口喧嘩も殴りあいの喧嘩もしてきましたが、喧嘩が悪いとは思っていない。  ☆ そうですか。わたしは さいわい 取っ組み合いにまでは いちども成らなかった。  一対一で相手が降参するまで殴り合いをするといった それとして公正な けんかなら いいかと 昔は思っていたのですが そういう雰囲気は わたしの周りにはなかったですね。つまりは あとでか 事前にか こっそりと陰で工作を仕掛ける。そんな魂胆が見えた情況だったので 取っ組み合いは望まなかったのだと思います。その意味では 望み通りに 結果的に なりました。  要するに問題は 相手とのあいだに溝が出来たと思ったら 堤防をこさえてその相手からの受信はいっさいシャットアウトし 自分の発信は そのほかの人びとに向けて送りつづける。こういう・わたしの造語での《押し籠もり》が いちばん たちがわるいようです。  ありがとうございました。

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noname#193571
noname#193571
回答No.1

面白そうな題材なので参加したいですが、「なぜ いけないのでしょう?」と質問しているという事は、「いけない」という事が前提のようですね? 「いけない」という事が、世間一般の常識なのですか?今の学校ではそう教えているという事ですか?それとも、なにか著名な書物に書かれているか、著名な人が言っているのでしょうか? 私にはその認識が無いので、その部分を補足して貰えませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 ぼたくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「なぜ いけないのでしょう?」と質問しているという事は、「いけない」という事が前提のようですね?  ☆ あっ これは 質問者の考えでは ちがいます。世間で一般では そうです。と思っての質問です。  一般に《けんかをしては いけません》とか あるいは《和を以って貴しと為す》とか言っているぢゃないですか。その《前提》をうたがっています。そういう質問です。  《批判 なかんづく 自己批判》を基礎とした口論としてのけんか これは それならしてもよいかも知れないというだけではなく むしろ大いにするべきであるという命題を提示して問うているかたちになっていると思います。  つまり   ★ 「いけない」という事が、世間一般の常識なのですか?  ☆ ええ そうだと思います。  ★ 今の学校ではそう教えているという事ですか?  ☆ あぁ 今はどうなのでしょう? とんと分かりません。情報がありません。ただしむろん 昔は――かなり昔になりますが―― 《いけない》とおしえていました。疑いを差し挟む余地のないほどです。  ★ それとも、なにか著名な書物に書かれているか、著名な人が言っているのでしょうか?  ☆ これは どうなんでしょう? 特に そう言えばあれこれの本や著者が思い浮かぶということもありませんが どうなんでしょう。  あぁ えぇ 前身の質問でも――それは ちょうど三年前の三月です―― 《いけない》派が けっこう多かったですよ。  ★ 私にはその認識が無いので、その部分を補足して貰えませんか?  ☆ そうですね。では 前身の質問でのやり取りから 拾ってみましょう。  最初にむしろ特異な回答からです。  ● (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】)    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4803472.html  ● (回答No.43) ~~~~   けんかを自己批判に限定してみます。それがいけないのはきっと、知ろうとする自分には神の痛みを愛せないからだと思います。「ローマの信徒への手紙」にてパウロは、「すべて人を裁く者よ」と言いますが、すべての人には自分も含まれるでしょう。あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。  ● (回答No.44) ~~~~~   回答を投稿した後、「ああ、言葉が足りなかったな~」とか、「ちゃんと伝え切れていないかもな~」と、考えていました。返答もなかったですから、少し不安でもありました。  いや、別に喧嘩を意固地になって毛嫌いしているつもりで書いたわけではなかったのです。喧嘩によって起こるマイナス面をどれぐらいの重さで認識して、プラス面を唱えているのだろうかと疑問に思ったので、書いているうちにそこに批判的な文章になってしまいました。なので、質問者様が返答で書いたようなことを、俺は意図していないはずです(多分)。  喧嘩のプラス面にはほとんど同意しますが、かといって意図的に扱うことは非常に難しいし、ヘマをすれば取り返しのつかないことにだってなる危険なものです。例えるならニトログリセリンでしょうか(あまり妥当な例えとは自分でも思いませんが)。そういう点で質問者様はダイナマイト程度には加工できていると思います。それでも爆発の可能性は捨てきれないわけですが。 そのように加工して扱えるのならまだいいですが、加工はおろか、そうそううまく扱える人もいないでしょう。そういう点で、やはり一般的に駄目だという考えは変わりません。  ● (回答No.66) ~~~~  どうも、あらゆる全ての人々と向き合う愛がおありなようで、それはご立派なことだと思います。  しかし、それを人間全員に押し付けることは、傲慢と言えないでしょうか?  確固たる持論を自負するのは結構ですが、  人は、それぞれ、それぞれの成長過程にあります。この多様性を受け入れて、静観することも、見守るという愛です。いつでも、やり合うだけが愛ではありません。  また無視と見守るは違います。  何度かは批判し、理解してもらえないなら、見守る他ありません。もちろん、無視ということで、自己の幸せを守ることも、有意義なことです。それは、自己を幸せにできないものは、他人を幸せにできないからです。  そして、幸せに満たされたら、また立ち向かっていけばいい。  また見守っていていた人で、危険を察知したなら、また立ち向かっていけばいいことです。  ※立ち向かうとは、あなたの言う批判としましょう。  しかし、それでも相手の言い分に理解を示すことは、相手を認める愛ですよね?  ですから、様々な形(多様性)を受け入れはできないのでしょうか?と皆でご質問者様に問うてるわけです。  どうも一方だけを大事だと思い込んでいるようです。  ちなみに私は、北朝鮮になったつもりはありません。  私には、ご質問者様が  ご自身の欠点を受け入れない強固さに、北朝鮮を感じます。  もはや、交渉決裂でしょう。  分かり合えない人もいるものだと、お互いの成長するまで保留としましょう。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これくらいにしておきしょう。長すぎましたね。でも三件くらいは挙げておかないと。  どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 ぼたくさん この欄をお借りします。  つまり 回答はNo.5までを受け取った段階で これを書きます。  つまり回答No.5への返答として――すでにお礼欄も補足欄も使ってしまったものですから ここをお借りするのですが―― 言い忘れたことです。  すなわち こうです。  ○ ぷしゅてくすさん あなたがこうして 質問の趣旨説明の内容に対して反論を述べるということ これを称して けんかと呼びます。  ○ それは 究極には 本人の自己批判にまで行き着くところの 広く一般に言う《批判》なのです。これを けんかと呼んでいます。なぜなら あなたでさえ このようにけんか腰ではないですか?  ◆(回答No.5) ケンカを口論に限定するというムチャな定義  ◆(同上)  (それはQ&Aサイトでは望ましくない)。  という表現についてです。推論を示さないで 言い切るというその口調です。これは れっきとした《けんか》です。もし 理由やその結論をみちびいた筋道を示さないのならば あなたの発言じたいが  ◆ 何かを知ろうとする態度から、相手を否定し、自己の意見を通そうとする姿勢に移ります。  けっきょく  ◆ 「質疑→議論→口喧嘩」と進むにつれ  ☆ あなたは 意味のない喧嘩になってしまうというようですが これほど人間を侮辱し冒涜した発言もないと言うべきでしょう。それほど自信のないということを自覚していることは いいことかも知れませんが それは あなただけのことです。持ちこたえることのできる者が このカテで対話をおこなっているのです。  さもなければ そういう人は去って行きましょう。    あるいはぎゃくに言えば 持ちこたえることに あなたのように 自信のない者がいたとします。いた場合 その人もここに参加しています。ならば その人が持ちこたえることのできる人になるよう みなで助け合う。さもなければ 確かに哲学カテも ただの百科事典の場となります。哲学を何と心得ていましょうや。

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    投稿するカテゴリーに迷いました。 「メンタルヘルス」?「心理学」?ひょうっとして 「社会学」かも・・・なんて。 私は喧嘩することができません。 一般には「喧嘩」は「起点」であって「終点」ではない。 「破壊」ではなく「建設」だという意見が大半のように感じます。 そんなことは頭では分かっていても、気持ちがついてきません。 少しでも批判的なことを言われると 心臓がバクバクし、身体がワナワナとなります。 「相手に自分のことをわかってもらいたいから」・・・ けれどもそのような手段としての喧嘩(口論?)が、 私には関係の幕引きになってしまうのです。 「分かって欲しい相手」=「分かっていない私」 という方程式が私を苦しめます。 ホイッスラーという画家は、 「この小さな一枚の絵を否定することは私のこれまでの全人生を否定することだ!」と言ったといわれています・・・ これは独特の感じ方で理解を求めるのは困難ですが、 私には、「部分否定」ということがわかりません。 ホイッスラーの言葉を借りれば、「お茶の飲み方」を否定(注意)されたということは、 「私という人間全体を否定されたこと」になってしまうのです。 相手に対しても同様の考えがあるので、相手の一部を否定することは相手の存在を否定することと思い、嫌なことも口にはしません。 更に言えば・・・人を矯正しようとは思いません。 相容れない考えを持つ者と関わることの意味がわからないからです。 それが夫婦であっても、友達であっても、親しい関係の者であっても、 (しかし皮肉なことに私には以上のことからパートナーも、友達も、 親しい人もいません・・・) 「ヤマアラシジレンマ」という言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。 2匹のヤマアラシがお互い暖をとる為にくっつこうとするのですが、 お互いの針が刺さって近づけない。 何故こんな風に考えてしまうのか自分でもわかりません。 言いたいことも言わず、相手の批判に耳を塞いで生きるのに疲れました・・・ http://okwave.jp/qa3138021.html

  • 大人の喧嘩

    その時の感情で、一人の人を批判して陰口を言ったり、また仲良くなるとその人を褒める・・そして堂々と仲良くするってどういう心理でしょうか? マンションの友達で喧嘩をしては仲良くなり、仲良くなっては喧嘩を繰り返している人たちがいます。 喧嘩をしたときは、相手のことを批判、また陰口攻撃。仲良くなったら平気で毎日お買い物。 40歳を超えた大人・・どういう心理なんでしょうか? そのいざこざというか、陰口がお互いの口から私の耳に入ってきます。「また!」と言ってあしらっても ひつこく言ってきます。「ちょっとこの人たち幼稚じゃない?」って主人と話をするのですが男の人には あまりわからないようで・・。 変に巻き込まれて私のこと言われたら嫌なので 対処方法ってないでしょうか?

  • 存在の受け容れを優先し 批判を先送りすべきか?

     母は 誰れをも その出会いから受け容れていました。家をおとづれる人は誰をも もう自分の家が恋しいというところまで歓待しました。  八方美人であるかも分かりませんが その人の嫌なところ・つまりあまりにも目立って合わせづらいところに目をつぶっているわけではありません。  おそらくまづは その存在を受け容れている。その人全体を歓迎している。そしてそのあと 互いの嫌なところは 互いに直して行きましょうという態度だったと思われます。  ところが この姿勢であると けっきょくずるずるだらだら死ぬまでその限りなき包容がつづきます。  ことに哲学の話になるなら なっても 全体としての存在の受容が優先され 対話はすすみません。  つまり それぞれ互いに相手の考えを理解してそれらを尊重するといった段階にまですすむことさえも まれになります。  学問というのは 先人の理解を理解したあと そこにも疑問が生じたなら 自由に大胆に問い求めて行く。先人や先輩との思想上のけんかをも経て行くいとなみなのではないか?  互いに相手の存在をとうとぶからこそ――人格の全体を受け容れ これを愛するからこそ―― 考え方で意見の一致しないところについては 互いにそれを問い質す。自由に批判しあう。  もし批判をしないなら――まれに意見が完全に一致するという場合もありましょうが―― それは互いに相手の存在を無視しているという結果になるのではないか?  嫌っているというのではなく――嫌いというなら まだ大きく全体としての愛の範疇にふくまれましょう―― すでに存在および人格をないがしろにしてしまっている。  けんかをしないということは まだ人格およびみづからの思想が出来上がっていないからか もしそうでなければ 人間という存在を放棄したい・つまりはその自然本性としての自由意志を脱ぎ捨てたいと言っているにひとしい。のではないか?  これは ゾンビであると考えられます。すでに死んでいます。いかがでしょう?  もし相手の意見のほうが――経験相対においてですが――ただしいと思ったなら そのように扱わなければならない。その意志表示をおこなって初めて人間は人間である。  【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4803472.html

  • 理にかなった批判、吟味の方法、哲学、考え方

    私は仏教徒の家に生まれ育ち、 「この信仰は正しい、正しい」と言われ、 なんとなく仏教を信じてきたのですが、 最近、自分の信仰に疑問を持ち始めました。 今まで自分の信じてきた信仰、 また、自分にとっては未知のものである世界の主だった信仰、思想、哲学を、 自分なりに吟味、批判し、疑ってみて、 最終的にどうしても疑いきれなかったものを、 自分の信念、信仰、または思想、哲学として選びとろうと思っています。 信仰、思想、哲学の「理論的、観念的部分」と、 その信仰、思想、哲学が実際の人生、社会に影響を及ぼす、 「現実的影響面」の両方を吟味してみたいです。 そこで 「ものごとをうのみにするのではなく、批判、吟味する方法」 を説いた人、哲学、学問体系などがあれば教えてください。 特に具体的な著作名を教えて頂けるとありがたいです。 客観的に見て絶対に正しく、 万人が納得できるような哲学や思想、信仰、真理はないかもしれませんが、 せめて、精一杯、吟味、批判してみた上で、 自分なりに納得できる信仰や思想、哲学を抱きしめて生きていきたいのです。 どうか、力を貸してください。 よろしくお願いいたします。

  • 人がうたがうのは おのれの思いや考えと違うからだ。

     疑問質問を投げかけるのは 自己主張でないものはない。  ――と知るべきである。  その自己主張をやめよという自己主張は ほんとうにはあり得ない。生きるのをよせと言っていることでしかないからである。  多少とも自己主張がよわまっているという場合がある。それは 自分の考えが成熟していないときである。  けれども どの場合にも 人はつつしんでおのれの疑いについて晴らしたいと思っている。ゆえに問いかける。  もしこれをしないという人は すでにすべてを知っているということになる。  そのことを指摘してやるのだけれど 耳を貸さない。ゆえに放っておくしかなくなっている。それだけである。  成熟した思想を持っている場合にも 人それぞれであり 世の中には互いに違った考えがある。だから 互いに自由に自己主張をおこない合い その交わりの中からよりよい方法を編み出してゆく。  これしか おのれと社会のためになる道はないではないか。  何を血迷ったことを 人びとは言っているのだろう。  ご教示ください。  * まったく知らないことについておしえを乞うのは おのれの考えをつくる前段階のことである。  哲学以外のカテでは そのような前段階にとどまる質問がありうる。  いわゆる価値判断をひかえてまづ事実認識に徹するという段階のことでもある。  哲学もその認識作業の段階で とどめるべきだというのも 自己主張である。  だから 互いに交わりを持って その結論を模索しなければならない。  さもなければ全知の人が その答えをずばりと明らかにすればよい。  ただし《全知》の人の言うことが すべてただしいとは限らないというのが 人間のおもしろさではなかろうか。  

  • 哲学って何のためにするのでしょう?

    哲学は真理を垣間見るためにするのでしょうか? それとも、少しでも世の中の役に立つためにするのでしょうか? 人々に思想を提供するためにするのでしょうか それとも自分がどう生きるか 自分の人生観、世界観のためにするのでしょうか? 哲学は何の役に立つのでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • ハガキに写真を印刷する際に、左右の余白がずれている問題について相談します。
  • 製品名はDCP-J940Nです。ハガキに写真を印刷すると、左が4mm、右が2mmの余白がずれる問題が発生しています。
  • ドライバーの再インストールを試しましたが解決しませんでした。どのように接続されているかや関連するソフト・アプリについても教えてください。
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