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日本人は太平洋をどう認識してきたのですか

日本海や、東シナ海だと、行く手には外つ国がある―― という意識は大昔からあったでしょう。 でも、それこそ無限に広がる太平洋の場合はどういう風に考えて来たのでしょう? 海の果てには何がある、と我々の先祖は思ってきたのでしょうか。

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  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

何にも思っていませんし、何も考えていません。海は広いな大きいなというだけ。古来より海は日本人にとって和歌の題材であったに過ぎません。海は海であって、東シナ海だと太平洋だのと区別していたわけでもありません。 海に限らず、日本人にとっては花鳥風月は文学の題材であったというだけです。 西洋では天動説地動説論争や地球球体説や地球平面説がありました。 ところが日本人は古来から、そういうことには全く関心がありませんでした。何にも考えてないのです。日本の歴史においては、誰一人として天動説も地動説も地球球体説も地球平面説も唱えた人がいないし、ましてや論争など全くなかった。興味も関心もない。それが日本人であり、それが日本の歴史です。

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回答No.4

日本人に限らないですが、ほとんど自分の行動範囲と、周りの人や来訪者の話から、イメージを描くのです。 それらがない場所や遠方については、考える手がかりもないし、考える必要もまったくありません。だから、遠方や情報のないところについては、何も考えないし、具体的っぽいイメージは持ちません。 それは、昔も、今も、今後も、神戸でも、丹後でも、日本でも、イタリアでも、ロンドンでも同じです。 私も、もしも、粘土を渡されて世界のイメージを縮小造形しろと言われたら、地球は球形に造るけれど、あとはかなりいい加減です。自分のいるところから10km圏を描けと言われると非常に困ります。50km圏だと、ポツポツとしか描けません。ポツポツ以外の白紙の部分はどうなっていると聞かれたら、想像で、こっちには海があり、この方向には街が続き、この方向は山だねというような感じになります。日本地図を何度も見たことがあっても、そんなものです。 アジア、ヨーロッパ、米国に行ったことはあるし、シベリアの上を飛んだことがあっても、いますんでいるところから北の方に行くとどうなる、30km、80km、170km、340km、980km、2300km、5600km、12300km、27000km辺りといわれても、誤差30%の許容があっても、回答できません。 自分の知っているところは、生活圏や行動圏ですから円形に広がるのではないです。 http://www.kyougoku-do.com/maphistory.htm http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9C%B0%E5%9B%B3#.E5.8F.A4.E4.BB.A3 宗教が出てくると、その世界観が混じって、遠い果てには壁がある、滝で落ちる、何もないなどの見解が混じってきますが、普通の人は、自分が知っている範囲のことを延長してそれが続いていると思います。 例えば、北には山があればその先にも山が続き、東には岬の先に海岸が続けばその先にも延々と岬や湾や海岸線が続いていき、西には平野や砂漠が繰り返し時々人が住んでいればそのようなことが続き、南には海洋があり時たま島があると知っていれば似たような状況が続くと思うのでしょう。 延々との延々について、いつまでも考えるのは、普通ではありません。 一、十、百、千、万、億、兆、、なにか続くだろうとは思っても、名前まで考えるのは普通ではないです。頭上、1km、100km、1000km、、、、どうなると考えるのも、足下ならば、10m、100mも考えるのは普通ではないです。 微小な方向でも、1mmの100分の1、、、 分子や原子、電子のことを知っている人でも、大きさを言える人、イメージしたことのある人はまれです。 無限や果てというのではなくて、ずー~と手前でも、自分の生活や経験からかけ離れたことは考えたり、イメージしたりはしません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それから、別件ですが、日本人の多くが太平洋と考えている場所と、他国の人がパシフィックオーシャンと考えている場所は違います。 (日本海は太平洋と言わないのなら、フィリピン海Philippine Seaの範囲は、太平洋ではないです) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Philippine_Sea_location.jpg  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 古い時代でも、海を生活の場としていた人々は、内陸で山間に住む人、海辺の農村で生活する人とは、南方や東方の海について持っているイメージは違うでしょう。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.3

以前裏日本という言葉が存在して(今も使うのでしょうが)、日本海側は表玄関ではないとの認識がありましたが、古代から近世にかけては逆に日本海側が表玄関で、海外との交流は東シナ海を含む日本海側が主流だったことをその当時主張している人がいました。 そのようなことを思い出してしまいましたが(余談ですいません)、古代では太平洋の先に常世の国または理想郷があると考えられてきました。これは海の彼方にある他界で、太平洋または南の海上にある世界と考えられました。海上他界は少彦名の神話から考えても熊野だけではなく出雲の彼方、つまり日本海にもあった(浦島太郎の説話からも)と考えられますが、日本海側は現実的な交流の場にもなっていきましたから、他界との認識は薄れて行ったのではないでしょうか。そのため、海上の彼方にある常世の国や補陀落などは太平洋上、もしくは太平洋でも南方の海上にあると認識されるようになったのではないでしょうか。 さて、三内丸山遺跡のは発掘結果から、黒潮の流れを利用して、ミクロネシアなどとの交流を主張する学者がいます。ただ、琉球弧を利用して島伝いの交流であった可能性も高いとされています。 常世の国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E5%9B%BD 他界 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E7%95%8C 補陀落渡海 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%9C%E9%99%80%E8%90%BD%E6%B8%A1%E6%B5%B7 以上、参考まで。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.1

少なくとも考古学的にポリネシアやミクロネシアの人々と日本人との間に交流があったと思われるものはありませんね。 ただ、メキシコには縄文式土器と思われるような土器の出土があるそうで、メキシコの研究者が日本の研究者に対して共同研究を呼びかけたことがあるそうですが、日本側の返答は「ちょwwwメキシコに縄文土器ってwwwどこのFラン研究者www」とロクに話も聞かずに断ったそうです。まあ日本古代史研究者のヨソ者嫌いって相当らしいですから。 ただ、仮にメキシコに縄文土器が行ったとしたら、千島列島からアリューシャン列島を伝ってアラスカ伝いに伝わったであろうと予想されます。 ただ、クックがハワイを訪れたときに、ハワイの人々が自分たちが使う刃物のことを「サシミボウチョ」「デバボウチョ」と呼んでいたということが記録されています。 江戸時代に船が台風などで難破することはしばしばあり、あの大黒屋光太夫はアリューシャン列島まで流されたのですから、中にはハワイまで流された人がいるかもしれないという可能性はありますね。とはいえ、あの茫洋たる太平洋のド真ん中でハワイに流れ着くなんてどれだけある意味幸運だったんだろうかとは思います。大黒屋光太夫は親潮の影響でアリューシャン列島に流れ着いたのですが、冬になるとアラスカからハワイに向かって潮が流れるそうで、そういうルートならハワイに流れ着く可能性はあるとは思います。よくその間生き残っていたなというのはありますが。 >海の果てには何がある、と我々の先祖は思ってきたのでしょうか。 さて、それを聞く術はもうありませんが。「宇宙の果てには何がある」と我々が思っているのと同じことではないかなと思います。つまり、ごく一部の人は真剣に考えるけど、大多数の人は「さぁ、なんだろね。想像もつかないや」で流すんじゃなかろうかと思います。一般的には「神様の国がある」とかなんとか思っていたんじゃないかしら。

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