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明治時代、新潟県の人口が多い理由。
1887年(明治20年)から1892年(明治25年)までの新潟県の人口は日本一です。 その理由は、Wikipediaによれば 「この時期は、都市化が進んでおらず、日本人の9割近くが農業によって生活を成り立たせていたため、収穫高が大きい新潟県は人口涵養能力が高かった」 ということです。 江戸時代、高田藩や新発田藩の石高がそれほど多いとは思えません。 「新潟県」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C#.E4.BA.BA.E5.8F.A3 新潟県の人口が多い理由はなぜでしょうか。 よろしくお願いします。
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表高 実高(内高) 現米 実際の生産量 というような基準値があります 各大名における経済規模というのは上記の三つがある 表高 = 将軍家への奉公の基準 実高 = 領民への課税の基準 内高とは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%AB%98 この内高に対して徴税した数値が 現米とか蔵米 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%B1%B3 大名家では、この現米を正確に抑えています、なぜなら大名家の税収額となるからです。 実際に、明治の初期の華族制度設立の時には、この現米量で、ランキングされています。 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/07/post_516.html 各大名家の自己申告だったはずです 寛永期では 表高 ≒ 実高 ≒ 実際の生産量 ∝ 人口 江戸時代中期になると、元禄期くらいまでの高度成長によって表高と実高の乖離が生じるが、それでも 実高 ≒ 実際の生産量 なので、おおまかな傾向値としては実高と人口が正の相関関係を持つ。 明治六年の人口というと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E6%88%B8%E7%B1%8D これだと思いますが、これは「戸籍地人口」なので、遺漏があり、厳密に論議をできるものではないと思う。 夏目漱石の本籍地が一時的に、一度も住んだことのない北海道だったりすのが明治ですから
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- tanuki4u
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http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html 国別実高 石高という場合、家格としての石高と実際の収穫=実高≒人口というのがある。 家格としての石高は、ほぼ大名家の位置が決まる寛永期頃の実高となります。 なので 長岡藩のように 石高 7万4千石 実高14万以上というところもある http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%97%A9 国別石高の一覧表にあるように 越後は 寛永 40万石 実高 115万 佐渡が 寛永期 2万石 実高13万石 となっております 江戸期の増加率が大変高いのは、新潟 というように、潟 が多く、干拓しやすい環境にあったからです。
- isa-98
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>新潟県の人口が多い理由はなぜでしょうか。 間引きしなかっただーけっ! つ^_^)つ
お礼
ごもっとも!座布団1枚。 旨いコメの飯食って 子作りに励み…。
- kuroneko3
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ウィキペディアに書いてあることは間違いではありません。現在の新潟県にあたる地域は,豊富な雪解け水を農業用水として使えることから農業に適しており,多くの人口を養うことができました。新潟県の面積は全国第5位であり,単純に面積が広く農耕に適した平地も多かったという説明も可能ですが。 現在の新潟県は旧国名でいうと越後と佐渡にあたりますが,越後の龍と言われた上杉謙信が,ライバルの武田信玄と違って戦争ばかりしていても財政難に陥らなかった(上杉謙信が死んだ後,春日山城には多額の黄金が残されていた)のは,当時の越後が経済的に豊かであったことを示しています(上杉謙信は佐渡を支配下に置いておらず,金山が収益源であったという説は現在では否定されています)。 なお,江戸時代の越後は,一つの藩によって統治されていたわけではなく,明治維新の時点で越後には10個の藩があったほか,会津藩の支配下に置かれていた地域もありました。高田藩については領主の入れ替わりが多く,幕末まで存続した榊原家は15万石でしたが,徳川家康の六男松平忠輝は75万石(うち越後の領地は63万石)でした。 よって,(幕末に存在した)高田藩や新発田藩の石高から新潟県の人口を推測するのは誤りと言わざるを得ません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「この時期は、都市化が進んでおらず、日本人の9割近くが農業によって生活を成り立たせていたため…」という前提でwikipediaには書いてありますが、合点がいかないので質問しました。 私の頼りない知識では、 越後平野の稲作は、昭和20年代でも「田舟」を使うような湿田が多いので、耕地面積は広くても、反収は少ないと思っていました。 明治の治水技術では、信濃川には勝てず、度々氾濫しています。 また、謙信は、永禄3年から10年までに8回関東へ侵攻していますが、秋の収穫期に侵攻し、そこで越冬して、春の終わりころから夏の初めに帰国していますね。 私も、大筋としては、米の生産量が高いから人口が多かった、と思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「諸国実高一覧」は大変参考になりました。 「実高」を「石単位」で表示できるほど細かく知ることがなぜできるのか、また新しい疑問が出てきました。 この表による石高に、明治6年の人口(別資料)をあてはめますと、 越後、佐渡合わせて実高128万石で、新潟県人口144万人です。 出羽151万石で、山形、秋田県合わせて人口122万人です。 陸奥293万石で、青森、岩手、宮城3県の人口156万人です。 寛永期の実高に明治初期の人口を対比させるという私の調べ方が乱暴であるのかも知れませんが、新潟県の人口は、東北5県に比べて突出して多いと思います。 まあ、屁理屈と言われたらそれまでですが…。 「この時期は、都市化が進んでおらず、日本人の9割近くが農業によって生活を成り立たせていたため、収穫高が大きい新潟県は人口涵養能力が高かった」のであれば、東北5県の場合はどのように説明すればよいのだろうか、と考えています。