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人を信じたい

Maylinの回答

  • Maylin
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回答No.14

tricleoreさん、おはようございます! まだ締め切られていないようなので、参加させて頂きます。 私はあなたよりず~っと年上の女性で、若い男性とは物事を考える視点が違うのですが、あなたの質問の内容がとても気になりました。 これも何かの縁でしょう。 あなたは学生?それとも社会人? 誰にも頼らず、自分ひとりの力で生活をされているのですか? あなたは本当に孤独なのですか? 家族もいないし帰る家もないというわけではないのでしょう? それは孤独ではなく、孤立というものではありませんか? >僕は昔から人のことが信じられません。 その若さで昔からなんて… 子供の頃からということですか? あなたがそうなってしまったのには、何かキッカケがあったのですか? それとも、自分が置かれている環境の中で、そのような感情が積み重なってしまったのでしょうか? あなたが自分を守るために、心のドアを一気に閉めてしまったのか、少しづつ閉めていったのかはわかりませんが、ご丁寧に鍵までかけてしまったようですね。 そして、その「カギ」をなくしてしまったのではありませんか? カギをなくしたあなたは、感情がぎっしり詰まったその重いドアを動かせません。困りました… 今のあなたはそのドアの前に座り込んで、どうしようかと考え込んでいるようですね。 ドアを開けるのは恐いけど、開けてみたい。でも今は開けたいけど、開けられない。開ける方法がわからない。 閉ざされた心に住み慣れたあなたは、このままドアが開けられなかった時のために、自分自身に対する言い訳まで考えていますね。 でも、それはあなたの本意ではないでしょう? 鍵を壊すか、ドアを壊すか…手っ取り早い方法ですが、それだけリスクも大きいでしょう。 時間がかかっても、どこかにあるはずのスペアキーを探しに行きますか?別の出口を探しますか? それとも…ドアを叩いて助けを求めますか? どちらにせよ、行動を起す準備はもう出来ているようですね。 あとはあなたが立ち上がるかどうか…ですよね?! あなたは自己主張がうまく出来ないと思っているようですが、そんなことはないですよ。 Web上で匿名の特殊な環境ということもありますが、自分の悩みを他人に打ち明けました。 そして、あなたのためにたくさんの人がここに集まってくれて、コミュニティが出来上がったのですよ。 その中心にいるのは誰でもない…あなたです。そこにはあなたがしっかり存在しています。 これもあなたが心のドアを開けるステップのひとつになったことでしょう。 どのような形でも、人と対話して自分と違う意見に耳を傾けようとしたのですから…ね。 これだけ多くの人達が見返りを期待せずに、あなたを応援しているのですよ。 人は無意識のうちに「自分の物差し」で人や物を測ろうとします。 人によって、その物差しの長さは違います。 それは個人が持って生まれたものではなくて、物差し=人生経験ではないかと私は思っています。 社会に出れば、イヤでも人とかかわらなくてはなりません。 それが良い事であっても、悪い事であっても必ずあなたにとってプラスになります。 時には人に振り回されたっていいじゃない、見返りがなくてもいいじゃない? 人は人とかかわり合い、泣いたり笑ったり怒ったりしながら、さまざまな経験を積んでいくものです。 人は自分で痛みを知って、初めて人の痛みもわかるのです。 今のあなたの短い物差しで、何を測ろうというのですか? 結局、人間は理屈じゃ語れないのです。 あれこれ考えるのはもうそのくらいにしましょうよ。 あなたのお話から受ける印象として、普通に生活している分には何も問題がないように思えます。 ただ、同年代の人達とのコミュニケーションがうまくとれないだけではないですか? 自分は他の人達と同じレベルではないというようなプライドの高さが邪魔をしてるのかしら…? プライドの高い人ほど、いろいろなことで悩むものですよ。 でも、性格なんてそう簡単に変えられるものではありません。 それより、自分のいる環境から変えてみてはどうでしょう。 行きつけのお店を作って、そこにいる人達(お店の人や常連さんなど)と短い会話を楽しむことから始めてもいいでしょう。 CDショップやレンタルビデオ店、喫茶店やコンビニでもどこでもいいのでは? 同じ人と何度も顔を合わせていれば、自然と挨拶から会話に進むものです。 他にも、床屋さんを美容室にしてみるとか、今まで着なかった色やデザインの洋服を着てみるとか… 人は外見を変えて自分を演出することも出来るのですよ。 結果を考えずに何かを始めてみることが今のあなたに必要なことのように思えます。 >だれか、この複雑に絡み合った僕の腐った心の糸を解いてくれるような人はいないでしょうか。 そんなものハサミで切ってしまいましょう。 将来、あなたがふと立ち止まった時に、「自分の人生は何だったんだ?」と問うのではなく、 どんな状況であっても「これが自分の人生なんだ!」と胸を張っていてほしいと思います。 長くなってしまって、ごめんなさいね。 最後まで読んでくれてありがとう!

tricleore
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とてもイメージし易かったです。 何処にいても孤独感を感じ、胸が張り裂けそうです。世界とコミュニケーションを取り戻すために、少し粗い方法をとってしまうかもしれません。僕は人を傷つけたくないと考えているのですが、何もしなくても傷つけるものは傷つけるし、迷惑なものは迷惑なので、あまり神経質に考えないようにしたいと思います。 具体的なアドバイスもありがとうございました。

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