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江戸時代の大金の移動手段について

享保年間の経済事情について調べています。 庶民が千両、江戸から大阪へ移動して商売をする場合、為替は利用できるのでしょうか。 どうぞ、教えてください。

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  • ベストアンサー
  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.1

庶民が、千両箱運ぶとなるとガードマン役の浪人を口入屋に頼むとか とんでもない話になるので、やはり 越後屋(三井)か鴻池屋(三和)の江戸支店など、信用おける両替商に千両預けて、 為替くんで、肌身離さず持って大阪行き、大坂(江戸時代は 坂 でした)行き、 必要分、現金化することになるでしょう。為替化することで金銀両替の手間も最小限にできます、

daliya
質問者

お礼

ありがとうございます。 また、 >>>大坂(江戸時代は 坂 でした) これは何のことなのでしょうか。 大阪ではなく、ただ、 坂 と呼ばれていたのでしょうか?

その他の回答 (3)

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.4

ええっと、当時もし千両もの大金を持っていたとしたら、その人は結構な大店の主人になりますね。当時庶民(町人)の間では「十両盗めば首が飛ぶ」といわれていましたから、金銭感覚がお分かりいただけるかと思います。 一両が現代のお金に換算すると乱暴にいって十万円くらいみたいですから、単純に計算すると一億円相当となりますね。現代でも「庶民が一億円で商売を始める」といったら、結構な資本金でしょ。年収一千万円くらいの人が銀行に「一億円貸してくれ」といってもそう簡単に貸してはくれないでしょう。 現代でも個人事業主で事業を始めるなら資本金は数百万円からせいぜい二千万円くらいでしょう。 つまりなにがいいたいのかというと、当時庶民が千両もの大金を集めるのは不可能だということです。集められるならそれはもう庶民じゃないよね、結構なお金持ちですよねということです。小説のネタにするかなんなのか分かりませんが、現実味がゼロになるでしょう。 しかも、当時の金貨というのは実物ですからね。今のお金はいってみれば紙っぺらでしょ。でも、金貨は金そのものが使われていますから、実態以上には出回らないわけです。しかも武士は給料を米でもらって、生活に必要なものはその米を売るか物々交換して手に入れていたわけです。金本位主義じゃなくて米本位主義経済だったわけね。 しかも金の流通量には限界があったから、実質的には銀を主流にしていたわけです、特に大坂(「坂」というのはこういう意味です。当時は「大阪」じゃなくて「大坂」だったのです)ではね。 ところが幕府の財政難と銀そのものも不足してきたという現実があって、幕府は「一分銀」というすごいお金を作ってしまうのです。まあ一分銀は天保年間の話ですけれども。 江戸時代の経済って、調べるとなかなか面白いのですが、どういうわけか我が国の経済学を勉強している人たちは歴史がお嫌いなようで誰も江戸時代の経済を研究しないし、歴史学者たちは経済に疎いので「江戸時代はね、貨幣経済が広まったんですよ」程度の認識です。 ちなみに当時の武士階級の経済への認識は基本的に歴史学者のそれに近く、「経済とはけしからん行為だ」が基本です。というのは、経済が発達すると基本的にインフレ局面になりますね。ところが、前述したように武士の給与は米で支払われて、それは基本的に(もらえる石高が)上がることはありません。つまり給与は据え置きってわけ。もらえる米の量は変わらなくて、インフレで物価が上昇して米価が下がれば実質の手取り収入はがた落ちになります。だから、武士にとって経済が発達することは「けしからん」のです。

daliya
質問者

お礼

ありがとうございます。 大変、参考になりました。 江戸時代に起業するのは難しそうですね。

noname#148411
noname#148411
回答No.3

庶民は江戸から大坂へ行って商売できませんから 金の移動も無しです

daliya
質問者

お礼

え、そうなんですか? 困ったな。 でも、教えて下さってありがとうございます。

回答No.2

こんにちは。 江戸と大坂、江戸と京都、江戸と堺、大坂と京都、京都と堺・・・などでは「為替」が発達していましたので、庶民は「為替」を利用しました。 また、大きな宿場(例えば、東海道の岡崎宿)などでも「為替」は通用しました。 さらに西の伊勢などでも通用していました。

daliya
質問者

お礼

ありがとうございます。 江戸時代は、とても経済が発達していたんですね。 庶民も為替が利用出来たのは、面白いですねえ。

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